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就学編8 (深町正の自叙伝)

別科も2年目に入った。中学部のその年の卒業生二人を加え、別科の生徒は七人になった。

生徒が増え当然教師も増員された。

細いヒョロッとした女性教師が入ってきた。

その教師は、教育大出であゆみ園にしばらくいたらしい。当然、『考える会』とも関わりがあった。母たちは警戒した。特にうちの母は、自分とは全く違う価値観や考え方の人間が私に近付くのを、異常なまでに嫌った。

自分の意に沿わないことから私を遠ざけようという志向が強い母だった。

客観的に診て母の価値観や考え方を、疑わずにいられなかった。

私は母の価値観や考え方をことごとく疑い、否定するところから始めた。自己形成の為にそれがどうしても必要だった。無論母の反発も激しく、話し合う姿勢無く、ただ暴力に任せていた。暴力に任せるしかないということは、価値観や考え方が貧困な証だと思った。

そんな貧困な母の価値観や考え方に付き合っていたら、人生を棒に振りかねない。真実も見えてこない。最悪、共倒れか親子無理心中は目に見えていた。

そうなったら目も当てれない。そんな愚かなことにはなりたくはない。

私の人生は私が主役であり、この手で切り開かねばならない。

親の屍を踏み越えて生きることこそ親孝行だ。親より先に死ぬとか無理心中等というバカバカしい選択肢は、私の中には無かった。

多くの障害児・者の親は、障害児・者本人を一個の人格とは見ておらず、言葉では否定するが人格や人生・命までもまるで自分の所有物のように扱うし、それで当然のように思っている。

私の母もその傾向が強かった。

その呪縛から逃れるためには、母の価値観や考え方をことごとく疑い、否定したうえで、自分の価値観や考え方を形成する必要があった。

新聞の紙面には度々、障害児・者の親子の無理心中や障害児・者を殺した親に対する同情から情状酌量を求める記事が載っていた。そこには障害児・者本人の生きる権利一切は書かれてなかった。

母の粗暴な行動や夫婦関係や精神状態・「私の目が黒いうちは・・・・」という言動、これらを合わせて考えると新聞の記事は他人事ではなかった。

さし当った危機は無かったが、危機感は切迫していた。父は毎日午前2時.3時に帰宅し、午前6時には出勤するという日々を繰り返していた。当然、私と接触する機会も無く、親としての適性をかいた。ただ金を稼いでくるだけの、無責任な親だった。

あまり積極的な比較ではないが、『かかわり』というう点では母の方がまただましであった

自分にとって自立とは何なんだろうか?身辺自立と金銭的自立だけが自立なのだろうか?という私が抱いていた疑問が分かったのだろう、細いヒョロッとした女性教師が『そよ風のように街へ出よう』という季刊誌や障害児・者関連のその他の書籍等を貸してくれたり、休日、母に内緒で障害者の集会に連れて行ってくれたりして、私に考える材料を与えてくれた。

『そよ風のように街へ出よう』という季刊誌や障害児・者関連のその他の書籍等には、親や施設職員による虐待や強姦、生理やオナニーの処理を省くため本人の意思を無視して子宮や卵巣・精巣の摘出手術が日常的に行なわれていること、ベットに寝かされ放置されていることや、それに逆らうとロボトミー手術を強制され脳をいじられおとなしくさせられている等の、目をそむけたくなる様な人権侵害の現実や、それらに抵抗し地域で独立して生活している重度障害者の現状等が、障害者当事者の声として乗せられていた。

17歳の私には衝撃的だった。目をそむけたくなった。しかし、目をそむけることを自分が許さなかった。逃げたくはなかった。

非常に情報が少ない当時、私にとってとても貴重な情報だった。

母は抵抗し情報操作をしようとしていたが、私は『そよ風のように街へ出よう』という季刊誌や障害児・者関連のその他の書籍等を自ら求め読みあさった。

障害者の集会に行って、実際の大人の障害者の生の声をきいた。

おかげで、施設じゃなく地域で独立して主体的に生活していくという選択もあるという事も知った。

だが、当時の川西市の制度の枠内では、私のような重度の脳性まひが独立して主体的に生活していくというには無謀だった。制度や施策を市に大幅に見直させる必要があった。

それには、当時の私は幼すぎた。経験も不足していた。親への生活依存から抜け出すのが先決問題だった。

親から離れてじっくり考えたかったことと、対等に話せる友達が欲しいという以前からの想いもあった。

とにかく施設へ行くことで何かが変わる何かが掴めるという、根拠のない確信を持っていた。

別科の一学期から二学期にかけて、いくつかの兵庫県内の施設を見学して回った。教師と市の福祉の担当職員、勿論母も同行してきた。

建物はどこも病院の様に昼なお暗い。入所しているほとんどの障害者の目が死んでいた。飼い殺しの犬のようだった。

尼崎の父母の会の要望で作られたという、尼崎養護学校の卒業生が沢山入所していた施設も見学したが、尼崎養護学校在学していたころのいきいきとしていた先輩たちを知っていただけに、より目が死んでいるのが分かった。

施設という閉鎖された小さな社会による閉塞感から無気力になっていくのかもしれないが、それも本人次第の部分が大きいと思った。

ああなりたくない、というのが、正直なところだった。

ギラギラしている施設入所者も中にはいたが、極まれだった。

更生相談所の担当職員が言っていた福井県の施設も見てみたかった。教師たちに相談したところ、夏休みを使って行こうということになった。母を車が満席だということで、着いて来るのを諦めさせた。

母はしぶしぶ私たちを見送った。「遠い」という理由から、そもそも私が見学に行くこと自体に難色を示していた。自分の将来を考える上で母は邪魔な存在でしかなかった。たぶん教師たちもそれは分かっていたと思う。車二台に私と教師たち6.7人が分乗して福井県に向かった。5~6時間かかった車内ではやる心を抑えつつ、期待と不安を入り混じらせながら車窓を流れる景色をほんやり眺めていた。

そこは九頭竜川の上流、分け入った山の広大な敷地のコロニーと呼ばれる大規模な施設だった。

150名程の障害者か日々の生活をし、その中で生涯を過ごす。生活の全てがその中で完結されていて一般社会とは割絶された世界がそこにあった。

一般社会とは割絶された世界という意味では、どの施設もあまり変わらないが、そこは群を抜いていた。

施設の職員に連れられ各所を見学したが、あまりの大きさに圧倒それた。

最後に作業室に案内された。沢山の障害者が写植や旋盤・木工から孫請けの軽作業まで、それぞれの障害に応じたことをしているように見えた。活気もあるように見えた。

その中に自分と似た障害者を見つけた。

彼は床に座って何度もしなおして1個何銭の箱折りを一生懸命している。目が真剣さを物語っていた。

私が一言二言話し掛けると、目を輝かせて応じてくれた。

私の希望していた将来像がそこにあった。もしここにすれば、遠いから親から離れられる。親から解放されるのだ。

私は彼の姿と自分の将来を重ねて見ていた。

客観的に見て自分の障害で仕事をするとしたら、彼の様な仕事しか望めないであろう。

1個何銭の箱折りでやりがいを持てれば、それでも良かった。

確かにそれは、自分が想い描いていた将来像だった。しかし、同時に彼の姿にむなしさを感じでしまった。

箱折りで終える人生・・・・・。それでいいのか?自問自答するが、答えは見つからない。

家に着くまで、いいや戻ってしばらく、自問自答が続いた。

だが親や周囲には、その福井の施設に行くと豪語した。母の重力から逃れようとすれば、それなりの代償と強固な気持ちが必要だった。

何かを動かさないと何も始まらないという確信が、私にはあった。

私は、福井の施設に行くことを強固に希望していた。


社会科の時間、教師とのふとした会話から、その教師が大学時代、美術部で油絵を描いていたことを聞いた。私にとってまたとないチャンスである。長年の夢を叶えてくれそうな人が、目の前にいた。

その夏休みの終り頃、話したいと言い社会科の教師のアパートにお邪魔して、自立や将来について一晩話しこんだ。自信が持てるものを何か持っておきたいということで、油絵を教えてほしいと必死に頼んだ。

その社会科の教師は押入れをしばらく探って、探し出したものを私の目の前に置いた。

それは、所々に油と絵の具が付いている木の箱だった。

教師は黙って箱を開いた。

箱の中には使いさしの油絵の道具一式が無雑作に詰め込まれていた。

興味が無い人にはたぶん汚い箱にしか見えないだろうが、私には宝箱に見えた。

私が食い入る様にそれを見ていると、

「それ俺の大学んときのだ。しばらく使うか?俺が受け持ってる時間に描け。教えてやる。お前に市からいくらかおりてるからそれ使っていいか?それでお前の油絵の道具一式そろえてやる。それまでその俺のを使え」

その教師はぼそっと言った。

私は、たぶん思い出があって取ってあったものを「使え」と言ってくれた気持ちが嬉しかった。

次の週から私は真っさらなカンバスに向かっていた。

それが私の長い道程の第一歩となった。

画業という果てしなく続く道を進むことは、私の運命だったのかもしれない。

その社会科の教師は無口だったが、横で自分も描くことで多くを学ばせてくれた。


私の強固な態度に母がようやく重い腰を上げたのは、二学期が始まってすぐのことだった。

福井の施設に母は単身見学に行ったのだ。

「しめたーっ」と思った。

私は辛辣でこそくな手段に、もうすでに出ていた。

見学に行ったことを理由に母が反対するのは予測していた。

教師たちと私は海水浴を兼ねて二泊三日で行って来たところを、母は日帰りだった。

やっとの思いで必死で帰って来て疲れ切っていた母に対して、「どう?良い施設だっただろう?遠いという理由は僕には通用しないよ。なかなか行き来できないような遠いところだから行きたいのだから。僕もここから解放されたいし、お母さんもお母さんの実家もその方が都合がいいのではない?それに妹も来年中三。受験には僕は邪魔だろう?どうしても福井へ行かせたくないのだったら、他を探せ!できるだけ早く。ただし、僕の気に入る所を・・・・!」と、先手を打った。

これが、当たらずしも遠からずだったようで、母はそれについては反論しなかった。

「親が元気なのにお前を施設に入れると・・・・」

私の予想通りのその母の切り返し方にへきへきし、私は母の言葉をさえぎる。

「また世間体かぁ?いい加減に開き直ったらどう?障害者を産んでどいて世間体もクソもないのとちがう!?言いたい奴には言わしとけばいい!」

母はまた叩こうとした。

「いくら叩いても無駄だ!引かん!一歩たりとも!それでよければ気の済むまで叩けばぁ」

私のその一言で、母は、戦意を喪失したらしく、うなだれながら、私が気に入る施設を探すことを、約束した。

今度、兵庫県一の宮町(現在の宍粟市)に施設が新設されるという情報を母が持ってきたのは、それから一週間後のことだった。それから一カ月、その施設情報を母に集めさせた。

母にその施設を造ろうとしている兵庫県心身障害児福祉協会に話を聞きに行かせた。施設の名称は心身障害者療護施設『はりま自立の家』。イギリスのチェシャー・ホームをモデルとして、「施設」ではない、明るく家庭的な雰囲気のある「家」を目指すという事と、一芸に秀でている若い肢体不自由者を多く集めたいとの話だったそうだ。

感銘を受けたようで、母は帰って直ぐ私にそう話した。

本来なら自分自身で集めたいところだが、母が私を連れていくのを面倒がったことと、当時自分で動く手段が無かったからだ。

それに、施設へ行くのを反対されても、母自身が探して来たのだからと押し通せるという、計算も働いた。

開設が1981年11月と、この翌年に迫っていた。

どうせ行くのだったら新設の施設が、それも開設時がいいと考えた。しかも「若い肢体不自由者を多く集めたい」という話は、対等かそれ以上の会話ができる障害を持った友達ができるかもしないという希望を、私にもたらした。

自分は一芸に秀でている事は持っておらず、対象外かなあとは思ったが、そういう中に身を置きたかったしそういう中に身を置く事による刺激が何かを変えてくれると信じていた。

私は、療護施設『はりま自立の家』に入る事を希望し、市福祉事務所の担当職員と県の更生相談所の担当職員に話を進めてもらうよう頼んだ。

私のそういった重大な決断のすぐあとに、県から川西養護学校に高等部設置の認可が下りた。

1981年4月に高等部が設置され、あらためて高等部一年に入学することになる。

また新たに3年間を同じメンバーの高等部で過ごすのが、私にとって無駄な時間の浪費にしか思えなかった。

『はりま自立の家』へ行くことと、高等部で過ごす3年間を何度てんびんに掛けてみても『はりま自立の家』のほうが重かった。

私の決意が揺らぐことはなかった。

ただ、母は高等部ができるということで『はりま自立の家』を諦めさせようとしていたが、私の決意は変わらなかった。

周りの大人は、高等部を卒業してからでも遅くは無いなどと言っていたが、本来なら来年高三である。自身の道を歩みはじめても早くは無いと私は考えていた。

医者に小さい頃から二十歳までの命だと言われ続けてきたのだ。信じてはいないものの強迫観念は持っているから、焦っていたのもあると思う。


二学期の半ば、約束通り社会科の教師が油絵の道具一式そろえてくれた。すごくうれしかった事を私は鮮明に覚えている。

その時の道具箱とパレットは、現在に至るまでずっとそばに置き、愛用してきた、私の人生の相棒である。

今後も描けなくなるまで、使って行きたい。

三学期の末に私は処女作を完成させた。

これが長く続く画業への第一歩だった。


その頃、川障連では『ひまわり園』廃園をめぐって議論がなされていた。『親の会』は以前からの要望である作業指導所ができるという事で『ひまわり園』廃園に賛成した。『福祉協会』も身体障害者の作業指導所も併設されるということで反対しなかった。『福祉協会』が反対しなかった理由は他にもあった。当時の会長の個人的な仕事という、利権がからんでいたようである。『ひまわり園』廃園に反対したのは、軽作業も困難な重度肢体不自由児・者を沢山抱えていた『父母の会』だけであった。ことに川西養護学校に在学している障害児の親たちは、卒業後の軽作業の困難な重度肢体不自由者の受け皿がなくなるという大きな懸念を示した。

市と、市から作業指導所の運営の委託される予定で発足しようとしていた川西市社会福祉事業団は、その場しのぎとしか思えない悪辣な手段をとった。

『ひまわり園』の園生と指導員を全員、作業指導所に行かせる、という提案をしてきたのだ。

指導員はともかく、人員的に作業指導所の性質からして、『ひまわり園』に通っていた軽作業の困難な最重度の障害者全員を受け入れるのは無理だということは、目に見えていた。ただの詭弁としか思えない。たとえ重度肢体不自由者を全員受け入れられたとしても、作業効率を優先する作業指導所ではほったらかしにされることは火を見るより明らかだった。

だが、『ひまわり園』に通っていた最重度の障害者の親たちは全員、市と川西市社会福祉事業団の言葉を鵜呑みにして、『ひまわり園』閉園に同意した。

『ひまわり園』に通っていた最重度の障害者の親たちが同意したことで、市と川西市社会福祉事業団は当事者の同意を得たとして、話を進めた。

川西養護学校に在学している障害児の親たちは、大きな懸念を持ちながら何も言えなくなった。ただ傍観するしかなかった。

1981年3月、『ひまわり園』は閉園した。市と川西市社会福祉事業団によってつぶされたと言っていい。

市と川西市社会福祉事業団の約束が口から出まかせだというのは、作業指導所の職員採用の時点で露呈していた。

『ひまわり園』の二人の指導員のうち、男性指導員だけが採用となり。経理の都合でうちに時々来ていたおかっぱ頭の女性指導員は採用されなかった。

『父母の会』は市と川西市社会福祉事業団に抗議したが、市は「職員の採用に関して権限は事業団にあり、市にはない」といい、社会福祉事業団は「職員の採用は他からの干渉は一切受けない」と言い張った。

約束の一つは一方的に反故にされたのだった。いまだにそのことに関して、市と川西市社会福祉事業団からの謝罪は一切ない。

ちなみに、川西市社会福祉事業団の理事長は当時市長がしていた。市職員も執行してきて、重要ポストに着いていたから、市や川西市社会福祉事業団の言葉は明かに詭弁であった。


採用されなかったおかっぱ頭の女性指導員は、愛想をつかせて事業団への就職はあきらめ、とりあえず川西養護学校の介助員として働く事になった。

1981年4月、作業指導所が開設した。

『ひまわり園』に通っていた重度肢体不自由者は、とりあえず全員受け入れられたが・・・・・。これも悪辣な策謀の一環であった。

川西市は、他の所で実績を上げていたある人物を、まるで神か救世主の様なVIP扱いで、鳴物入りで作業指導所の所長に迎え入れた。

実績を上げるため大きな権限をその所長に与えた。

それが大きな過ちだったと、私は思う。



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