場違い
「陛下、勇者の召喚に成功致しました」
突然、風船の破裂したような音が響き、涼やかな女性の声が続いた。
今まで感じていた空気が一変し、冷ややかな冷気を含んだ空気に身震いした。
なんだ?ここどこだ?
「…え?え?」僕は戸惑うあまり、間抜けな声を出して辺りを見渡した。
バイト先の気の合う同僚に誘われて、初夏の登山に行ったはずだった。
そこそこの標高のある山で、登り始めて山の中腹辺りで急に霧が濃くなり、同僚を見失った。はぐれてしまったとばかり思って焦っていたが、どうにも状況は違うようだ。
「え?…何?ここどこ?」
慌てて辺りを観察するが、異様な光景に目を丸くする。
辺りは薄暗い室内のようだった。
クーラーが効いているのかひんやりとした空気が満ちており、足元はゴツゴツした石のような感触だ。
さらに目の前にはエンタシスの柱に似たものが並んでおり、天井ははるか上で暗くて見えない。
石柱に灯された灯りは人工的な眩しさはなく、蛍のような自然の色の光はユラユラ揺らめきながら辺りを照らしていた。
目が慣れるまで薄暗くて気付かなかったが、何かの紋章が描かれた綴織が沢山飾られている。
そして室内には幾人かの動く気配があった。
1番近くにいたのは、階段の前に立つ人影だった。
濃い紫色に金銀の糸だろうか?
豪華で綺麗な刺繍の施され、房べりの付いたフードのローブを纏っている。
手にはねじれた杖を持っているが、腰の曲がった年寄りではなく、美形と言っても差し支えない凛々しい青年に見えた。
ただ、一点を除いては…
銀色の髪から覗く耳が人のそれより大きく、長く、尖っている。まるでそれはアニメや漫画で見たあの種族のようだった。
「エルフ?」いや、まさかそんな…
僕の視線に気づいた彼は不快そうに顔を歪めた。
おもむろに杖を構える。杖の先の先端にはめ込まれた石がぼんやりと光を放った。
「《プーダル》!」
光が輪に姿を変え、ヘビのように僕に襲いかかった。
その光に強く縛り上げられ、バランスを崩し悲鳴をあげながら顔から転倒した。
受け身も取れずに石畳に転倒したせいで、顔の皮膚が裂け頬骨が割れる感触があった。
苦痛で呻くことしか出来ない。
山登りの装備も邪魔して立ち上がれない。
誰か…助けて…
痛みと不安でパニックになり、泣きそうになっていると上から声が降りてきた。
「イール、勇者殿になんてことをしたのだ。お前は自分のしでかしたことに気付いていないのか?」
イールと呼ばれた青年は叱られた子供のようにビクリと肩を震わせた。
「しかしながら陛下…」と何か物言いたげだ。
「勇者とはいえ彼は私の客人だ、無礼は許さぬぞ!」
陛下と呼ばれた人だと思う。僕を手荒く扱ったことに異議を唱える。
穏やかだが強い感情のある声だ。
イールと呼ばれた人物は「申し訳ありません」と謝罪し深く頭を下げたが、相変わらず僕を睨みつけて忌々しそうに下がって行った。
「イール、魔法を解きなさい」
「でも、勇者が…陛下にもしもの事があれば…」
「二度は言わぬ」強い口調に気圧され、青年が渋々魔法を解いた。
何かに押さえつけられていた感覚が消え、ようやく手をついて顔を上げられた。
血痕が床にパタパタと落ちて広がった。
鼻血だけでなく、口の中にも鉄の味が広がっている。
「ペトラ、治癒を頼む。これでは話にならない」
「恐れながら陛下。この者は勇者として召喚されております。勇者は治療せずとも死にはしません」
冷たい口調でそう言い放った女性は光沢のある濃い灰色のローブを身に纏っている。
顔はベールで覆われて見えないが目元だけで十分整ってる顔だと分かった。
装飾品をたくさん身につけ、さっきの男性と同じように長い杖を手にしている。
それにしても、彼や彼女のこの口ぶりだと、どうやら僕は嫌われてる存在なのかもしれない。
それにしても《勇者》って…
「私がそう望んでいるのだ、それが理由では不服か?」
僕が《勇者》なら彼はこの国の王様なのか?
「…いえ、御心のままに」拗ねたような口振りで答えた彼女は眉根に皺を寄せ、まるで汚いものでも見るような目で僕を見た。
蔦の這う蛇の頭の杖を突きつけ吐き捨てるように呪文を唱えた。
「《レスティトゥエレ》」
杖の先の蛇の頭に柔らかな色合いの光が宿る。
また魔法だ。温かい感触が傷に触れた。
熱はじわりと染み込むように体に熔け、痛みは嘘のようにスッキリと無くなった。
信じられないが、目の前で起きていることはファンタジーの世界のそれだ。
「礼を言う、ペトラ。さて、やっと話が出来るな、勇者殿」
王様だろうか?
陛下と呼ばれた人影が、厳つい靴音を立てながら階段から降りてくる。
本当はお礼を言うべきなのだが、彼の目を見て言葉を失った...
まるで酸欠の金魚のように口が動くだけで言葉が出ない。なんなら息もできないくらい驚いた。
「ふふ、驚いたかね?無理もない…」
カタカタと肉のない口が動く。
本来、目のあるはずの場所も落窪んだ眼窩に赤い鋭い光が点っている。
僕の驚いた顔を見て、ふふ、と笑った鼻も無い。
無いのだ、肉という肉が無い。
「私はレクス・アルケミスト。この国の8代目の王であり、人間からは魔王と呼ばれている不死者だ」
髑髏がカタカタと動いているが、声帯も無いのにどうやって音を発しているんだろう?
豪華な衣の袖から差し出された手もやはり白く肉はない。
骨格標本で見たそれと同じものだ。
僕の頭から一気に血の気が引く。
「…ま、おう」
「そうだ。よく私の元に来た。歓迎するよ、勇者殿」
大きな白い手が、優しくだが頭に添えられた事で、僕はキャパオーバーと恐怖で失禁して気を失った。