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就学編9 (深町正の自叙伝)

同1981年4月、川西養護学校に高等部が設置された。『はりま自立の家』の開設まであと半年。各市には入れる人数枠があり、川西市の枠は一人だった。本来なら県の更生相談所が施設への入所を決めるのだが、今回は『はりま自立の家』の運営側の意向でテストや面接で判断されるという。

根拠は無かったが、私は『はりま自立の家』への入所を確信していた。

運動していた手前もあり、私はとりあえず他の五人とともに高等部に入学し、『はりま自立の家』への入所を待つことにした。

一学年上にいた1人は、本人の意向とは違い家庭の都合で高等部入学を待たずして施設入所していった。

私と比べて、なんと皮肉なことだろう。

有名美大出の美術の教師が来ると聞いていたから期待していた。

学生生活もあと半年。教わりたいことが山程あった。

しかし、美術の教師の最初の授業は、私の期待を大きく裏切るものだった。新聞紙を棒状に丸めてチャンバラごっこをしはじめた。私以外は楽しんでいたようだが、私は目が点になった。親くらいの年齢の教師と18歳にもなって高等部の授業で、何が悲しくてチャンバラごっこをしないといけないのか?私は傍観するよりなかった。救いを求めて他の教師の顔を見たが、唖然とする顔や苦笑いする顔・まあまあと私をなだめる顔をするばかりだった。その美術の教師が高等部の主任だと、後で聞いてクラっとした。

掴みのテクニックかもしれない。だが、私は興醒めしたのは事実だ。

どんなに障害が重くても年相応に尊厳を尊重されるべきだ。近しい人なら尚更だ。

しかし、これがこの教師のやり方だ。現実に私以外の生徒はのっていたから、コミュニケーション的には成功と言える。

この後半年間ではあったが、徐々にこの教師から絵の基本を学んだ。半年間でこの教師から学んだ事は、その後の私の絵画人生に大きな影響をあたえた。


おかっぱ頭の『ひまわり園』の元指導員で川西養護学校の介助員の女性と私は意気投合して、『無限大』というSF小説を共同で書くことになった。

打ち合わせや書いた原稿の読み合わせの為に、最低週一回うちに来てくれていた。その時は『無限大』をかくという事の為に夢中で話していたが、いつの間にか会う事を楽しみにしている自分がいた。


五月の末。高等部の進路指導の一環として、できたばかりの川西市社会福祉事業団の作業指導所を見学した。

作業場へ入った時おかしさを感じた。大半の障害者は忙しそうにしていたが、その中に元『ひまわり園』の重度肢体不自由者たちは、なにもすることがなくただそこに居るだけという感じで、車いすに座ったまま放置されていた。

市と川西市社会福祉事業団は「『ひまわり園』に通っていた軽作業の困難な最重度の障害者全員を受け入れる」という約束を果たしたように表面上みせかけているだけで、辞めるのを待っているのがありありとうかがえた。

一通り見学した後、例のまるで神か救世主の様なVIP扱いで、鳴物入りで迎え入れた作業指導所の所長から話を聞いた。いいや聞かされたという表現が正しい。

彼はおうへいな態度で、終始、あたかもご立派な事のように、自身の過去の業績ばかりを上げ連ねて、如何に自分が立派な人物かを語るのみだった。自分への尊敬や畏敬を強要するような話し方だった。彼が語れば語るほど、私にはつまらない人物に見えた。

作業効率を上げようとしていることは、なんとなくわかった。

学校へ戻るバスの中「何かおかしい・何か違う」となんどもつぶやいた。

私が違和感を覚えたのは、所長は自身の過去の業績ばかり語って、これからどうするのかこの作業指導所をどうしていくのかというビジョンを全く語らなかった事と、重度肢体不自由者たちを放置しているについて、何も語らなかったからだ。

その後、重度肢体不自由者たちは居場所が無くつぎつぎ作業指導所を辞めていった。

市と川西市社会福祉事業団はこうなることは分かっていたはずだ。

市と川西市社会福祉事業団の思惑通りだと言っても、過言ではない。

こうなることは、少し考えれば予測しい得た。

市と川西市社会福祉事業団は悪質だが、されるがままの元『ひまわり園』に通っていた軽作業の困難な重度肢体不自由者の親も悪質だと思う。

親が安易な方に流れた結果がこれである。就学時の対応もしかりであった。結局、いつも被害や不利益を被るのは、自分のことが主張できない重度肢体不自由者本人だ。


同時期、川西養護学校では親たちの間である計画が持ち上がっていた。川西養護学校にまがりする形で一室借りて、卒業後の行き場を作る計画だ。『ひまわり園』が閉園したことが川西養護学校の親たちの危機感を煽った。市から予算もでる方向で、もうすでに話が進んでおり、初代の『ひまわり園』の指導員もそこの指導員として確実視されていた。「卒業生は全員そこへ行き盛り上げていくべきだ」という言葉も親たちの間から聞こえてきていた。

運動とは得てして全体の意識を高めるため、個人の尊厳を軽んじる傾向が往々にしてある。危険な全体主義の思想だ。

この時、川西養護学校の親たちのほとんどが、それに傾いていた。

PTA総会が開かれ、私の母が会長に選出された。私が施設を希望しているので途中で辞めるかもしれないからと辞退したらしいが、四つ下(私は別科で二年費やしているから学年はこの時二年下になっていた)の二人の後輩の母親たちが「卒業生は全員そこへ行き盛り上げていくべきだ」という個人の尊厳を軽んじる危険な全体主義の思想を強く持つ親の陰謀と扇動が他の親たちを煽り、私の母をPTA会長に担ぎ出した。

選挙の結果なので断り切れなかったようだ。

この二人の後輩の親たちはこの後、何かにつけ嫉妬と悪意に満ちた策謀を巡らせてくるのだった。

可哀想な人たちだ。


その頃私は学校から帰ると毎日1人車いすで近所の徘徊を1,2時間する様にしていた。

車いすという道具は、歩行困難者か歩行不能者の移動の為に使うもので、動かし方は、自分で動かすか自分以外の人が押すか、主にその二つの方法がある。

自分で動かす方法としてノーマルなのは、両サイドにある大車輪に付いたハンドリム(大車輪のホイル程の金属バイプ製の輪) を手でこぐ方法である。

しかし、私の手はその能力は無い。

自分で書くのもなんだが、私は実に奇妙な格好で車いすを乗り回していた。左脇を背もたれシートに掛け、左手で左グリップを掴み、左ステップと左キャスターを支える二本のパイプの間に左足先を入れ同じ間にあるパイプを左足の土踏まずあたりで踏み、身体を左にねじり、首も左にねじると顔が左グリップのあたりで後ろを向く、その体勢で地面を右足で蹴ると車いすは後ろ(顔が後ろを向いているので私にとっては前である)に進む。

その頃、私の知る限りでは、川西市内で日常的に車いすを見かけることは、非常に少なかった。

差別や偏見が根強くあったのかもしれないが、そんなことは言い訳にもならない。

逆説的ではあるが、川西市内の障害者が日常的に街へ積極的に出なかった結果、差別や偏見が根強くある状況を作ってきたのが本質だろう。

簡単に書くと、川西市内の障害者は、差別や偏見から逃げ隠れし、闘い、差別や偏見を無くす努力を怠ってきたのだ。

こういう障害者にはなりたくは無かった。事実、この事を裏付ける事柄がこの7年後に私は遭遇することになる。そのことは追々書いていく。

とにかく、障害者自体知らない市民の中に、突然重度の脳性まひが一人で、しかも奇妙な格好で車いすをバックさせて乗り回し、疾走したのだ。当然、驚くだろう。

母の反対など意に介さず、徘徊を毎日続けた。反対理由は、危険だという事とまたしても世間体だった。

危険に関して言えばある程度危険を冒さなければ危険かどうかの判断ができなくなるし、世間体に関しては全く論外である。「それでも障害者の親か?」私は一笑する。そんなうんざりする毎日の連続だった。

この街の風景になりたい。居て当り前の存在になりたい。ほかに理由は要らなかった。今もその思いには変わりは無い。

毎日一人で出てると、人の視線や言動・指をさすような行動で、肌で差別や偏見を感じる事ができた。

ある人は「あんな子一人で出して・・・・・」といい、またある人は「この子知能あるのか?」と言った。ある子連れの親は「うつる」と言って私を避け、また違う子連れの親は「悪い事したらああなるよ」と私を指さした。ある子供達は私をいろんな言葉で罵ってからかい、またある子供達は砂や水をかけてきた。

激しい怒りや哀しさ・理不尽さを感じた。

18歳の私にとって、社会は不条理で理不尽極まりないものに映った。

人に言ってしまうと自分に押しつぶされそうで、だれにも愚痴はこぼさなかった。特に母に知られると強引に止められるから、一切愚痴はこぼせなかった。

私は一人での徘徊はやめなかった。ほぼ毎日続けた。

「負けてたまるか!」という意地もあったが、自身の自立のためでもあった。

通行するためのマナーやルール・状況判断は、頭では分かっていても実践でしか身に付かない。

いかに、歩道や街の作りが、車いすの利用しにくい構造になっているかが分かった。

だからといって、歩道や街の作りが利用しにくい構造になっているからといって、車いすで出かけない・出かけさせないという理由にはならない。それは障害者やその家族の、逃げ口上だと思った。

親の監視や束縛の連続の生活が、私には窒息しそうなほど息苦しいものだった。だから、束縛から逃れる時間が私には、必要だった。

誰もいない所で、独り空をぼーっと眺めるのが日課になった。

しばらく街の徘徊を続けていると、既成事実になってくる。つまり私が徘徊しているのが、日常の情景として認識されていくのだ。私に浴びせられていた好奇の視線や差別的発言は、無くなりはしないものの、私の慣れもあると思うが、少しは気にならなくなっていった。

おりしもこの年は、国際障害者年であった。


8月、夏休み。いつもは阪大やら九大のお偉い先生方を招いて学校が主催する療育キャンプ(二泊三日の機能訓練三昧のキャンプ)参加せざるを得ないのだが、「この歳でもう療育もクソもない。どうせするんだったら自立訓練のキャンプをするべきだ」と私が提案したところ、教師たちがその必要性を一番感じていたらしく、学校と交渉してくれ、自立訓練キャンプが実現した。

阪大やら九大のお偉い先生方の理論の実践に、バカバカしい事にもう11年も夏ごとに付き合わされていた。成果など無いまま・・・・・。頑張れば必ず良くなるという妄想を押しつけられて・・・・・。

お偉い先生方の興味は障害を否定し治すことだけであって、とても残存機能を使っていかにこれから生活していくかという私たちの将来像へのビジョン的発想は持っているように思えなかった。奇跡を信じるほど愚かになれるのは、小学部までだ。そんな無責任なお偉い先生方や親の妄想に付き合うほどの年齢的余裕はなかった。親はいずれ死ぬ。親が死んで困るのは私たち障害者だ。その時の為にできることはしておきたい。

そんな理由から療育キャンプのあり方に疑問を持ち、高等部全員を巻き込んで自立訓練キャンプを実施したのだ。

とにかく自分で生活の疑似体験をしてみるのが目的である。

時間をかけて出来ている事は、実際の生活の中では役立たないというのは、想像はできた。私の目的はできない事を確認することだった。

当時障害者の年金が六万円強、そこから最低家賃や光熱費を計算して引くと三万円程しか残らない。単純計算すると一日当たり千円程。二泊三日だから三千円と泊る用意をし、自立訓練キャンプに臨んだ。

一日目から日常を送ることに追われた。買い物・掃除・洗濯・調理、トイレ・入浴・飲食・・・・・それらをすべて自力でした。それ以外何もする余裕はなかった。

自立訓練キャンプ二日目。その日は『はりま自立の家』のテストと面接の日だった。朝の片付けが済んだ後、教師の車で、途中母をひらい西宮の兵庫県心身障害児福祉協会へ行った。

小学生の頃から兵庫県心身障害児福祉協会の行事に参加していたから、試験官とは面識があった。

テストと面接では主に、対人関係についてや簡単な一般常識、『はりま自立の家』を希望している理由などを聞かれた。必死だったから詳しい話の内容ややり取りは覚えていないが、えらく理屈っぽい人だという印象だったことは覚えている。

1.2時間程でテストと面接が終わった。たぶん入所になるとのことだ。しかし、8月の中頃に兵庫県心身障害児福祉協会主催のキャンプが琵琶湖である。私も参加する予定だったが、その様子を見て最終的な判断をするかもしれないということだった。自信は無かった。とりあえず自立訓練キャンプに戻ったが、私はもう琵琶湖のキャンプのことで頭がいっぱいだった。

自立訓練キャンプは私にはそれなりに成果をもたらして終わった。

できないという事がわかったのが成果だ。でも、しばらくあがこうと思っていた。




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