就学編10 (深町正の自叙伝)
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それまで何回か兵庫県心身障害児福祉協会主催の行事に参加していたが、先に書いたようにこの年の琵琶湖のキャンプは私にとって特別な意味を持っていた。
試されるという緊張感を持ち参加した。
何泊だったか記憶にない。それだけ必死だった。
尼養の先輩もいた、尼養で元同級生で小学部の途中から地元にできた特殊学級に転校した猪名川町の口の大きな痩せた鳥の様な友達も参加していた、だが最も感激したのは、小学部か中学部の時、兵庫県心身障害児福祉協会主催のキャンプで一緒になっていた加古川養護学校の目の細い屈託の無い顔の友達と再会できたことだ。
私はあまり人の名前を覚えるのは得意じゃないから、何年か前にキャンプで一緒になったことがあるとは思い出せたが名前は思い出せない。
すると奴は私の名前を覚えていてくれていたらしく「深町君、元気?久しぶり!」
と声をかけてきた。
屈託のなさ過ぎる丸い顔と細い目。
私は、記憶の端から、やっと奴の顔と一致する名前を引き出せた。
そいつと猪名川町の友達と私は、時間を惜しむようにキャンプの合間を見つけては談笑を繰り返していた。ことに消灯後はゆっくり語り合った。特に私は、同世代の障害者との会話に飢えてい、同じ悩みを共有し語り合える事に感激し、会話に夢中になった。
会話の内容は、将来への希望や不安・自立・親・差別・障害についてと、語り尽くせないものばかりだった。ただ、漠然とした『自立』に立ち向かうには親に甘えている今の状況ではだめだという認識は一致していた。親離れしない限り自分達の未来は無い、そのために『はりま自立の家』を希望しているというところも、一致していた。
最終日、11月の再会を誓い合って別れた。
この時のキャンプは『はりま自立の家』の職員研修も兼ねていた事が後にわかった。
この時のキャンプで、私は対等に話せる友達の必要性を感じだとともに、語り合うことの重要性を再認識した。この充実感は川西養護学校での学生生活では得られないものだった。私の欲すものがそこにはあった。
私の『はりま自立の家』への想いは強固なものになった。
おかっぱ頭の『ひまわり園』の元指導員で川西養護学校の介助員の女性との共同制作の小説『無限大』は半分書けていた。
せっかく書いているからということと私の学生生活の最後にということで、川西養護学校の文化祭で発表することを、彼女と話し合っていく中で決めた。
わら半紙B5判で前編を納める予定を立てた。
何度も話し合っていく中、雑談ももちろんした。アニメから自立・科学・悩み・・・・・と話はたきにわたった。
彼女は学歴もそれなりにあり、私より六つ年上であるのに、会話しているとそんなに年の差を感じさせない。
信頼できる友人だった。
目前に迫っていた『はりま自立の家』への入所という人生の転換期に、余裕が無かったからか、心が彼女に傾斜していたことに私自身気付かなかった。
一方、PTAや父母の会の集まりでは、私の『はりま自立の家』への入所をめぐって母が矢面に立たされていた。
ことにPTAはひどいものだった。
川西養護学校にまがりする形で一室借りて、卒業後の行き場を作る計画がもうすでに進んでおり、市から予算もでる方向で、初代の『ひまわり園』の指導員もそこの指導員として確実視されていて、「卒業生は全員そこへ行き盛り上げていくべきだ」という言葉も親たちの間から高まってきていた。
途中で辞めるかもしれないからと辞退した私の母を無理やりPTA会長に担ぎ出しておきながら、臨時総会で私が学校を辞め施設入所することを理由に辞任したいと伝えたとたん、あの四つ下(二年下)の二人の後輩の母親たちと新興宗教のグループの母親たちを中心にほぼ全員が、母に対しまるで裏切ったかのように罵倒するかだんまりを決め込んだ。
卒業後の行き場を作る計画がもうすでに進んでいることを理由に「卒業生は全員そこへ行き盛り上げていくべきだ」という危険な全体主義思想の論理で、母一人攻撃された。
私が自ら決断したことにもかかわらず「ぬけがけ」や「自分だけ楽しようとしている」・「任期半場での辞任は無責任だ」などといい、母親たちは私の母を責めた。
これはもう精神的集団リンチだ。
「施設入所は息子の意思で、私の本意ではない」というような説明をし、母は理解を求めたが、母子分離や子離れの必要性を感じてないどころか、障害者である我子を自分達の所有物のように見ている母親達の欠如した想像力では、理解されるはずも無かった。
PTAの母親達は施設入所は母の意思だと見ていた。
理解を求めた私の母ですら、母子分離や子離れの必要性を感じてなかったから、母親達の想像力の欠如も仕方のない事かもしれない。
残念だが、人は自分の尺度でしか物事の善し悪しを判断できない。もし、自分の尺度で判断できないモノと遭遇したら、大部分の人が拒絶し排除しようとする。それが差別の根底にある。このときのPTAの母親達は、まさにそういう状態であった。
仕方のないこととはいえ、他人にどうこう口をはさむ権利は無く、しかも途中での辞任はPTA会長を引き受ける際に母は示唆したはずであるから、責められるのは責任転化以外のなにものでもなない。
すべて、あの四つ下(二年下)の二人の後輩の母親たちと新興宗教のグループの母親たちの悪意に満ちた扇動だった。
扇動にのった他の母親たちもだんまりを決め込んだ他の母親たちも、精神的集団リンチに加担したという意味では、同じ穴のムジナだ。
あさましいものだ。
たまりかねた一人の同級生の母親が、引き継いでPTA会長をすることを申し出てくれた。それでなんとか収拾はついたらしいが、双方に遺恨を残した。
精神的集団リンチは表面的には終息していった。しかし、あの四つ下(二年下)の二人の後輩の母親たちはそれから事あるごとに執拗に私と母を誹謗中傷してきた。後でまた追々書いていくが、かなり悪質だ。
その日、家に戻ってから、私は母に私のせいにされまた暴力を受けることになった。
しかし、その度に私の意思は、より強固なものになっていった。
私が『はりま自立の家』に入所してから、父母の会でまたあの四つ下(二年下)の二人の後輩の母親たちが中心となり、母に精神的集団リンチをしかけてきた。村八分の状況に陥れられた母は、失意のうちに父母の会を辞めざるを得なかったらしい。
川西の重度身体障害児の教育保障の先駆者である母に対する、これが父母の会の当時の親たちの仕打ちだ。
礼を欠くにも程があると思う。
「ご夫婦供まだお元気やのに施設なんかにやるのはかわいそうや」と、一部の何も知らない近所の人たちは、母に言う。
世間体を気にする志向が強く、PTAや父母の会母親たちから精神的集団リンチを受けていた母は疑心暗鬼になっていて、その怒りの矛先を私に向けた。また暴力だ。
母にとって「施設なんかにやるのはかわいそうだ」と言われるのは不条理だが、私にとってそれで怒りの矛先を私に向けた母の歪んだ思いこそ不条理だった。
母が気に病むのは、世間体だけだった。母自身は全く気付かないが、言葉の端々でそれをうかがい知ることができた
私は不条理には屈しなかった。
それが若さだと思う。
母は、最後まで私の『はりま自立の家』への入所を反対していた。そんな母を説得するのは困難を極めた。
「妹を大学に行かすんだったら僕も大学の代わりに『はりま自立の家』に行かせてほしい。四年経ったら考える。大学に行かすこと考えたら安いもんや」
我ながら、妹をだしに使ったこそくな詭弁だった。
がしかし、母には効果的だった。
私のこのこそくな詭弁で、母はおおむね合意した。
四年経ったら帰ってくると母は受け取っていたようだが、私は「考える」と言っただけで、この時点で家に戻るつもりはさらさらなかった。
ただ、全くの詭弁でもなかった。
はりま自立の家』に行くことはこの時点での目標ではあったが、目的ではなかった。だから、ある程度期間をくぎって考えるようにしたかった。そうしないとだらだらと過ごしてしまいそうで、怖かった。施設見学の際見た、目が死んだ障害者と同じにはなりたくはなかった
10月のなかばぐらいに細いヒョロッとした女性教師に誘われ、西宮の女性教師の家にお邪魔した。夫さんもいた。彼が『ひまわり園』に見学に来た後々の園長にもなる人だ。その時点では職員に過ぎなかったが、中心人物だった。
仕事仲間だという数名と今度『はりま自立の家』に入所するという女性の障害者も招かれていた。仕事仲間だという数名の中にかつて学生ボランティアとして世話になった人も何人かいた。軽く挨拶を交わし雑談がはじまった。
何か企みがあることは予想していた。
一時間程経ってようやく彼はほんだいに入った。
要約するとこうだ。
「『はりま自立の家』が入所する障害者を選ぶのはおかしい。本来選ぶのは県の更生相談所であり、施設側にはそんな権限はないはずだ。冷やかしで緊急性の高い人何人かにテストと面接を受けさせたが、通ったのは親がまだ元気な君らエリートか金持ちの家の障害者だ。それでも君ら入所するのか?緊急性の高い人を見捨てるような施設に・・・・」
本来選ぶのは県の更生相談所であるというのは正論だ。ただ、何かおかしい。私は反論を試みた。これも要約する。
「僕らにそんなこと言われても困ります。もんくがあるんだったら『はりま自立の家』に直接言ってください!それに僕はエリートや金持ちじゃないです。川西市の枠が一人あって、希望したのが僕だけだからです。親が元気なうちは親が障害者をみるべきだという前提の話に聞こえましたが、それなら一般人の発想と変わらない。僕らの権利を尊重してください。受けさせたという言い方は本人の意思じゃあないということですか?冷やかしで緊急性の高い人もクソもないでしょう。冷やかしでされたら真面目に受けた者は迷惑ですよ!」
私がそう反論したら、その場にいた全員沈黙した。
女性教師の夫さんは考え込んでしまった。
数十秒程の沈黙の後、彼は「すまんすまん、ごもっとも」と言って言葉を続けた。
「ところで、なぜ君は『はりま自立の家』に行く?親から逃げているだけ違うか?もしそうだったらづるい」
彼の言葉に対して
「確かにそう見えるかもしれませんし、実際逃げているのかも知れません。効率よく親から離れられる方法ですね」
と、私はあっけらかんと言った。
私が一転して反論しないのに全員あっけにとられていたようだ。
それから二時間夜が更けるのも忘れ白熱した会話を楽しんだ
1981年11月の上旬、私は最後の文化祭を終えて、私は学生生活の最後の日を迎えた。
ある教師には「お前に教えることはもうない。元気でな」と言われ、
ある教師には「これからが長いからあまり無理せずに・・・・」と言われ、
またある教師には「絵の道は険しくて長いぞ。満足はするな」と言われ、
ある教師には「まあ自分で選んだのだから逃げるなよ」と言われた。
教師には感謝したが、学校には未練のかけらも無かった。
私の頭の中はすでに『はりま自立の家』のことでいっばいいっぱいだった。
同級生に最後の時間に別れを告げた時も、気持ちははれやかだった。
この日をもって私は川西市立川西養護学校高等部を退学した。
高等部1年,18歳の秋。高等部ができて半年ほどであった。
学生時代、別科二年目の二学期からこの中退するまでの約一年で私は油絵二枚を描き上げた。
これが今に及ぶ長い画業の始まりである。
学校から帰るといつものように街を徘徊した。
再開発の波にのまれ少しずつ変わっていく街並みは、いつもよりきれいに見えた。
家に戻ったらおかっぱ頭の介助員の女性が来た。
これからも共同制作の小説『無限大』を書いていくことを話し合った。
勿論書きあげたいという思いが大きいが、『無限大』を書いている限り彼女と繋がっていれると思ったのも事実だ。
彼女とは帰ってくるときに連絡することを約束して「また会おう」といって別れた。
繋がっていたいと思う自分の感情に、私は戸惑っていた。
『はりま自立の家』への入所を二日後に控え、家族をなんとか普通の状態にしようと思い、父へ苦言を呈する手紙を書き始めた。
「長男として言います。女とは別れていい加減家族の方を向いてください。妹も高校受験で、大切な時期です。親としてちゃんとした行動をとる様にお願いします。」
こういう内容をしたため、私が『はりま自立の家』に入所してから父に渡すようと言い、妹に預けた。
これが当時私が家族にできる精いっぱいのことだった。
母も私がいなくなれば少しは父や妹の事をするようになるのではないかと、私は期待していた。しかし母は、私がいなくなったことと、父母の会の障害児・者の母親たちから村八分にされたことで空いた穴を、友達との遊びやボランティア活動などで、埋めていたようだ。
父も生活を改めなかった。
二人とも家庭崩壊・夫婦関係の悪化を、回避する努力を怠ったのだ。
その末路が14年後に待っていた。これも追々書いていく。