フィリピン
俺が失敗した攻撃に続いて残りも3名も上手く行かなかったようだ。斉藤少尉が突っ込みすぎて敵に当てたはいいが被弾し損傷した上に負傷。木村一飛が援護し、なんとか台湾海岸までたどりつき不時着した。今は入院している。
後ろの3人は、アレでタイミングが早すぎたのかと驚いたと言っている。それで修正は出来たと。
戦果は撃破1だった。敵機の発動機1機を停止させ、敵機は爆弾を投棄して逃げた。その頃には20ミリを撃ち尽くし有効な攻撃手段が無くなった。
昨日、高雄を襲った米軍機はB-17の2梯団だった。28機と20機だ。大型なので電探の反射波から最初の30機を40機以上と観測したらしい。
戦果は撃墜確実23機。撃破49機。投弾に成功した機体が18機だと思えば、迎撃は成功したと言えるだろう。しかし、どう見ても数が合わない。だから台南空上層部は戦果は半分だろうという。
ただ、高雄飛行場を狙い高度7000から投弾した爆弾が強風で流れて高雄市内に多数着弾。死傷者多数という大損害を出した。
また、未帰還8機、喪失機体14機、損傷24機というのは、もうフィリピン空襲など考えることの出来ない損害だった。
迎撃に上がったのは零戦80機以上だった。これでこの戦果と損害だ。上層部は頭を抱えているらしい。
俺も先程まで聞き取り調査で根掘り葉掘り聞かれていた。
後で仲間に聞くと
「俺は、すぐに火を噴く機体は勘弁して欲しいと言ったぞ。なにしろ2回くらい衝撃があったら火を噴いていたからな。滑らせたくらいじゃ消えなかったんで、パラシュートよ」
「なんだ、プラプラしていると思ったらお前か」
「俺は、弾が真っ直ぐ飛ばんと言ってやった」
「確かに弾道の落ちが早いな」
「爺さんのションベンだな」
「うちのひよっこなんて2連射で撃ち尽くしたぞ」
「60発となっているが、実際に撃てるのは50発くらいなもんだ」
「高度差で突っ込もうと思ったら、既に制限速度になっていて思った機動が出来なかった」
「そうだな。俺のとこもそうだった」
「あいつデカすぎ。ここだ!と思って撃ったら届かなかったぞ」
「「あ~。わかるわかる」」
零戦に対する不満が爆発していた。最後のは俺である。零戦の不満では無いのだが。
特に、
防弾と消火
まともに飛ばない20ミリ弾
すぐに弾切れになる
遅い(急降下速度)
B-17の装甲を貫けない
が中心だったと言うよりも全てだった。
素晴らしい運動性を持つがひ弱な機体よりも、多少被弾しても大丈夫な頑丈な機体が欲しいという声も多い。
後で、この聞き取り調査の結果と当日の戦闘詳報が航空本部まで上がり、軍令部や海軍省まで巻き込んだ大問題となったのは俺達現場の責任では無い。
フィリピン近海 1941年12月10日
「発艦始め」
赤城の飛行甲板から次々と飛び立っていく。加賀と二航戦の飛龍・蒼龍からもだ。
目標はフィリピン・クラーク飛行場。
イバ飛行場には五航戦が攻撃を加える。臨時で龍驤を編入しているから攻撃力は高いはずだ。
本来、台湾からの攻撃後にとどめを刺すのが目的だったが今は主攻になっていた。
台湾からは時差で戦闘機30機程度と陸攻90機がとどめを刺しにやってくる。
フィリピンの米軍航空戦力が潰された頃、アメリカ海軍アジア艦隊はインドネシアに向かっていた。
マニラ湾にいたのであるが、日本艦隊接近の知らせでオランダ領インドネシアのバタビアに退避する事になった。反対する声も有ったが戦力差は絶望的で、抵抗戦力の維持と無駄な消耗を防ぐことが優先された。
開戦前、日本国内ではフィリピンをどうするのかまだ結論が出ていなかった。宣戦布告に伴って南方との連絡路をたたれる危険からフィリピンの米軍戦力を叩くことになっただけだった。
陸軍強硬派が息をしていれば大量の歩兵を送り込んだのだろうが、彼らは青息吐息だ。ついでに言えば、現在の陸軍兵力にフィリピン占領などと言う余裕はない。
結局、バシー海峡と南シナ海の安全確保という観点から、スービック海軍基地の徹底した破壊とクラーク・イバ両飛行場の破壊ということになった。
これはフィリピンをかつて計画されていた漸減計画の餌にする事を決めたから決まった。
散々機動部隊による航空攻撃で重装備や拠点を減らした後で日本は交渉に出た。
軍使を立ててフィリピン大統領及びマッカーサーと交渉。
「抵抗しなければ、これ以上フィリピンに手を出す気は無い」と。同時にフィリピン駐留アメリカ軍人のフィリピン脱出は認めないとも。
航空戦力の壊滅とアジア艦隊の退避で陸上戦力しか無いマッカーサーは顔を真っ赤にしながら、渋々了解をした。勝てる見込みは無く遅滞戦術しか取れないマッカーサーは何を考えていたのだろうか。
フィリピンを餌にするのは戦場を限定するためだった。後の誤算によって無理になるのだが。
日本の誤算はオーストラリアがイギリスよりアメリカを取ったことだった。まさか宣戦布告してくるとは思わなかった。
フィリピン方面にアメリカが出撃するにはハワイ以西に艦隊拠点となる場所が無く、フィリピン救援などという大輸送船団を含めた艦隊が停泊出来るようにするには日本の南洋統治領を占拠するしか無い。
マーシャルを決戦海面に出来る。そう考えた。いた。
それが集結地点をラバウル周辺にされてしまうと、ハワイからフィリピンまで8000キロ以上がラバウルからフィリピンまで4000キロ程度になってしまう。更にニューギニア東部北岸を進出拠点にされれば更に近い。
中継点を入れることで物資の集積や兵の休養も可能になる。アメリカの国力なら無理してマーシャル決戦よりも、ラバウル周辺を出撃拠点にした方が戦略的にも戦術的にも有利で有るのは言うまでもない。
日本とすればマーシャルでの決戦など無くなってしまう。逆にマーシャルを始めとする南洋統治領から輸送路遮断に出なければいけなくなる。
マーシャルは遠く補給もおぼつかない。大兵力を展開出来る島嶼も無い。皮算用は早くも崩れ去った。
代わりに出てきたのがニューギニア北岸とビスマルク諸島周辺を占領して米豪分断を図るという考えだった。
補給がトラック経由しか無いマーシャルに比べれば、プラスしてパラオ経由でも補給線はある。トラック・サイパンの基地航空機による哨戒で敵の動向を掴むのも容易だと考えられた。
原案があったラバウル占領が急遽承認され、計画の修正と実行が始まった。
ラバウルを占領したのは1942年3月末だった。無理無茶の上に泥縄と言われたが、優秀船多数という高速輸送船団のおかげで実行時間は大幅に短縮された。
次回更新 8月04日 05:00