暗殺
フィーア王国南部侯と《黒い狐》の暗殺。
暗殺者集団 《毒蜘蛛》に舞い込んだ依頼のひとつだ。
よくある依頼だが最高難度だろう。
それでも何故か今回は頭が渋々その依頼を受けた。
各地に撒かれた選りすぐりの《蜘蛛の子》に依頼が伝わるのは早かった。
私の他にも十数人は同じ依頼を受けてるはずだ…
依頼の達成は早い者勝ち。
普段フィーア王国の南部に娼婦として入り込んでいた《土蜘蛛》の私も、情報を求めて葡萄街道の道に並んだ。
軍属の人間か、城勤めの使用人が捕まればいいと思ってた。
数人断って場所を変えようと思っていたところに彼が来た。
「よぉ、待ちぼうけか?俺と一緒に飲むか?」
葡萄街道を我が物顔で歩く、身なりのいい男が声をかけてきた。
垂らした黒い前髪の奥には、左右で異なる色の瞳が光っていた。
彼は取り巻きに《トリスタン様》と呼ばれていた。
あぁ、こいつが、と思った。
ヴェストファーレン家のボンボンだ。
「どこに行くの?」
可愛らしい男の好む声で訊ねた。
「《燕亭》、麦酒を飲みに」
「あそこは傭兵と流れ者ばっかりだよ」
綺麗な服着たボンボンのくせに裏の店を知ってる。
燕亭は荒っぽい奴らと安い娼婦の溜まり場だ。
そんな所に行く格好ではない。
「あいつらの方がいい店知ってんだよ。
貴族の行く店なんて高いだけで味なんてたかが知れてんだ」
ボンボンはそう言って銀貨を投げた。
私の様子を見てニヤニヤ笑ってる。
「付いてこいよ、お嬢ちゃん。
今夜は楽しもうぜ」
その言動はいかにも軽薄そうで、口の軽そうな彼から何が情報を引き出せればと近づいた。
仮にも息子だ、何か《黒い狐》の話が聞けると思った。
バカな娼婦を演じて、チップを貰って嬉しい振りをし、男の膝の上で甘えて見せる。
ボンボンも終始ご機嫌で、女と酒を楽しんでいた。
「ヴェストファーレンってヴェルフェル侯の家宰様の?」
「それは親父殿だ」
知ってるよ、確認しただけ…
わざとらしく驚いてみせる。
「名門じゃない?何でこんなとこに来てんのさ?」
「言ったろ?麦酒を飲みに来たんだよ」
「ホントにそれだけ?」
「腸詰も食べに来た。
あんたはそのついでだ」
そう言って美味そうに麦酒を煽る。
彼は本当に取り巻き達と食事を楽しんでいるだけのようだ。
「こんな所で遊んでて親父さんに怒られないの?」
「さあな、俺の金でどこで飯食っても俺の自由だ。
親父殿は関係ねぇよ」
「親父さんの行きつけには行かないの?」
「さあてね、親父殿の行きつけなんて俺は知らねぇな。
しかし、買った女に親父殿の事ばかり訊かれるってぇのは気分のいいもんじゃねぇな…
そんなに親父殿に興味があるのかい?」
「金持ちには興味あるよ、みんなそうさ」
咄嗟にそう答えたものの、危なかった…
この男の機嫌を損ねてもいい事は無い。
「まあ、そういう商売だもんな…」と言って彼は煙草を出して口に咥えた。
黒い巻紙に金の刻印がある。
贅沢な輸入品で《ヴァレンシア》と呼ばれる煙草だ。
惜しげも無く吸うところを見ると、この男はやはりヴェストファーレンのボンボンで間違いないだろう。
それにしても親父の話は一切聞けなかった。
親父とは仲が悪いのだろうか?
途中、店の女将に呼ばれて席を立ったが、すぐに戻ってきた。
私も何なのか知りたかったが、この男はニヤニヤ笑うだけで話そうともしない。
「後でな」と取り巻きに言っていたが、この男の秘密主義な様子を見て、是が非とも内容を確認したい気になった。
きっと重要な情報だ…
親父にも伝えることだろう。
必ず口を割らせてやる…
食事を終えたトリスタンを安宿に誘ったが、ヘラヘラと笑って断られた。
「馬鹿言えよ、どこの誰が使ったか分からねえベッドでやるなんて真っ平御免だ。
俺はキレイ好きなんでね」
「じゃあ、どこでするのさ?」
「ヴェストファーレンの屋敷まで来いよ」
驚いて耳を疑った。
「本当に?」と確認すると、彼は煙草を吸いながら「付いてこいよ」と答えた。
「親父殿は留守だがな」と言ったのが気になった。
「何で?」
相変わらず彼は「ちっと野暮用でな」くらいにしか答えない。
随分勿体付けで喋る男だ。
「女って生き物は知りたがりだな…
でもあんまり深く首突っ込むと、伸ばしたうなじをたたっ切られるぜ、お嬢ちゃん」
相変わらず口元に嫌な笑みを浮かべたまま、彼は私に警告した。
ふざけた様子で「やだぁ、こわぁい」と笑ってみせる。
でも残念…これから痛い思いをするのはあんたの方さ…
「トリスタン様、よろしいので?」
赤毛の長髪の男がトリスタンに確認した。
どうやら彼の取り巻きは私を連れ帰るのに反対のようだ。
「大旦那様から勝手が過ぎるとお叱りを受けますよ」
「良いだろ?今に始まったことじゃねんだ。
あっちでいい事無かった分、ここで楽しんでもバチは当たらねぇだろ?」
「やれやれ…大旦那様に叱られるのはあなた一人にして下さいよ…」
「冷たいじゃねぇか、一緒に怒られろよ、アルフレート」
嫌な顔で黙り込んだアルフレートの肩を、別の顎髭を整えた若い男が慰めるように叩いた。
「あんたも大変だな、アルフレート」
「何で他人事なんだ?
お前もだ、エバーハルト」
「いやいや、俺は辞退させてもらう」
エバーハルトと呼ばれた男は、はっはと笑いながら髭を触っている。
「お前らは地獄まで俺の面倒見てもらう予定だからな」とボンボンも笑ってる。
どうやら彼はかなりの問題児のようだ。
「我々の世話も焼いてくださいよ」
「やなこった、貧乏くじ引いたと思って諦めな」
世話役たちに悪態ついて、彼は私の肩を抱いて歩き始めた。
眠らない街の灯りが昼間のように辺りを照らしている。
吊り下げられた灯りは葡萄の房のように連なって、夜闇を拒絶していた。
その光の中を、この不敵な笑みを浮かべた男は、まるで自分のもののような顔で闊歩していた。
✩.*˚
《蜜蜂》に先を越された…
情報源としてヴェストファーレンの縁者を狙っていたのに、他の《土蜘蛛》に先を越されてしまった。
今から依頼対象を変えるのも面倒だが、《剣鬼》は望み薄だ。
依頼を考えると、《黒い狐》か《一角獣》、《盾の乙女》のいずれかに対象を変えるのが得策だろう。
手柄を立てなければ金は入って来ない。
仕方ないとため息を吐いて一行を見送った。
薄暗い路地から煌々と灯りが灯る葡萄街道に歩き出す。
どこにでも居る商人の姿で《燕亭》に入った。
何も知らないふりで驚きながら店の女将に訊ねた。
「女将さん、何だいさっきの御一行様は?」
「ヴェストファーレンさ」と女将は当たり前のように答えた。
この街で、この土地で、その名を知らない者は居ない。
「あれは息子の方だよ。
成りは立派だけど親父さんほどの器ではないね」
「何しにきたんだい?」
「高い料理に飽きたんだろ?
注文は?」
金を落とさない客は客じゃない。
冷やかしにならないために、何処にでもあるありきたりなものを注文した。
「オニオンパイと腸詰、エールを貰おうか」
「あいよ」
彼女は前金を受け取ると厨房に戻った。
戻ってきた彼女の手には湯気を立てた料理とビアジョッキがあった。
すぐに用意された料理が机に並ぶ。
「あんないいお得意様がいるなんて羨ましいよ」
「野良猫みたいにふらっと来て、ふらっと帰っていくだけだけどね。
どうでもいい世間話をしに来るだけさ」
「へぇ、どんな話をするんだい?」
「つまらない話で忘れちまったよ。
忙しいから行くよ、ごゆっくり」
彼女はそう言って他の席に呼ばれて行った。
なかなか食えない女将さんだ。
口が硬いのは良い事だが、《蜘蛛》からすればやりにくい相手だ。
まだ馴染みきってないということか…
しばらく《燕亭》に通うことになりそうだ。
✩.*˚
しくじった…
いつからバレてた?分からない…
ボンボンだと思って舐めてたが、とんでもない獣の嗅覚を持った男だった。
部屋に通されるなり、ベッドに座っていた彼は私を《蜘蛛女》と呼んだ。
「言ったろ、俺はキレイ好きなんでね」
煙草を燻らせながらトリスタンが笑う。
「目の前にやべーもんがあったら掃除したくなる。
それが《蜘蛛の巣》なら片付すまで気になって仕方ねぇんだ、性分ってやつさ」
ヴェストファーレンの邸宅に通されて、まず湯を浴びるように言われた。
その間に服を片付けられ、隠してた暗器を失った。
毒針を隠していた髪留めも外すように指示された。
裸同然で部屋に通されたが、待っていた男は私を抱く気はなかったらしい…
「何の話か分からないわ」
否定する声は震えていた。
今までこんなヘマはやらかしたことがない。
目の前の餌に釣られて焦ってしくじったのだ…
逃げるか、この男を先に始末するか悩む。
後者は今の状態では難しかった。
「あたしは身体を売るだけの女よ」と言うと、トリスタンは煙草の煙を吐いて低く笑った。
「へぇ…でもあんたの白粉の匂いは随分板についてないんだな。
その割に俺と同じ悪い奴の匂いが染み付いてる」
顔にかかる前髪を掻き上げると、彼の青と赤茶の瞳が狼のような光を放っていた。
「十二の娼婦の方がもっと白粉の匂いが強かったぜ。
勉強不足だな、《蜘蛛女》」
「だから何?」
「何で俺があんたの名前聞かなかったか分かるかい?
ベッドの中で呼ばないからさ、必要ない。
名前を知ると情がわくだろ?」
「狙いは俺じゃなくて親父殿か?」と言ったが答える訳にはいかない。
「知らないわ、そんなんじゃないもの…」
「もうその無駄な芝居は止めろよ、鬱陶しい」
灰皿に煙草を捨ててトリスタンがベッドから立ち上がった。
「ちゃんと囀れよ、《金糸雀》みたいに目的を喋って仲間を売ったら窓から放してやるよ。
俺だって暇じゃねぇんだ。
親父殿が帰ってる前にラーチシュタットに帰らないとまた小言を言われちまうからな」
子供みたいな理由で私に自白を強要する。
私だってまだ死ぬ気は無い。
《蜘蛛》の秘密を喋ればどうなるかも知ってる。
「…見逃してよ」
女の声で泣き崩れて見せた。
相手の動きが鈍る。
でも逃げるにはまだ足りない。
さらに哀れを装った。
「もう何もできやしないでしょう?
こんな格好で誰を殺せるっていうの?
お願いだから見逃してよ…」
そう言いながら最後の武器を確認する。
使えるかどうか分からないがやるしかない…
「泣くんじゃなくて囀れよ。
そしたら…」
手の届く所まで男が歩み寄った。
素早く身体を覆っていたリネンを脱いで相手の首を狙った。
本当なら殺すつもりはなかったが、仕方ない。
リネンで力いっぱい男の首を締め上げた。
この男を殺して、そのまま窓から逃げるつもりだった。
生きてんなら裸でも構わない。
死ね!誰か来る前にさっさとくたばれ!
リネンを締め上げているあたしの背中に、冷たいものが触れた…
「何?」ゾッとしてその冷たい物を確認した。
白い手…女の手…
気持ちの悪い、黒に縁どられた赤い視線と目が合う。
床に引き摺るような、長い真っ直ぐな髪の女が私の背に縋り付いていた。
『あたしの…男…』
金属を擦り合わせるような、キンキンと響く奇妙な声が女の口から洩れた。
女の声が頭に響く。
掴まれて無茶苦茶に揺さぶられる様な感覚で、全身の力が抜ける。
ヤバい!リネンが解けた。
「《狂女》、こんな所で騒ぐな」
『トリスタン!トリスタン!』
女の声が騒ぎ立てた。
窓のガラスが震え、ガタガタと悲鳴を上げながら割れた。
頭に響いて手足に力が入らない。
目眩を覚えてその場で吐いた。
「《狂女》、助けるならもうちょい淑やかに助けてくれよ。
今回は何枚やらかした?」
纏わり付く女の幽霊か妖精を宥めるトリスタンは、何も感じていないらしい。
女の霊が伸びた魔剣を手にして、靴音が私に近付く。
音だけは妙に鮮明に聞こえてくる。
「…残念だ」
声が上から降ってきた。
「あんた可愛いから、本当に逃がしてやろうと思ってたんだぜ…俺も甘いよな…
親父殿にバレる前なら何とでもなったのによ。
あんたこの仕事向いてないんじゃねえか?」
騒々しい物音がしてトリスタンの言葉を遮った。
「トリスタン様!何事です?」
家の者が異変に気づいて駆けつけたらしい。
一気に部屋に人の気配が溢れた。
「…見たまんまだ…そっちは?」
「動けなくなった使用人が数名出ました。
あと、窓にヒビが…」
「俺は悪くないぞ」
「言い訳なら大旦那様にして下さい」
「トリスタン様、お怪我は?」
「何もねえよ」と彼は嘯いた。
「何も無ければ《狂女》は騒ぎません」と言われても「そうか?」などとしらばっくれてる。
女に首を絞められたと知られるのが嫌なのか、それとも私を庇っているのか…
縄をかけて連れて行かれる時、トリスタンと目が合った。
あの男はは少しだけ残念そうに笑っていた。
✩.*˚
「何でまだここに居る?」
アインホーン城に戻ると、何故かまだトリスタンの姿があった。
また頭痛がする…今度はなんだ…
「親父殿にちょっと話があったんでね」
「なんだ?」
「謝罪と報告とお願いがあるんだが、どれから聞きたい?」
そう言って自分の煙草を差し出した。
受け取って火を貰う。
「どれも聞きたくないと言いたいが、煙草を吸ってる時間くらいは聞いてやる」
すっと通る柑橘の香りの煙草を口に含んで、ため息と一緒に煙を吐き出した。
トリスタンは大事な話がある時は必ず煙草を勧めてくる。
そういう時はだいたいいい話じゃない。
「葡萄街道で昨日 《毒蜘蛛》を捕まえた」
「…殺したのか?」と問うと、トリスタンはへらへらしながら「いいや」と答えた。
「いや、これがなかなかいい女でね…
処分するのが惜しくて持って帰っちまった」
「バカか?まさか私の屋敷に連れて帰ったとか言わないよな?」
「だからそれが謝罪だ」
口ではそう言ってるが反省してる様子はない。
もう一回くらい串刺しにしてやろうか?
「そんなに睨むなよ、親父殿…
ちょこっとだけ…マジで少しだけ《狂女》が粗相しちまった。
窓ガラスが少し割れて、使用人が二、三人休みを取ったが他は何も無い」
「十分だろう?」
《狂女》の魔剣に取り憑いているのは、音の魔女 《イゾルデ》の魂だ。
普段は出てくることは無いが、所有者に危険が迫ったと《狂女》が判断すれば魔女の幽霊が顕現し、強烈な金切り声で襲ってくる。
だから折檻する時はこの魔剣を取り上げて厳重に封印する必要がある。
正直言ってかなり面倒くさい…
「で?元気そうだが、どこをやられた?
怪我は?」
「なんともねぇよ。
親父殿から受けた傷の方がまだ痛むくらいだ…」
相変わらずへらへらしながら煙草を口に運んでいる。
「本当か?」と問い詰めたが、息子はその質問には答えなかった。
「そんなことより、《毒蜘蛛》は一人では仕事しないんだろ?
まだあんた狙われてるぜ」
「確かに…あいつらはしつこいからな」
狙われたのは今回が初めてではないが、《毒蜘蛛》は必ず複数人の刺客を用意して放つ。
《土蜘蛛》と呼ばれる現地人に混ざっていて、見分けがつかないので非常に厄介だ。
「お前を襲った女はまだ生きてるのか?」
「屋敷の地下に放り込んである。
他に何人いるか訊いたが答えなかった。
俺は親父殿みたいに惨い真似できねぇしな…
ウィルがなんて言うか分からねぇけどよ、侯爵の護衛も増やした方が良いんじゃねぇか?」
そう言われてすぐに返事が出来なかった。
問題はウィルじゃない…侯爵の姿をしたカッパーだ…
「…検討する」
「なんだよ?あいつの事心配しねぇのか?あんたらしくないな…」
歯切れの悪い返答にトリスタンが食い付いた。
「ヘイリーに何かあったのか?」
「ちょっと体調が悪いだけだ」
「ほぉん…そう?」
トリスタンはふざけた返事をしてまた煙草を出した。
「あと、《燕亭》の女将が、愛しの親父殿に会いたがってたぜ、行ってやんなよ」
「レギーナか…
しばらく《燕亭》にも顔を出してないな…」
「行ったら面白い話が聞けるぜ」とトリスタンが、へへっと笑った。
「《金の巨人》が《黒火龍》と一戦やらかすかもってよ」
「…ほぉ…ゴルドベルクか…」あの静かな国は盲点だったな…
フィーアの北部も荒れるのか?これは厄介だ…
「《頑固な老人》と《金の巨人》は恐らく蜜月だと女将は言ってたぜ。
どうするよ?」
「お前が心配する事じゃない」そう答えて靴底で吸い終わった煙草の火を消した。
「もう行く」
「待てよ、お願いがまだだ」
トリスタンが立ち去ろうとした私を引き止めた。
「あんたに預けた《蜘蛛》は殺さずに放してやってくれよ」
「何をバカなこと…」
お願いっていうのはできることを言ってもらわねば困る。
それは到底無理な話だ。
「私は《蜘蛛》は見つけ次第殺せと教えたはずだ。
あいつらは矯正不可能だ。
必ずまた殺しにくるぞ」
「俺が引き取る。
親父殿には世話はかけねえよ」
「どんないい女か知らんが、それだけは諦めろ」
「どうしてもか?」
「くどい…もう行く」
尚も食い下がる息子を置いて歩き出す。
随分長居をしてしまった。
仕事が山積みだ…
《毒蜘蛛》の件もある。
ウィルとカッパーにも警告しければならない。
ゴルドベルクの件も確認しなければ今後面倒になりかねない。
総合的に判断して今後の対策を練らねば後手に回る。
捉えた《蜘蛛》の命なんて知ったことか…
「親父殿!」トリスタンの声が背中に飛んだ。
「俺じゃなくて、ヒルダが頼んだらあんたは聞いてくれたのか?」
悲しいことを言う…
少しだけ足が重くなった…
出来の悪いお前に腹を立てたことは沢山あったが、意外と私はこの手のかかる子供みたいなこの男が好きだった。
手を離せばどこまでも飛んで行ってしまいそうな、そんな自由な男は若い頃の自分に似てる…
「…少し休んでラーチに戻れ」
「親父殿!」
トリスタンの声が背中に追い縋ったが無視をした。
耳に残ったあの声に、僅かに胸が傷んだ。
「俺になるな、トリスタン」
そんな呟きが漏れた。
お前はまだ、人を殺す時に心が動くんだな…
人の命が数にしか見えなくなった私とは違うのだな…
まだ彼は人間を辞めてないのだ、と少し安心した。




