太平洋波高し
新章開始
川崎造船では、昭和10年から舞い込む注文に嬉しい悲鳴を上げていた。ただ「受注しても建造できないのでお待ちいただくしか無い」と顧客に言うと、難しい顔をする。難しい顔をするくらいなら可愛い方だった。怒り出す御仁も少なからずいた。
その事態への対応は、提携先を探すのと不振な造船所を援助するか買収するという対応だった。
川崎造船が日本海技術研究所と提携後に造った船は基本的に2軸推進を採用している。
これは、励起状態の燃料の励起時間が関係していた。励起から着火まで短いほど励起状態が強く効率の良い燃焼が出来るのだった。そのため1気筒当たり容積が小さく着火までの時間が短い方が効率が良い。気筒容積の大きい大型ディーゼルを低回転で回すよりも、少し小さいディーゼルをある程度の回転で回して減速ギヤで適正回転に落とす方が燃費効率が良い事になる。馬力不足は2軸にすることで補う。
このディーゼルはユニフロー形式で日本海技術研究所の未来知識からこっそりと採用されている。GMグループとの交渉は川崎造船が行った。
2基のエンジンと減速装置は面倒な機構になり価格も高いが、低い燃料消費と高速力という時間効率がその差を時間と共に帳消しにし、2年ほどで価格差は取り戻せる。2軸による直進性の良さも評価された。
川崎造船で設計企画をよび完成した貨物船は、積載重量トンで2000トン級の中型船から1万トン超の大型船まであった。
当然ディーゼル機関もそれに合わせて各種有る。川崎造船はユニフロー形式ディーゼルエンジンの日本国内向けセカンドソース契約権を入手しているため、日本国内でユニフロー形式ディーゼルエンジンを製造したければ川崎造船からライセンスを買わなければいけなくなった。これは問題になり、GMに支払う以外の金額をただ同然にして風よけとした。
川崎造船で建造された商船は、いずれも経済巡航速力18~20ノットという超優秀船だった。
しかも、距離が同じなら燃料代は七割程度だった。燃料消費量はそこまで減っていないが、時間が減るので、結果として同じ距離なら従来船よりも燃料消費量は少なくなる。
海運各社が欲しがる条件を満たしている。だから人気が有る。
日本国内の大型船建造可能な民間造船所のほとんどが川崎造船式機関を搭載することになった。
商工省や海軍も優秀船は欲しかったから、陰に日向に助けることになった。
海軍は石炭炊きの旧型船を更新するときには戦時になれば海軍が優先的に傭船出来るという条項を付けた補助金を出した。補助金の額によっては強制的に徴用という条件も付く。
商工省も似たような条件で補助金を出した。
条件に戦時の縛りがあっても「どうせ戦時になれば言うこと聞かされる」と考える海運各社にとっては魅力的で各社補助金の申請を出した。
そして昭和15年後期までに70隻もの各種中型大型優秀船が登場した。北太平洋航路においてカナダ船やアメリカ船を圧倒するほどだった。
その機関技術はイギリスにも流れていた。
発電所でも日本海技術研究所の重油バーナーは威力を発揮し、重油火力発電所の効率がかなり良くなったようである。
日本の重工業は造船と石油火力発電所建設が引っ張る形で景気よく回っていた。それは国内他産業へも波及している。日本は景気が良くなっていた。
それをハンカチを咥えて悔しい表情で見ている国がある。太平洋の東、アメリカ合衆国だった。
「日本は景気が良くなっているな」
「はい」
「ドイツと手を切ったせいで、日本がらみでヨーロッパ介入も出来なくなった。いまいましい」
「全くですな」
「どうにかして、日本を戦争に引きずり込む手は無いのか」
「現状ですと、中国がらみしか無いですな」
「やつらがそこまで強気に出るか?」
「無理でしょう。日本が強硬的ではない以上、内戦の方が気がかりのようです」
「資金を与えても自分の懐に入れるだけだし。どうなっているのだ、やつらの頭は」
「想像も出来ません。自国の平和よりも自分の懐と権力が大事なようです」
「困ったものだ」
「本当ですな」
「こうなれば多少汚い手でもかまわん」
「麻薬か偽札が手っ取り早いですな」
「偽札はダメだ。すると麻薬か」
「麻薬です」
「だが、麻薬については我が国以上に厳しいと聞くぞ。そんな国に通用するのか」
「中国です。やつらは本当にルーズです」
「中国を使うのか」
「中国でも犯罪組織があります。我が国以上に大手を振っているようですよ」
「そうなのか?まあ、使えれば良い。それでいけるのか」
「考えてみましょう」
そして立案されたのが、日本船で麻薬を押収するという手口だった。
まず、中国からアメリカ合衆国への麻薬ルートを作る。規模を大きくしてから、捜査中と言うことにして日本船に麻薬を持ち込み押収する。あるいは、貨物に麻薬を仕込んでも良い。
量が少なければ個人の犯罪になるが、多ければ組織がらみの犯罪になる。それを放置していたとして日本を責める手段とする。
他の嫌がらせと共に日本を苦境に追い立てる。そしてやつらが暴発するのを待つ。
数年かかる予定だった。海軍の準備が万全となってから仕掛ける。1943年のはずだ。
もちろん合衆国内に麻薬は流通させない。ダミーを作ってそこへ麻薬を集める。
計画では上手くいくはずだった。少しずつ既成事実を積み重ね、1942年くらいに大騒ぎになるように仕向ける。しかし、物事は上手く行かない時もある。
太平洋では緊張感が高まっている。
日本は、満州や千島に圧力をかけていたソ連陸軍や空軍の一戦級部隊がいなくなりホッとしていた。
アメリカ合衆国が日本を標的にしているのは明らかだったが、お互いに準備不足ですぐに戦争という雰囲気ではなかった。
それを台無しにしたというか、計画通りに行かなかったというかだが、一気に発火した。
1941年8月
シンガポール発香港・高雄経由横浜行き商船が、アメリカ海軍アジア艦隊所属駆逐艦によって臨検を受けたことからだった。
日本の領海に近い台湾近海で臨検などあり得なかった。
日米の緊張を知っている船長は(これは拙い)と考え、全周波数帯で緊急通信を発信した上にのらりくらりとはぐらかす。狙われたのは明らかだ。やつらが持ち込んだか仕込んだ麻薬を発見されてはたまらない。
近場にいた日本海軍艦艇と他国商船が4時間後に接触予定と知らせてきた。
これをアメリカ駆逐艦に知らせ、合同なら受け入れると言った。あわてたのか、針路上に割り込み停船させようとした。商船は身動きままならない。特にこの船のように満載に近いと。
衝突した。
すぐに衝突事故発生と全周波数帯で緊急通信を発信。進路を妨害することはカメラで撮影していた。
駆逐艦は外板を大きく歪ませていたが、沈むほどでは無かった。怪我人は出たようだ。そして、他国の商船と日本海軍が到着する。
話し合いの末、合同で捜索することになった。
アメリカ海軍将兵の一部がなにかおかしな動きをしないか注意している。そうすると、知っていたかのようにある貨物の前にいく。香港発サンフランシスコ行き貨物だ。
この貨物を検めさせろと言うが、下の方で出せない。何か有るのは確実だ。
横浜港に着いた後にアメリカ大使館員と第三国の大使館員立ち会いの下で開封することになった。
何も無かった。麻薬も偽札も。他の違法な物さえも。向こうがこの貨物だと指定したのだ。はっきりとした裏付けがあったのだろうが、何も無い。
これには、全員呆れている。慌てているのはアメリカの捜査関係者と海軍軍人だけだ。
慌てるのも分かる。なにしろ数日前に新聞で日本船が麻薬密輸に関わると記事をぶち上げたくらいだ。自信があったのだろう。
次回更新 8月01日 05:00
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