生きる
全く…今日はあっちが引っ込めばこっちが出っ張る。
これはどういう状態なのだろうか?
「私の執務室はデート場所じゃないぞ。
痴話喧嘩なら尚更御遠慮頂きたいな」
「…ごめん、アンバー」
バルコニーに居た二人を室内に回収すると、ペトラは泣いてるし、ミツルは何か救いを求めてるような目で私を見てきた。
ただの痴話喧嘩では無さそうだ。
「間に入らないといけないようなことかね?」
「…そうしてくれると助かる」
「ミツル様が悪いんです!」
ペトラの声にミツルが肩を震わせた。
叱られた子供のように丸めた背中を見て、何となくミツルの分が悪いことは理解した。
「座って話そう」と二人にソファを勧めると、ミツルとペトラは微妙な距離をとって座った。
面倒くさいな…
「で?あまり聞きたくないのだけれど…
原因は何かね?」
「僕が悪い…僕が泣かせた…」
「どっちが悪いじゃなくて何があったのか聞いてるんだがね…」
これ長くなるのか?
そう思いながら二人からの返事を待った。
少し落ち着いてペトラが口を開いた。
「ミツル様は…私がエルフだから、自分は人間だから一緒になれないって…」
「今更だな…」
なんで今になってそんなこと言うんだ?分かりきってた事じゃないか?
「酷いんです…
別れ話を切り出しながら、私に《好き》とか言うんですから…」
「はぁ…それは確かに酷いな…」
下手くそか?
いや、上手でも困るが、正直すぎるのも考えものだ。
誰かにお節介を吹き込まれたのかもしれないが、確かにミツルは乙女心を全く分かってないようだ…
「ごめん」としか言わないミツルをペトラが睨んだ。
女の子は口が達者だからな。
このままじゃミツルが一言も喋らないで終わってしまいそうだ。
「まあ、ぺトラ、落ち着きなさい。
ミツルの話も聞こう…
ミツルはなんでそんなこと言ったんだ?」
「…ごめん」
「謝らなくていい。
君の事だから、何の理由も無くそんな事を言うとは思えない。
悩んでる事があるなら言ってごらん。
私は怒ったりはしないから」
私が促すと彼はボソボソと話し始めた。
「…僕は人間だから」
「うん、そうだな」
「僕は…エルフみたいに生きられない…」
「そりゃそうさ、人間だもの…」
そんな事で悩んでたのか?真面目すぎやしないか?
私が首を傾げると、ミツルは不安を口にした。
「僕が彼女を置いて行ってしまうから…
ペトラの人生に責任を持てない…
僕は彼女にはふさわしくない」
そう言うとミツルはボロボロと泣き出した。
彼は誰にも言えなかったんだろう。
ミツルは優しいから、心のどこかでずっと引っかかってたのだろうね。
確かに君はペトラに釣り合うような美男子でもないし、最強の戦士でもないし、賢者と呼べるほど賢くもない。
どちらかと言うと不器用だし、細かいことは気にしないし、センスだってそんなに良くない。
魔法だって使えない。
知ってるよ、そんなことは…ペトラだってよく知ってる…
だけど彼女は君を選んだんだ。
「…それで?それだけか?」
私の問いかけに彼は泣きながら、うん、と頷いた。
「君は真面目すぎるよ」と私はふふっと少し笑ってしまった。
「笑い事じゃないよ」とミツルは言った。
そうだな、笑うような事じゃない。
「ペトラ、ミツルを許してやりなさい」
「…嫌です」
「嬉しいじゃないか?
お前との未来を見てくれているんだから…
私は嬉しいよ」
空っぽの胸の中で暖かいものを感じる。
幸せな感情だ…
「ミツルがペトラのことを真剣に思う気持ちは分かったし、私はそれを知れて良かったと思う。
でもね、それは君の考えだから、ペトラの気持ちも知って欲しい」
私はそう言ってペトラに「どうかな?」と問いかけた。
彼女はまだ怒った顔をしていた。
「ミツル様は酷い人よ」
「まあ、そう言ってやるなって…
好きなんだろう?」
「私だって…人間の方が先に歳をとることくらい知っています。
生きてるからお別れしなくちゃいけなくなることだって…知ってますよ…分かってます…
ミツル様が私を選んでくれなくても、それはそれで仕方ないと思ってます…
でも、《大好き》になったから別れようは違うんじゃないですか?」
「うん…それはミツルが悪いな」
「それならちゃんと《嫌い》になって下さいよ…
こんな…こんなに惨めな気持ち…ないわ…
受け入れれるわけないじゃない…」
ミツルは相変わらず「ごめん」と謝っている。
「ミツル、他に言うことがあるんじゃないか?
謝ることも大事だがね、ペトラが本当に欲しいのは君が彼女をどう思っているのかだよ。
ちゃんと応えてあげないとダメだ」
二人の手を取って繋がせる。
自然と向かい合う形になる。
逃げるなよ、君は勇者だろう?
「ごめん、ぺトラ。
勝手なこと言って、君を傷付けた」
ミツルがぽつりと自信のない声で言った。
「君の気持ちは嬉しいけど、僕はやっぱり自信が無い…
だって…たまたま僕が、君が大変な時に助ける役だっただけで…
君の欲しがってた言葉を伝えただけで…
それで好意を持ってもらえるなんて都合良すぎる」
「それでも、私は貴方がいいんです」
ペトラの声は少し柔らかくなっていた。
「ミツル様は自分で気付いてないだけです。
救われたのは私だけじゃない…
皆、優しい貴方が好きなんです。
貴方は貴方が思ってる以上に立派な勇者です。
そして私の愛する人です」
「ありがとう」とミツルは答えた。
「分かったら、やり直してください…」
「うん…」彼は鼻をすすりながら涙を拭った。
「やっぱり僕は君が好きだ、ペトラ…
僕は頼りなくて、優柔不断で、君たちよりはるかに短い寿命の人間だけど…
僕と一緒に生きてくれる?」
「最初からそう言ってくれたら良かったんです」
ペトラがそう言ってため息を吐いた。
口元が少し緩んだ。
「随分遠回りしちゃった…ごめん…」
「私も手を上げて申し訳ありません」
「ビンタって初めてだけど、結構痛いんだね」
ミツルがそう言って少し笑った。
もういいかな?私はお邪魔かな?
「仲直りしたらさっさとペトラの部屋に戻りたまえ。
君達が戻らないと、ルイとベティが部屋から出れなくて困ってるはずだ。
あと、娘と恋人が睦み合っている姿を父親に見せるのはどうかと思うね」
「ごめん、アンバー」
ミツルはまた謝ったが、少し表情が緩んでいていつもの調子に近かった。
二人で手を繋いだまま、「行こう」と彼女に声をかけた。
ペトラも微笑んで立ち上がる。
何だ、仲良しじゃないか…
「犬も食わない喧嘩の仲裁はもうしないからな」
「分かったよ、ありがとう」
「全く、死んだことも無いくせに…
つまらないことで悩むのは君らしいが、みんなどうせ遅かれ早かれ死ぬんだ。
死ぬ事で悩むなら、生きるために悩みたまえ」
全く、手間のかかる子供達だ…
部屋から出ていく二人を見送って、少しだけ昔のことを思い出した。
彼女に会いたくなって《無限の皮袋》を取り出した。
中から古びた首飾りを取り出し眺めた。
昔、私が妻に贈ったものだ。
首飾りは持ち主を失って私の所に戻ってきた。
形見の品を片手に窓辺に立った。
「シェリル…君の好きな満月だよ…」
煌々と輝く満月が雲ひとつない空から見下ろしている。
彼女は私の入れるハーブティーが好きだった。
月夜の晩にテラスで一緒に紅茶を飲んだ。
煙草を吸うと嫌な顔をした。
『アンバー、長生きできないわよ』
そう言っていた君の方が私より先に逝ってしまった…
人生とは不思議なものだ…
『今度は何をするの?』
彼女はそう言って、私が次に何をするのかいつも知りたがった。
取り立てて美人でもなかったが、素朴でおおらかで優しい女性だった。
『あなたが何をしても、私はもう驚かないわよ』と言う彼女は良い母親で、私が居なくても子供達を立派に育ててくれた。
「アーロン、セシル、エリオット、アビー、クラリッサ…どの子達も私と違ってしっかりしてた…
アドニスは誰の子だろうな…?」
五人の子供達の名前も彼らの孫たちの名前も覚えてる。
でももう誰一人としてこの世には残っていないだろう…
私は長く生きすぎた…
出会いもあったが多くを見送ってきた。
この呪われた旅路はまだ終わらない。
まだまだ、理想には程遠い…
私は首飾りをそっと元に戻した。
懐にしまって、骨だけになった手で服の上からそっと触れた。
「君のところに行くのはまだ当分先だ…
いつも待たせてばかりで済まないね…」
私の独り言に『いいのよ、アンバー』と彼女の声が聞こえた気がした。
✩.*˚
「こんな時間になんだよ、親父殿。
あたしは重傷者だよ」
ヒルダはそう言ってズカズカと部屋に上がり込んだ。
全く、三十路を超えた女性がそんな大股で闊歩するな。
「そんな元気な重傷者があるか?
まあ、座れ」
「それより親父殿、煙草ないか?あんたなら持ってるだろ?」
「馬鹿言え、肺に穴空けたやつが何言ってる!」
「好きで空けたんじゃないよ」
そう言って伸ばしてくる手を払った。
ヒルダは舌打ちして私の斜向かいに乱暴に腰掛けた。
「…イッテェ…」
「怪我してる時くらいもう少し淑やかに座れば良いものを…」
「どの椅子も座る位置が低いんだよ」
右肩を抑えながらヒルダがボヤいた。
それは言えてる…
彼女は並の男なんか遥か下に見下ろすほど背が高い。
それでいて均整のとれた肢体は引き締まっていて、女性らしい丸みもある。
彼女は確かに女性だ。
しかしその事実を彼女自身が認めたがらなかった…
女であることは彼女にとってマイナスの要素しかない。
『ミスター、あたしを買っておくれよ』
彼女と交わした初めの言葉。
煙草を咥えた私に春を売りに来たのは幼い少女だった。
すらっとした背の高い少女はみすぼらしい服を着てたが、なかなかの美人で、豊かな金の髪とオリーブの瞳が目を引いた。
『悪いな、人探しに来たんだ。
他を当たってくれ…』
彼女の申し出を却下して、私は煙草の火を消した。
金で子供を抱くなんて気持ち悪い…
軍隊に慰安婦はつきもので、私自身も世話になったことはも一度や二度じゃない。
彼女らも必死に生きている。
彼女らは何も好きで身体を売ってる訳では無い。
仕方ないのだ…私のような人間が彼女らを否定することは出来ない。
それでも私が嫌悪を覚えるほど彼女は幼すぎた。
『お嬢ちゃん、君は幾つだ』
私の質問に彼女は露骨に嫌な顔をした。
訊かれたらまずい年齢なのは確かなようだった。
最初は『十五』と答えたが、もう一度確認すると『十二』と正直に答えた。
慣れてる様子を見ると、私に初めて春を売りに来たようではなかった。
『あんた身なりが良いから金あるだろ?
ちゃんとするから買ってくれよ』
『分かったよ、ほら』
銀貨を一枚彼女に握らせた。
『さっきも言ったが、人を探しに来たんだ。
その金は情報料でいい。
子供だ、男の子、名前はイザーク…知らないか?多分君と同じくらいのはずだ…』
私の言葉に彼女は『知らない』と言って金を突き返してきた。
やけにあっさり返してきたので逆に私が困ってしまう。
『知らないなら知らないでいいさ、それはもう君のものだ』
『いらない…』
『じゃあ前払いだ、見つけたら教えてくれ。
私はしばらくこの駐屯地に居るからまた会う機会もあるだろう…
私はヴェストファーレンだ。
君の名前は?』
『イルゼ…ただのイルゼだよ』彼女はそう言って燕のように軽やかに身体を翻して立ち去った。
彼女が立ち去るのを見送って、また煙草を咥えた。
手元から視線を上げると、彼女は他の男に捕まっていた。
何か話して彼女が頷くと、男は彼女の腕を掴んで物陰に連れ去った。
腸が煮えるような怒りを覚えて、彼女に手を差し伸べなかったことを後悔した…
イルゼはイザークを知っていた。
彼女は自分の稼ぎでイザークにパンを与えていた。
彼は大人達に混ざって傭兵達の中で剣を振るい、殺し合いに参加してた。
誰からも教えられてなかったのに、《祝福》も使いこなしていた。
イザークは天才だった。
二人を引き離すのが忍びなかったので、私はそのままの二人を引き取り、ヒルデガルドとトリスタンの名前とヴェストファーレンの姓を名乗る権利を与えた。
驚いたことに、ヒルダも《祝福》に気付いてないだけで《祝福》を授かっていた。
能力を認知した彼女はめきめきと頭角を現し、トリスタンに並んだ。
トリスタンは天賦の才能だか、ヒルダは努力とセンスで彼に追い付いた。
長かった金の髪をバッサリと切り、彼女は髪と一緒に女を捨てた。
トリスタンが彼女に突っかかるようになったのはその頃だ…
何かと彼女を目の敵にするようになり、喧嘩が耐えなくなった。
彼女はそんなトリスタンに付き合っていた。
無視すればいいのに、彼の怒りを消化するためにわざわざ相手をしている。
女に戻って欲しいトリスタンと、彼の隣に立ちたいヒルダの思いが交わるわけが無い。
平行線のまま二人はこれからも歩んでいくのだろう…
「親父殿?」
昔の事を思い出しているとヒルダが怪訝そうに眉を顰めて声をかけてきた。
「すまん、疲れてるだけだ…」
「歳かね?」
「あぁ…そうだな…」
昔の事など思うのは年寄りのすることだ…
煙草を咥えて火を点けた。
黒い巻紙の煙草の先が赤く灯り、チリチリと灰になる。
指先に挟んだ煙草にヒルダの長い手が伸びた。
「もらい」彼女は笑いながら煙草を攫った。
「行儀が悪いぞ」
「油断した親父殿が悪い」
そう言って吸いかけの煙草を口にする。
紫煙を吸い込んで彼女は渋い顔をした。
「不味い…」
「お前、そりゃいつもお前が吸ってる甘ったるいのとは違うからな…
カノッサの高級品だぞ」
輸入品だから多くは出回らない高級品だ。
価値も味もお子様には分からんだろう。
「きっつぅ…おっさんの匂いだわ…」
「嫌なら吸うな」
「親父殿とキスしたらこの味か?
渋すぎるだろ?」とヒルダが茶化した。
煙草の火が明るくなって灰になる。
慣れたように煙を吐き出す姿は堂に入っている。
返して貰えそうにないので、諦めて新しい煙草に火を点けた。
「で?何で呼んだんだよ?」と訊かれて「あぁ」と応じた。
「明日、トリスタンの隊を先にラーチシュタットに帰らせる」
「知ってるよ、そんなことか?」
「私は三日後にアインホーン城に戻る。
お前は重傷だからしばらくアーケイイックに残れ」
「煙草は?」
「禁煙しとけ」
全く…煙草なんて教えるんじゃなった…
不機嫌になるヒルダを無視して話を続ける。
「療養するのはお前だけじゃない。
侯爵もアーケイイックの預かりになる。
お前はウィルの代わりだ」
「はあ?!聞いてねぇよ!」
「今お前に初めて言ったからな。
誰にも言うなよ」
「親父殿が居れば間違いはないだろうが、侯爵不在なんてどうやって誤魔化す?」
「それはお前の心配することじゃない。
お前は一ヶ月くらい療養してろ」
「一ヶ月…ヘイリーと?ウィル無しで…
《黄金の妖精》が暴走したらどうすんだよ。
あたしは黄金にされるのはごめんだよ」
ヒルダも《黄金の妖精》の事は知っていた。
その恐ろしさも知っている。《黄金の妖精》に触れられれば彼女とて無事ではいられない。
「何かあればあの魔王様が何とかしてくれる」
「そんなに信用して良いのか?
言っちゃ悪いが、あたしはあんな底の知れない化け物信用出来ないね」
まあ、言いたいことも分からなくはないが…
私が黙っていると、ヒルダはさらに言葉を続けた。
「自我を持たないはずのアンデットなのに、なんであの王様は人間みたいなんだ?
まるで生きたまま骨になったみたいじゃないか?」
「その辺は知らないが、昔の高名な錬金術師だったそうだ。
人間だった時の名前は教えてくれないがね。
何かの実験にでも失敗したんじゃないか?」
「侯爵が骨になって帰ってきても、あたしは責任持たないからね」
彼女はそんな縁起でもないことを言った。
たしかに…それは考えてなかったな…
「まあ、何はともあれ一ヶ月侯爵を頼む。
例の手袋もあるから大丈夫だろう」
「へいへい、分かったよ…
親父殿の頼みなら断れない。
何とか上手くやるさね」
そう言って彼女は吸殻を灰皿に捨てた。
「一ヶ月分煙草くれよ」
「…仕方ないな…
ズュースでいいんだな?」
煙草の銘柄を確認すると彼女はさらに「それのバニラがいい」と注文をつけた。
「後で届ける」と約束するとヒルダは機嫌良さそうに頷いた。
「さっすがぁ、モテる男はちゃんと見てるねぇ」
「知ってるさ、お前の親父だ」
「あと、三本くらい恵んでくれよ」
仕方ないな、と煙草入れから三本取り出して渡した。
彼女はニンマリと笑って「ありがとう」と言った。
彼女はそのまま長い指に煙草を挟んで「寝る」と言って席を立った。
煙草をケースに入れずに持ち帰ろうのしたので呼び止める。
「私がやった煙草入れはどうした?」
「…あー、あれね」
気まずそうに視線が泳ぐ。
壊したのか無くしたのか…
彼女とトリスタンがラーチシュタットの守備に付いたときに記念で贈った品だ。
銀と漆の筐体に夜光貝の螺鈿で雲雀が描かれた一級品だ。
「気に入った奴にやった」と彼女は言った。
「なんだと?」
「他に礼をする物がなかったからそれを渡した。
あたしが気に入ったいい男にくれてやったんだ」
「…なるほど…そんなにいい男なのか?」
「気前もいいし、綺麗な顔の割に肝も座ってる。
お偉いさんの割には、あたしの行儀の悪さも目を瞑ってくれる良い奴さ。
残念なのはあたしより背が低いことかな…」
そう言ってヒルダはクスリと笑った。
お前より背の高い男を探す方が大変だ。
「まぁいい、どうせお前にやったものだ。
お前の好きにすればいいさ」
煙草が湿気て風味が落ちるのが勿体ないが、吸うのは彼女だ。
今度煙草を届ける時に新しいのを用意してやるか…
部屋を出ていく彼女の背を見送って、私は新しい煙草を手に取った。
知らない男に連れていかれないといいけどな、という思いが頭を過る。
つまらない考えを紫煙と共に吐き出すと、煙は揺らめいて空気に溶けて消えていった。
✩.*˚
寝る前に左手に手袋を嵌めた。
魔法を遮断する《黄金の妖精》を封じるための特別な手袋だ。
寝てる無意識のうちに、触れたものを金に変えることはいまだにある。
「今日は満月だね」
窓の外を見て、「そうですね」とウィルが頷いた。
彼はあれからずっと機嫌が悪い。
話しかけてもどこか上の空で、歯切れの悪い返事しかしない。
寝るのに邪魔な右手の義手を外してもらい、用意されたベッドに腰掛けた。
あの親切な不死者の王様は随分良いものを用意してくれたようだ。
広いベッドは贅沢なシルクのシーツとクッションが用意され、肌触りのいい羽毛の掛布団は薄くないのにふかふかで軽かった。
このベッドは一人で寝るには広すぎた。
「マウス、一緒に寝ないのかい?」
ウィルを呼んだが彼は答えなかった。
まるで拗ねた子供のようだ。
「君はあと二日もすれば帰るんだろ?
いじけたまま、カッパーを連れて帰るのか?」
「…帰らないって言ったら?」
「師匠が君を半殺しにしてでも連れて帰るだけさ」
あの人は怖いからな…
目的の為なら手段は選ばないし、すると言ったことは必ずする人間だ。
私もだいぶ泣かされた…
ウィルは『一ヶ月は長すぎる』と師匠に抗議していたがついにその意見が聞き入れられることは無かった。
私の命の期限の話は彼には伏せていた。
言ったら余計に残ると言うだろうから…
ウィルがこんなに頑なに反対するとは思わなかった。
いつもどこかで折れてくれるはずなのに、今回はなかなか折れてくれない。
「マリーは良い子だよ。
師匠は誓約までした。
何が気に食わないんだ?」
「…アインホーン城に戻れば、グレンデルもアーケイイックまでは届かない」
「うん」
ウィルの使い魔のグレンデルは影に潜んで移動できるし、五感を接続して遠隔操作できる。
便利な能力だが、その能力は満月が最大となり、新月には最も弱くなるという弱点を抱えていた。
最大の移動距離でもアーケイイックには届かない。
アーケイイックは遠い…
「貴方の隣で守り支えるのは私の役のはずだ…」
「今回ばかりは仕方ないだろ?
それとも君は私が今のまま苦しんで死ねば良いと思っているのか?
存外、君は…」
私がそう言い終わる前に黒い手が視界に伸びた。
黒い硬い毛に覆われた鉤爪の手。
グレンデルの前足が目の前で止まった。
凶悪な腕はそのまま力なく顔を撫でて消えていった。
「ほら、自分の身すら守れないくせに…
君の方が酷い人だ…」
グルルと唸る獣の声がどこからか聞こえた。
彼はゆっくり私に歩み寄って、ベッドの前に来て膝を着いた。
「今度は右手では済みませんよ、ヘイリー…」
私の顔を覗き込みながら、ウィルはそう言って私を脅した。
「今のグレンデルなら、君が《妖精》を使う間もなく殺せます」
「私の右手を切り落としただけで死ぬ程後悔した君が、私を殺すというのかい?」
「知らないところで死なれるくらいなら、心中するのも悪くないですよ」と彼は言った。
「死なないよ」と私は笑った。
「私は生きるためにアーケイイックに残るんだ。
君はあの時、私の右手を切り捨ててでも助けてくれたじゃないか?
今回は右手の代わりに一ヶ月離れ離れになるだけだ」
少女が差し出した花束に潜んでいた刃は毒が仕込まれていた。
咄嗟に首を庇った右手に、刃の溝から毒が染み込んだ。
すぐに察して『毒だ!』と叫んだウィルが躊躇せずに右手を切り落とさなかったら、私は生きていなかった。
暗い顔した彼に、私は精一杯明るい声で言った。
「ウィル、私は生きるよ。
生きて、君と一緒にゼーアドラーの港に行く。
今度こそ船に乗って沖に出よう。
大きな白い帆の帆船がいい」
「そんなの無理だ」
いつもなら『そうですね』って笑うくせに、彼の本音が洩れた。
彼のくすんだ茶色の瞳が滲んだ。
そうだね、無理かもしれない…
でも、生きていれば叶うかもしれない…
私は自分に残された左手を彼に向かって伸ばした。
それに応えるように、彼の両腕が私を抱き締めた。
お互いの体温を交換した。
「…生きて、ヘイリー…」
祈るようにウィルが呟いたのを聞いた。
私の答えはもう決まっている。
「うん、生きるよ、生きてまた君に抱かれるよ。
君と私の約束だ。
生きて、この先何度でも君に我儘を言って困らすつもりだ」
ベッドが軋む。
また一緒に夢を見よう…
お互いの体温を分かち合って、この歪んだ関係を確かめよう。
そして私はまだ生きてるって確かに知るんだ…




