黄昏
話は少しだけ時間を遡る…
アレン・サッチャーは優秀な魔導師だ。
知識も理解力も応用力も申し分ない。
それでいて向上心もあるので、大賢者であるアンバー・ワイズマンからスポンジのように知識を吸収していた。
彼の一番素晴らしいところは、謙遜な態度であろう。
どれだけ真理に近づいても、彼は傲慢になることは無かった。
「お師匠様、お加減はいかがでしょうか?」
牢に繋がれた元師匠に彼は語りかけた。
長い白い髭を蓄えた老人は手枷足枷に繋がれ自由を奪われていたが、その瞳には知性の光があり、冷たい牢の中でも力を失っていなかった。
オークランド王国の最高齢にて最高峰の魔導師ガリウス・エッセは弟子に向かって口を開いた。
「アレンか…今日も来たのか?
こんな所にご苦労な事だ…」
「エッセ様…
私の家族のために、貴方の知識が必要なのです」
そう言って彼は手製の地図を取り出した。
何枚にも及ぶオークランドの地図は所々抜け落ちている。
彼の限界だ…
「この儂にまで売国の片棒を担がせる気か?
お前は意外と節操というものが無いのだな…」
残念そうにかぶりを振って老人は項垂れた。
彼にとってアレンは期待していた弟子でもあった。
子供の時から才能を覗かせていた彼を、サッチャー家から引き取って後継者の一人として育てたのは彼だ。
それだけに裏切られたという思いは強いのだろう。
「お前は家族のためと大義名分があるやもしれぬが、オークランドに住む多くの民はどうなるのか考えないのか?
その地図が血の海に書き換えられることになるぞ…」
「オークランド王国はもう年老い過ぎました…
その身体は腐り落ちつつあります」
アレンの言葉は辛辣だった。
彼はアンバー・ワイズマンの影響を受けていた。
オークランドを富ませ、全盛期をもたらした大賢者は、現在のオークランドに嘆いていた。
富に固執し、傲慢になった祖国はその貪欲な腕を八方に伸ばして喰らおうとしている。
腹の中には飢えた民を抱え、貧富の差はさらに激しくなっている。
危険を承知で、アーケイイックフォレストに略奪者として入る者が後を絶たないのもそのためだ。
略奪者すら「哀れ」と言うアーケイイックの王は祖国を《生に縋る亡者》と呼んでいた。
「私のようだな」と自嘲しながらそう呼んだ…
「オークランドはまだ生きておる!」
老人のうなじは硬かった。
かつて弟子だった男に鋭い視線を向けて、しわがれた声で一喝した。
「たかだか三十年ほど生きたくらいで全てを知った気になったか、アレン・サッチャー!
貴様の浅はかな考えなど、六百年以上の歴史ある大国を覆すほどのものでは無いわ!
たった数ヶ月魔王に侍っただけで、大恩ある祖国への敬意すら忘れたか?この痴れ者めが!」
「貴方とて同じではありませんか、エッセ様?」
罵られたというのにアレンは冷静だった。
彼は哀れなものを見る目で師を眺め、ため息を吐いた。
「貴方は一時の己の欲のためにアドニス様を利用されました。
そのせいで、オークランドは《勇者》だけでなく、《賢者》も《英雄》も失うことになったのですよ」
エッセが欲しがったのは《ヴォルガの心臓》と呼ばれる強力な魔力を封じた水晶玉だった。
しかし結果として彼は全てを失う事となった…
アレンの言葉にエッセは口を閉ざした。
無口になった師に向かってアレンは独り言のように話を続けた。
「今や私の師はアンバー・ワイズマンです。
彼は我々が忘れた最も大切なことを覚えておいででした…」
「大切なものとな?」
「民を愛することです。
血の通わぬ不死者が皮肉なことではありませんか?
《民無き国を国とは呼べず、民無き王を王とは呼べない。
国でなくとも人は生き、王が無くとも死にはしない。
歴史が人を作るのではない、人が歴史を作るのだ。
歴史というのは後に生きる者達のために、先人が残す最高の贈り物だよ。
そこから学びたまえ》と尊師は仰いました。
あの方は、人を辞めても民を尊ぶ心は忘れていなかった。
オークランドの王や宰相、貴族たちに聞かせてやりたい言葉です」
彼はそう言うと、杖を握る手に力がこもった。
それはアレンの決意を現していた。
「私はもっと早くアンバー・ワイズマンから学びたかった…
時間は無駄にしましたが、私は全身全霊、この命をかけて勇者と魔王を支える魔導師として生きます。
師である貴方をも踏み台にして、魔王の手を取る覚悟です。
オークランドの地図など、アンバー・ワイズマンの信頼を得る材料になるなら安いものだ!」
たとえそれが戦争に使われるとしても、多くの血が流れるとしても、私自身が呪われたとしても、彼らの役に立てるなら本望だ…
「地図が完成しないなら、この地図と一緒に貴方をフィーア王国に引き渡すだけのこと…
どちらにせよ、貴方はもうとっくに詰んでしまっているのですよ、お師匠様…」
アレンの覚悟はもう決まっていた。
あの勇者が聞けば自分を軽蔑するだろうか?
そんな酷いことするなって、彼は私を止めるのだろうか?
そう思いながら牢の中に繋がれた老人を眺めて、彼は黙って老人の答えを待った。
✩.*˚
「ベティ、落ち着いた?」
ペトラ様はお城に戻ってからもずっと私の傍を離れなかった。
ペトラ様はお母様のお姉様で、私を育ててくれた方の一人だ。
優しい手で背を摩ってくれていたペトラ様に甘えてしまっていた。
「…こんな姿…申し訳ありません…」
「謝らないでちょうだい。
私の方こそ守ってあげられなくてごめんなさい」
よしよしと優しく背中をさする手が温かい。
獣人にとってうなじは体で最も神聖な場所だ。
そう聞かされて育った。
私もそう思っていた。
伴侶と交わる時以外は触れさせてはならない決まりだ。
それなのに…
「大丈夫?」
ペトラ様が心配そうに私の顔を覗き込んだ。
「ペトラ様…私のうなじはどうなってますか?」
あの掴まれた感覚が消えない…
気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い…
「ルイ様に嫌われる…」
「そんなことないわ!ベティ!貴方は何も悪くないのよ!」
「私が避けなかったから…
ペトラ様、ルイ様は怒っておいでですか?
私に失望してませんか?」
「ベティ、そんなことないわ!
しっかりして!貴方は何も悪くないのよ!
貴方達は悪くない!絶対に!」
そう言ってペトラ様は私を抱きしめた。
「私だって…人間に…」
「ペトラ様…」
ペトラ様の声は震えている。
ペトラ様は人間に耳を切られた。
最近は一時的にだが、奴隷紋を刻まれて裸にされて拷問された。
そんな屈辱と恐怖と絶望を打ち砕いてくれたのはミツル様だ。
「ミツル様だって知ってるわ、私が人間にされたこと…
でもあの方はそんなこと全く気にもせず、思い出させることも無い…」
そう言って、ペトラ様の私を抱きしめる腕にはさらに力がこもった。
「私はルイを信じるわ。
ミツル様がしてくれたように、ルイがあなたを癒してくれると信じてる。
だから貴方もそんな悲しい事言わないで…
貴方は私達の娘よ、ベティ…」
優しいけど力強い言葉に枯れた涙がまた溢れ出した。
「…ルイ様に…会いたいです」
不器用で力強い腕と、包むような大きな胸に抱きしめられたい…
「気にしてない」って言って欲しい…
ルイ様は、まだ私を「愛してる」って言ってくれるだろうか?
「そうね、もう少し待ってちょうだい。
陛下とミツル様が連れてきてくれるから…」
ペトラ様の声が優しく響く。
泣きすぎたせいで頭がクラクラする…
「少し寝ると良いわ」とペトラ様が微笑んだ。
「昔はこうやって、泣いてる貴方を抱いて寝かせたものね…」
お母様がお亡くなりになった後、しばらくしてからペトラ様に引き取られた。
「おやすみ、ベティ…夢見が悪かったのよ。
次の夢は幸せな夢だから、おやすみなさい…」
ペトラ様はそう言って私を寝かせた。
さらりと風で髪が揺れた。
ペトラ様の精霊は優しい風で撫でてくれる。
目が覚めたら、全部悪い夢だったらいいのに、と思った…
子供の時の記憶が頭を過ぎった。
お母様のお葬式…
陛下に、『誰か知っている人は居るかね』と訊ねられて、ルイ様を指さした。
ルイ様がお母様に会いに来た時、ボールで遊んでくれたから覚えてた。
陛下は『あの人なら怖くないね』と確認して、私をルイ様に預けてくれた。
泣き疲れてた私はそのまま眠ってしまったのだ…
あの腕の温もりを、今でも覚えている…
✩.*˚
「ルイ!いい加減にしろ!」
ミツルが怒鳴っているが、ベティに会いに行くのが怖かった…
「もう少し…一人にしてくれないか…」
彼女に会って、もし拒絶されたらと思うと身体が動かない。
絶対に守ると誓ったのに、目の前に居て彼女を守れなかった自分が情けない…
「何言ってんだバカ!
でっかい図体して、本当に硝子のハートだな!
さっさとベティの所に行くんだよ!」
「ルイ、お節介だが、ミツルの言うことも一理ある。
彼女はお前の言葉を待ってると思うよ」
陛下がそう言って私の肩を叩いた。
「私は…目の前の女性一人さえ十分に守ることの出来ない男です…」
涙が出る…視界が滲んで前が向けない。
「イジイジしてても仕方ないだろ!
ショックだっただろうけど、ベティはもっとショックだったろうし、お前がちゃんとフォローしなきゃダメだろ?
付いてってやるからまずとりあえずこの部屋出るぞ!」
「歩かないなら転移魔法で一瞬でベティの所に飛ばすまでだ」
「えぇ…アンバー、それはちょっと心の準備が…」
ミツルが気の毒そうな視線を向ける。
こんな状態で飛ばされるのはさすがに困る…
「わ、分かりました…自分の足で歩きます…」
陛下は時々無茶苦茶なことをするからな…
二人に連れられて部屋を出る。
「傷は痛むか?」と陛下に訊かれた。
「深手は負っておりませんのでかすり傷です」
「それは良かった」
うんうんと満足そうに陛下が頷く。
「お前から手を出した訳では無いが、結果としてお前自身も手を出してしまった。
そこは責任者として大いに反省すべきことだ」
「面目次第もございません」
「まあ、手を出さなかったら、それはそれで私はお前を叱っていたがね」
そう言って陛下は私の背を叩いた。
「大声で《私の妻》などと言ったそうじゃないか?
気が早い奴だ…」
「いいじゃん、カッコイイよ」
二人で茶化してくる。
全く…とんでもない所を見られたものだ…
「シャルル達がお前の《復讐者》としてフィーア側と一戦やらかした。
私が許可を出した」
「何と!皆無事ですか?」
あの男は私が我を忘れていたとはいえかなり強かった。
部下たちの身が心配だ。
「安心しなよ、オリヴィエがちょっと火傷して、ヴォイテクが少しこんがりしたくらいさ」
「あいつら…」
「お前とベティの名誉のために戦うって言ったのだ、彼らを責めるな。
あと、ヴェストファーレンのお嬢さんにも感謝したまえ」
「…どなたですか?」
「背の高い女の人いたろ?
ヒルダって言うんだけど、あの男と皆が戦ったら死人が出るから、代わりに戦ってくれたんだ。
君らの攻撃を止めた盾使いだよ。
制限時間一時間で、シャルルとオリヴィエとヴォイテクの相手をして立っていられたら許して欲しいって」
無茶な事を言う女だ…
ヴォイテクの《粉砕》は触れるものを全て粉砕する凶悪な攻撃だぞ…
シャルルやオリヴィエだってエドナ様が直々に鍛えた精鋭だ。
「結果は?」と訊ねると、ミツルは肩をすくませて「ギリ負けた」と答えた。
「負けた?あの三人が?」
「…っていうか、ヴォイテクが最後に手を抜いた気がする。
時間は時間だったけど、あのままヒルダを潰せなくも無かったと思う。
《粉砕》を途中で解除したように見えた」
「…そうか」
「シャルルは魔力切れ、《炎拳》でオリヴィエも拳が焼けたから、ボロボロになっても最後までたってたヒルダの勝ちだ」
「ヒルダ嬢は?」
「しばらく安静らしいけど、治療をしたから命に別状は無いらしい。
ヴォイテクの《粉砕》もろに食らったのに立ち上がるとか頑丈だよね」
ミツルがそう言って私を見上げた。
「ヒルダは良い人だよ。
許してやってよ」
「…そうだな」と私は頷いた。
他人のために命を賭けれる戦士だ。
彼女は直接関係ないし、後で礼を兼ねて見舞いに行ってもいいかもしれない。
「皆彼女のことエドナみたいって言ってたよ。
君たちの最大級の褒め言葉だろう?」
「そうか…会ってみたいものだ」
「ベティも連れていくといい。
彼女にも謝りたいって言ってたから」
「分かった、伺おう」
ミツルに頷いてそう答えた。
エドナ…貴女はまだ私達を見守ってくれているのだな…
私はまだ彼女の影に追いつくこともできていない。
私の心を読み取ったのか、陛下は静かに言った。
「エドナはエドナ、お前はお前だよ、ルイ。
私の子供達は皆いい子達だ」
私の背を叩く陛下の手は優しかった。
✩.*˚
ドアノブ…
使い方は分かっているが、ここに来て手が震える。
このドアの向こうにベティがいる…
ペトラ様のお部屋ともあって緊張する。
私が躊躇していると痺れを切らしたミツルが勝手にノックしてドアを開けた。
「ぺトラ、入るよ」
ミツルが先に入ろうとして止まった。
何かと思っていると、彼は振り向いて口元に人差し指を当てた。
「ベティ寝ちゃったみたい…」
そう言って静かに部屋に入って行った。
陛下も入っていったので、仕方なくその後に続いた。
広い部屋の暖炉の前に置かれた大きなソファにペトラ様とベティが居た。
「出直そうか?」と訊ねるミツルにペトラ様は微笑んで首を横に振った。
そして私見て小声で「災難だったわね」とお声を下さった。
「ペトラ様には大変ご迷惑を…」
「そんなことないわ。
私こそ貴方たち二人を守れなくてごめんなさい。
姉失格ね」
ふふっと微笑むペトラ様は優しくベティの身体を撫でていた。
ベティを見下ろす優しい瞳にまつ毛の影が落ちる。
「ベティが不安がってたわ。
貴方に嫌われたんじゃないかって…
そんなことないわよね?」
「もちろんです!私の落ち度です!彼女は何も悪くありません!」
私の返事にペトラ様は嬉しそうに笑った。
「それはこの子に聞かせてあげて。
きっと、喜ぶと思うわ」
ペトラ様は笑顔を見せると「代わってちょうだい」と私に言った。
「身体が凝り固まっちゃったから、ミツル様と少し散歩に行ってくるわ。
留守を頼むわね」
ペトラ様は席を立つと、ベティを私に預けてミツルと腕を組んで部屋から出て行った。
それを見て陛下まで席を立った。
「私もマリーのところに行かなければな…
また後でな…」
皆、薄情だ…
二人きりで残されてどうしたらいいと言うのだ…
膝に寝かせたベティの顔を覗くと涙の跡があった。
彼女には可哀想なことをした。
涙の跡が私を責める。
私は女性を幸せにできるような男では無いのだ…
それでも愛してしまうのだ…どうしようもないダメな男だ…
小さな寝息に合わせて背中が上下する。
小さい背中にそっと手を添えた。
小動物のような体温に愛しさを感じる。
「すまない、ベティ…」
独り言のように謝罪する。
もちろん彼女には届いているとは思っていない。
ただ自分が言いたいだけだ…自分のために言っている。
頭を撫でると、下ろした髪に隠れたうなじに視線が止まった。
彼女のうなじに触れたい…
良くない思いが過ぎるが、頭を振って誤魔化す。
今そんなことをしたら彼女は私を嫌いになるだろう…
愛してるならそんなことすべきではない…
愛しているから触れたいのに、愛してるから触れれないというのは難しいな…
所詮私は臆病者と言うわけか…
ぼんやりと暖炉の灯りを眺めて思い出す。
彼女は私に、エドナの娘じゃなくて、女として見てくれ、と言った。
そうだな…
お前は綺麗になったよ…
私が無視できないくらい綺麗な女になったよ。
何か違和感があったのか、ベティが呻きながら身体を起こした。
手を着いた私の足に驚いて視線をはね上げた。
オレンジの瞳が驚いたように私を捉える。
「起きたか?」
「ルイ様…」
「ベティ…お前と話がある」上手く話せる自信はないがな…
彼女は身体を強ばらせた。
まだ何も言っていないのに、明るい色した瞳がじわっと潤む。
小さな手を握った。
耳を塞いだり逃げたりしないように…
「何も出来なくてすまなかった…
お前に辛い思いをさせた私を許してくれ」
まだ涙が出るのか?干からびてしまうぞ…
「気にしてないと言ったら嘘になる。
それでも私はお前が好きだ、愛してる。
それではダメか?
私達はこんなことで終わってしまうのか?」
「…い、や…いや…です…」
しゃくり上げる彼女はそう言った。
子供のように泣く彼女に向かって両手を広げた。
「お前を抱きしめていいか?」
私の問いに彼女は何度も頷いてくれた。
小さい身体がすっぽり納まる。
「昔…エドナの葬式で、こんなふうに泣いてたお前を抱いた時はこんなにいい女になるとは思わなかったよ」
「…覚えていたんですか?」
彼女は驚いていた。
私は「まあな」と笑った。
なんだ、お前も覚えてるのか…
しばらくして涙が止まると、彼女は少しだけ笑った。
「ルイ様の首元の飾りの毛並みが好きです。
ふかふかしててお日様の匂いがします…」
「そうか?知らなかった…」
知る由もないが…まあ、彼女が好きというなら好きにさせよう。
嬉しそうに顔を埋めるベティを抱きしめると、細い腕が背中に伸びた。
しなやかな腕がしっかりと絡む。
「…いい匂い」
スンスンと鼻を鳴らしてベティの息が首元にかかる。
少しくすぐったい…
「ルイ様」
「何だ?」
「愛してます」
「私もだ」
夕焼けのような瞳が嬉しそうに細くなる。
笑うと少し長い八重歯が口元から覗いた。
「私はまだ未熟者だ…
それでも、こんな私の妻になってくれるか、ベティ?」
彼女は美しい女の顔で「はい」と答えた。
まだ涙が出るのか?
まあ、悪い涙じゃないならそれも悪くないな…
✩.*˚
「大丈夫かな?あの二人…」
「心配するだけ無駄ですわ。
今戻ったら邪魔になってしまいますもの」
僕の心配を他所に、ペトラは笑った。
いつの間にか夕方になって、綺麗な夕日が窓から差し込んでいた。
影が長く伸び、一日の終わりを告げる。
随分濃い一日だったな…
「お腹すきましたね」とペトラが言った。
そういえばそうだな…
結局昼も大して食べれなかった。
「夕食くらいゆっくりしたいね」
「何が食べたいですか?」
「特にないけど、ペトラは?」
「お肉ですかね」そう言って彼女は笑った。
ペトラは意外と肉食だ。
分厚ステーキみたいな肉をペロリと平らげてたりする。
あの細い身体のどこに入っていくのか…
「元気になりますからね!」
ドレスのままガッツポーズをする彼女は可愛い。
美人なのにこういう気取らないところが好きだ。
健康的な褐色の肌にキラキラと輝く活発そうな瞳が煌めく。
細い指の手が伸びて僕の手に触れた。
「こっち」
「どこ行くの?」
「いい所」と彼女は言った。
無人のアンバーの執務室に入って「失礼」と通り抜ける。
バルコニーに出ると彼女は精霊を呼んだ。
鳥のような姿の風の精霊が顕現した。
風の音なのか鳴き声なのか分からない音が辺りに満ちる。
「アリス、私とミツル様を屋根に上げて」
「いっ?!」
内蔵が浮き上がるような浮遊感…
ペトラの精霊に屋根の上に引きずり上げられた。
「あっぶなぁ…」
命綱も何もなし…落ちたら死ぬ…
遥か下に地面を見下ろして、血の気が引いた。
カリオストロの城のルパンの目線…
足にに力が入らない、まるで産まれたての子鹿だ。
恐怖で内蔵が締め付けられるような感じで気持ち悪い。
そんな僕を見てペトラは笑って夕日を指した。
「ミツル様、アーケイイックの夕日ですよ」
彼女の指し示す方に視線を向けると太陽が沈むところだった。
赤い羽衣のような雲を纏った太陽がアーケイイックの山に沈む。
何もかも茜色に染め上げながら太陽は舞台裏に引き上げていく。
太陽を追うように夜の紫が赤に重なった。
一番星が紫の空に瞬く。
空気が少しずつ夜の匂いに変わっていく…
「…すごいね…綺麗だ…」
「特等席ですよ」と屋根のてっぺんに座ってペトラが笑った。
ドレス姿なのにとんだお転婆だ。
スカートがふわりと揺れた。
こんな高い場所なのに風は優しく穏やかだ。
多分彼女の精霊が風から守ってくれているのだ。
「ペトラ、危ないからもう降りよう」
僕が屋根の棟を伝って彼女の傍に寄る。
やべぇ…マジ怖ぇ…ほとんど掴むところ無いんですけど…
「怖がりですね」
そう言って彼女は靴を脱いだ。
器用にバランスを取りながら、屋根の棟を伝って裸足の彼女が僕の方にやってくる。
彼女は精霊が守ってるから大丈夫と知ってるけど、それでもハラハラする。
突如、屋根を伝って歩く彼女の足が滑った。
慌てて手を伸ばして片腕で彼女を捕まえた。
くびれた細い腰は僕の腕の中に引っかかって止まった。
ペトラは少し驚いた顔で僕を見た。
「ミツル様?」
「危ないよ!落ちたらどうするの?
心臓止まるかと思ったよ!!」
「私は大丈夫ですよ」
「僕が大丈夫じゃないよ!」
僕の言葉に彼女はこんな状態なのに嬉しそうに笑った。
「アリス、下ろして」
ペトラが精霊を呼んで、二人の体が風に煽られたかと思うと、すぐに屋根からアンバーの執務室のバルコニー景色が変わった。
彼女を抱いたまま、バルコニーに降ろされたから気まずい…
「…なんか、ごめん」僕がそう言いながら腕を解くと、ペトラは「いいえ」と笑った。
「腕…逞しくなりましたね…」
「そう?必死だったからじゃない?」
「ちゃんと支えてくださいましたよ。
さすが勇者ですね」
「からかわないでよ。
ルイやアドニスに鍛えられたから少しそれっぽくなってきただけだよ。
中身は相変わらずヘタレなまんまだ…」
「ミツル様はそのままでいて欲しいです。
強くなんかなくっていいから…このままで…」とペトラは言った。
その目が真剣で、あまりに真っ直ぐで驚く。
「強くなったら…
きっと、貴方は優しいから、貴方を求める外の世界の弱い人のところに行ってしまう…
それなら弱いままでいいから、私達に守られててください…」
それじゃ男としても勇者としても微妙すぎる…
エメラルドの瞳が不安げに揺れる。
「アーケイイックから…私達から去らないと、約束してください…
何でも、貴方の欲しいものを用意します。
不自由させません、危険な思いもさせません、退屈だってさせませんから…
だから…ここで一緒に…」
「ペトラはエルフで僕は人間だ」
彼女の言葉を遮って、僕は言わなければいけないことを言った。
ワルターに言われてずっと引っかかってた、目を背けていたあの事…
彼女は傷付いた顔をしてて、僕の心も痛んだ。
「君は…もうずっと僕より生きていて、これからも僕が先に歳をとる。
本当なら君は同じエルフと恋をすべきだ」
「…私がお嫌ですか?」
「違う!好きだ!君を大好きになった!
だから言ってる、お互いに違うことを認めないと、君を不幸にするから…僕は後悔するから…」
元の世界に戻るかは分からない。
別に戻れなくてもいいと思ってる。
でも、もし戻ったら?彼女はどうするんだろう?
そうでなくとも、僕がお爺さんになって死んだ時に彼女は人間で言うと何歳なんだろう?
僕のせいで彼女の時間を無駄にすべきじゃない。
そうでなくても、彼女は王女で、次の女王で、すごい美人で、みんなから好かれてて、この国に必要な女性だ…
それに対して、僕は勇者という肩書きしかない…
それしかない凡人だ…
「僕は、君にふさわしくない…」
僕は最後まで彼女の方を向いていられなかった。
彼女がどんな顔をしているのか分からない…
知るのが怖い…
僕はそれ以上何も言えなくなって沈黙した。
さっきまでよく喋っていたペトラも、そこから居なくなってしまったかのように静かだ。
やっと言えたと思うが、言ってしまったと後悔もした。
ヒュッっと風を切る音がして、左頬に衝撃があった。
「ふざけないで!」
ペトラの平手打ちだと気付くのに少し時間がかかった。
左の頬にキレイにビンタされたみたい…
「そんなこと言うなら!私に好きなんて言わなければ良かったのに!
好きって…好きって言ったくせに…酷い人…」
わあっと声を上げて彼女が泣き崩れた。
靴が彼女の手から離れて床に転がった。
「…ご、ごめん…ごめんよ、ペトラ…」
こんなに取り乱すなんで思ってなかった。
彼女は近づいた僕の服をすごい力で掴んで引っ張った。
悲しんでるのか怒ってるのか…とにかく彼女は泣いていた。
僕が泣かせた…
「私は貴方が…貴方がいいのに…
今更無かったことにしろって言うの?!
私は…私の気持ちはどうなるの?!」
「ごめん」
「なんで《好き》って言ったの?
なんで嘘でも《嫌い》って言わないの?
ミツル様は狡いわ!嫌われたいなら私に優しくしないで!謝らないで!」
彼女の言うことは尤もだ。
「ごめんなさい…でも、君が好きなんだ…ごめんなさい」
伝え方が悪かったのだろうか?
恋愛経験のない僕にとってはこんな時どうすればいいのか分からない。
目の前で泣いてる彼女に手を差し伸べるのも、謝ることもダメだって言うなら、僕は他に何をすれば彼女に許してもらえるんだろう?
途方に暮れている時に、不意に気の抜けるような声がした。
「そんな所で何してるのかね?
風邪をひいてしまうぞ」
声のした方を向くと彼がいた。
アンバー…どうしたらいいか教えてよ…
僕は何が正解か分からないんだ…
✩.*˚
「おい…生きてんのか?」
部屋から抜け出してトリスタンの所に顔を出した。
見張りから止められたが無理やり通った。
「親父殿、なかなか恐ろしい折檻をする…標本の虫みたいだな…」
石柱に磔にされているトリスタンの右の胸には、白い長い槍が貫通している。
背からつきぬけた槍は、石柱とトリスタンを繋いでいた。
「俺らの親父殿はイカれてるぜ…」
ゴボゴボと苦しそうな声でトリスタンが呻いた。
苦しそうな割には少し嬉しそうだ。
「親父殿は…衰えないな…安心したぜ」
「なんだい?意外と元気じゃないか?」
キレイに右の肺だけ潰してる。
死なない程度に済ますのはさすが親父殿だ。
生かさず殺さずの程度で治療もしてある。
「テメェの汚ねぇケツは親父殿とあたしで拭いてきたよ。
礼の一言ぐらいあってもいいんじゃないかい?」
「俺の獲物だった…」
「バカ、こっちはいい迷惑だよ」
「…やられたのか?」
「仕方ねえだろ。
あたし一人で一時間攻撃を防ぎ切る約束だ。
やべぇ熊の一撃をもろに食らった。
他はちょっと腹を抉られただけだ、すぐ治る」
防御力と治癒能力が高いのがあたしの《金剛》の能力だ。
お抱えの治癒魔導師の治癒魔法で粉砕骨折した肩と肋を無理やり繋げた。
肺も骨を治すときに一緒に治癒したが、癒着しないように緩めに魔法をかけている。
ともすればまた傷が開く。
安静と言われたが、守る気はほとんど無かった。
肩から右腕を固定され、肋を守るコルセットで身動き取りにくい。
「…左手だけじゃ煙草を吸うにも苦労する…」
ポケットから煙草入れを出して、マッチを点火するのに苦労してるとトリスタンが手を差し出した。
「…《リヒト》」
小さい炎がトリスタンの掌に灯る。
下級の炎魔法だ。
「…ほら…火ぐらいあるぜ」
煙草を咥えたまま顔を近付ける。
チリチリと先っぽが燃える音がして火が点いた。
「ありがとよ」
「気にすんな、詫びだ…」
トリスタンがそう言って少し笑った。
紫煙を吸い込んで少し噎せた。
右の肺が痛んだが気にせず煙草を咥えた。
「あたしはしばらくこっちに逗留する。
つまんねえが、アーケイイックで療養だ…
お前は明日にも送還される」
「…しばらく喧嘩もできねえな」
「遊び相手が居なくて寂しいか?」
「馬鹿言え、こんなデカくて下品でうるせぇ女、居なくてせいせいする」
喋りすぎたのかトリスタンが激しく咳き込んだ。
苦しそうに血の塊を吐きだして静かになる。
「死んだか…?」
「うっせえ…話しかけんな…」
少し弱った声で悪態づいて、トリスタンは大人しくなった。
吸いかけの煙草をそっと口元に近付ける。
煙はトリスタンの呼吸に合わせて動いた。
奴は黙って煙草を咥えた。
「…生き返る」
「やるよ」吸いかけだけどな…
「ありがとよ…」と呟いてトリスタンは煙を吐いた。
「…帰ってくるんだよな?」
トリスタンがあたしに言った。
あたしも「あぁ」と応えた。
「治ったらまた前線に戻る。
ラーチシュタットの連中によろしくな」
「祭りが始まる前に戻れよ…」
「戻るさ…あそこはあたしの家なんだから…」
トリスタンから吸殻を取り上げる。
見つかったら親父殿に叱られるからな…
「あばよ、愚弟」
「死ぬんじゃねえぞ、アバズレ」
口の減らねえ奴だ…
苦笑いしてトリスタンを残して外に出た。
外はすっかり暗くなってる。
アーケイイックは松明のあかりがなければ全くの暗闇だ。
森の方では生き物の気配がするが、人間の目では暗い森の奥を見通すことは出来ない。
設営された篝火の炎が揺れて火花が舞った。
何かが動いた。
目で追った先に大きな黒い塊を見つけた。
「…おいおい…さすが魔物の国だな…」
ウィルのグレンデルくらいの大きさのある黒い狼だ。
離れたところからずっとこちらを伺っている。
いつもなら相手をしてやるところだが、今はこのザマだ。
ゆっくり後ずさると狼は、ずいっと身体を乗り出した。
長い毛並みを揺らしながらゆっくり歩み寄ってくる。
嫌な汗が背中を伝った。
狼は飛びかかってもおかしくない距離まで近付いたが、襲っては来なかった。
そのままの距離で、咥えていた何かを置いてその場に伏せた。
どうやら敵意は無いらしい。
「…魔王の使者か?」
ゆっくり刺激しないように近付くと、目の前に置かれたものが何か分かった。
酒の瓶…
何か書いてある。
《誇り高い盾の乙女へ イール・アイビス》
「はんっ!」声を出して笑った。
あの王子様、わざわざ残りを届けてくれたらしい。
「イイ男じゃないか」これだからアーケイイックは面白い。
「お前、ひとつ頼まれてくれないか?」あたしはそう言って狼に螺鈿模様の煙草入れを渡した。
要らないだろうが、あたしが渡せるもので一番良いものだ。
「イール殿下によろしくな」
狼は煙草入れを咥えると、滑るように森に入って行って消えた。
あたしは受け取った酒瓶を持って宛てがわれた部屋に帰った。




