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就学編7 (深町正の自叙伝)

4月に入って、『別科』という宙に浮いたような状態で、今まで通り川西養護学校に通い始めた。

『別科』の生徒は、先に記した尼崎養護学校の一つ上の学年に編入してき、川西養護学校には高等部が無かったため中途半端な身分のまま通学を認められていた一人と、3月に中学部を卒業した四人の、合わせて五人。担任は、中学部から引き続きのたくましそうな女性の国語の教師と新任男性教師二人、一人は長身ですらっとした科学の教師で、一人は体格のいい楽しそうな音楽の教師の三人だった。教師三人では手が足らず、中学部等の教師が応援に来ていた。

たくましそうな女性の国語の教師は、私の進もうとしている道を常に理解し、励ましたり助言したりしてくれた。

長身ですらっとした科学の教師は、私が困難に立ち向かうとき、共に悩み・考え、共に立ち向かってくれた。

体格のいい楽しそうな音楽の教師は、時には友達のように喜怒哀楽を共有し、時には音楽や音楽を通して芸術や創作の素晴らしさを教えてくれた。私を自宅へ連れて行きいろんな話をしたり楽器やオーティオ機器やビニ本まで見せてくれたたり、自分がコンサートマスターをしている川西市吹奏楽団の練習に連れて行き見学させてくれたり、川西市吹奏楽団の定期演奏会のパンフレットに必ず私の詩を載せてくれていた。今作曲しているのはこの教師の影響かもとれない。


障害の違いによる学力の差が歴然としていた私と他の生徒とのカリキュラムを変えるためであろう、私だけ5教科が個人授業になった。

これは、私が望んだことではなく、あくまでも学校の方針であった。しかし、他の一部の親たちは嫉みやひがみから、私だけ特別扱いされていると、批難や批判をした。まったくのお門違いだが、その矛先は私と母にも向けられた。母はたまりかねて個人授業をやめるよう教師たちに頼んだが、聞き入れてもえなかった。

今、冷静に考えればわかる事だが、二次関数をしている者と二桁の計算がやっとな者とが同じ授業を受けること自体無理があり、どっちもつかずになってしまう。5教科すべてにその傾向は顕著だった。私を5教科全て個人授業にした教師たちは、最善の選択をしたと思う。

批難や批判をする親は往々にしてプライドだけ高く、わが子の現実に目を背ける傾向が強い。

その後私は今日まで、一部の親たちの嫉みやひがみからいわれのない批難や批判・中傷の矛先となってきた。中には人としての品性や品位を疑う中傷もあった。

川西市に限らず障害者の親は下世話な人間が多い。

そのことは追々書いていく。


あるホームルームの時間、私の将来への不安はクラスで共有できるのではないかと思い、「親は先に死ぬ。そうなったら困るのは僕らや。その時の為に今からみんなで考えていかへんか」と口火を切った。

全員無言だった。

クラスメイト全員危機意識が欠落しているようだった。

「高等部かもしできてても、あと三年で卒業や。自分の将来、もう考えてても早くは無い。そんなできるかどうかわからへん高等部あてにするより、将来のこと考えとく方がええ!」

とも言ったが、重い空気が流れるだけで反応は希薄だった。

反応したのはおやたちのほうだった。

例によって私が生理的に受け付けなくなっている奴の親から、例のごとく非常識にもその夜中に電話があった。例のごとく電話口でそいつを泣かせて・・・・・。「子供が不安がるから学校で将来の話をしないでほしい」という電話の内容だった。

そんな親子に関わること自体バカバカしいし、時間と労力の無駄だと思い、それ以降なるべく関わるのは避けた。

また、あるクラスメイトの親は、「うちは絶対施設なんか行かさない。あの子の兄貴に面倒見させる」と、私の母に言いきったそうだ。

そのために、クラスメイトに支給されていた年金をその兄貴の学費にしていると、そのクラスメイトの親は豪語していたようだ。

当時大学生だったその兄貴が交通事故を起こしケガをしたことに二人の他の親に付け込まれ、新興宗教にのめりこんでいった。そのことがきっかけで、母を含めて他の親たちは新興宗教グループに警戒心を持ち遠ざけた。

ふっと冷静になって周囲を見ると、私と悩みを共有でき、いろんなことを対等に話し合え議論でき、高め合える、同じような障害を持った友達が、いない事に気付いてしまった。

どうしようもない不安と淋しさが,私の心を襲う。

教師たちは親身になって相談にのってくれた。ありかたい事だが、より同じような障害を持った友達と、と悩みを共有し、いろんなことを対等に話し合え議論し、高め合うことが、自分にとって必要だと感じた。

それらの事情と教師からの助言もあって、私だけで将来を考えることにした。クラスメイトなんかかまってられる立場ではないと考えたのと、そんなクラスメイトと周囲に引き込まれて自分の行くべき道を見失いたくは無かったかからだった。教師たちも進路問題ということで親身になって、一緒に考えてくれた。

『別科』という宙に浮いたような状態だったから、より焦っていたのか知れない。

教師たちも初めてのことで、しかも学校自体新しいから蓄積されたノウハウやデータが無いため、全くの手探り状態だった。進路指導ということで、とにかく市の福祉事務所に相談に行くことになった。母には幾度となく私の意志は伝えていたものの、福祉事務所に相談に行くことをなかなか認めなかった。「必要無い」のいってんばりだった。どうしようもなくて教師に説得を頼んだ。母はしぶしぶ福祉事務所に相談に行くことに同意した。私がまだ未青年であったことと法的に成人であったとしても所得かない限り親の保護下にいるから、親の同意が必要だった。

福祉事務所に行き、担当職員に会った。担当職員とはいろんな行事等で面識はあった。しかし、相談に来るのは初めてである。私が、「施設に入り一円でもいい、自分で稼ぎたい。そうすることで何か自信を持てるのではないか。悩みを共有でき、いろんなことを対等に話し合え議論でき、高め合える、同じような障害を持った友達もほしい。そのためには、なるべく早く家を出たい。家にいると自分が駄目になる。」というと、担当職員は少し曇った様な表情を浮かべた。

「本気か?」ときかれ、「はい本気です」とこたえた。

担当職員は小首をかしげながら、私の顔を見据える。

「変わった奴やなぁ。普通親が面倒みれなくなって仕方なしに行くのが施設や。しかし君は自ら施設に入りたがっている。どうせ将来的には施設に入ることになるのに・・・・・。変わった奴やなぁ。」

本当に不思議そうだった。

「自分の将来自分で選ぶのって普通だと思いますが、なんか変ですか?今まで見てこられた障害者がおかしいんとちゃいますか?親が面倒みれなくなって仕方なしに行かされるって、行かす方も行かされる方も無責任やと思います。自分の進路を自分で考える事のどこが変わった奴なんですか?」

相談は二時間及んだ。

施設への入所は市の判断もだが、その頃の措置制度下では県の更生相談所の判断によるところが大きかった。

なにはともあれ県の更生相談所にいって、相談してみようということになった。

二ヶ月後、県の更生相談所に市福祉事務所の担当職員二人と担任一人、母に付き添われて相談しに行った。

市福祉事務所の担当職員に二ヶ月前に言ったことと同じような事を言った私に、「君の想いはわかる。その想いは大切や。それで、君はそのために何してる?君は何ができるや?」と、県の更生相談所の担当職員は切り出した。

私の聞きたい事を見透かしたように、県の更生相談所の担当職員はこうつづけた。

「労働して自分で稼ぎたいんやったら、授産施設に入らなあかん、授産施設に入る条件は身辺自立ができてることや。・・・・・服は着んでも死にゃせん。食うのはどんな格好してでも食える。けとなあ、クソは出るもんや。クソしたらケツ拭かなおかん。授産施設ではだれも拭いてくれへんぞ。自分でケツ拭けな授産施設はどこも行かれへんぞ!」と。

更生相談所の担当職員の「自分でケツ拭けなどこも行かれへぞ!」という言葉は、私に衝撃を与えた。

頭でっかちな私の甘さは打ち砕かれ、現実の中に放り出されたのだ。

私の人生で二度目の挫折だった。

目の前が真っ暗になり、一瞬迷宮に迷い込んだ気がしたが、この時の私はそんな余裕は無かった。

それに、半面で自分に絶望はしていなくて、むしろ可能性を信じて疑わなかった。

自分でケツ拭けなどこも行かれへぞ!」という言葉は、確かに私を奈落の底に叩き込むのに充分すぎる言葉だった。しかし、それは私に道を指し示す言葉でもあった。

自分でケツ拭けなどこも行かれへぞ!」という言葉を裏返せば、自分でケツが拭ければ(身辺自立ができれば)授産施設に行けるということだろう。

更生相談所の担当職員にも私の必死さか伝わったのか、いろんな助言をし、情報を教えてくれた。

福井県に私の希望に合う施設があることも聞かされた。

ある新聞社が行なっていた邦文タイプライターの贈呈事業のリストにも入れてもらえた。かなタイプと英文タイプは学校の授業の中や家で毎日使っていた。

しかし、邦文タイプライターははじめてだった。使いこなすことができれば、当時印刷の主流だった写真植字(写植)という仕事ができるかもしれないという微かな希望があった。

それからの私は必死だった。

身辺自立のトレーニングを生活の場でも学校でもした。『別科』という宙に浮いたような状態で、しかも5教科全て個人授業というのは、身辺自立を最大の課題にしようとしていた私にとって、すごく都合のいい状況だった。

『別科』というのはカリキュラム的な制約は無く、ある程度融通がきいた。教師たちと今の自分にとって何が必要か、話し合いながらカリキュラムを変えていき、学校での時間の多くを身辺自立のトレーニングにあててもらった。教師たちもそれがベターだと考えてくれたようだった。「お前なら少し頑張れば国立大学に行けるのに」という声もあったが、大学出た後どうするのかという私の問いに、答えられる教師はいなかった。

かくして私の身辺自立への挑戦は始まった。

家では、衣服の脱着や小便・入浴などを自分でするようにした。

学校では、担当教師と一日中トイレにこもりケツの拭き方を摸索したり、一日中風呂に入って身体の洗いい方を考えたり、熱湯を振り撒きながらお茶を入れたり、包丁を振り回したり飛ばして床や壁に突き刺さったりしながら調理もした。社会の時間は、障害者の生活にかかわる法律や制度などを教えもらうようにした。

家では、小便や着替えを1時間半程度かけ、シャワーは3時間程度かかってしていた。生活のほとんどをそれらに費やした。最初のうちは「できる」という満足感を感じていたが、人生を考えたときそれだけで一生過ごすことへの不条理さも感じていたし、「これで生きていると言えるのか?」という疑問も心の底にあった。

しかし、後戻りはしたくは無いし、口に出すと母に負けてしまってここから抜け出せなくなると思った。

時間をかけてできていることが「できる」だとは思えなかったが、最初から限界を決めてあきらめるというのも、何か違うような気がした。

自分を見極めたかったのかもしれない。

自立をしこの状況から抜け出たいという、焦りがあった。

その頃の一般的な自立の概念では、身辺自立と金銭的自立が基本であった。

それからすると私にとって自立は途方も無く遠かった。自分にとって自立とは何なんだろうか?身辺自立と金銭的自立だけが自立なのだろうか?沸々とわいて出てくる疑問に、答えを見い出せずにいた。

もどかしい日々、それでも自分を見極めるため、身辺自立への挑戦は続けた。

そうこうしているうちに一年が過ぎていった。


その間『ひまわり園』のおかっぱ頭の指導員は、母への会計報告の為、月一回うちに来ていた。その合間で私とも雑談するようになった。アニメやSFと言ったたあいのない内容だったが、夢中になれた。

その頃、後に先駆的と全国から評価される西宮の『重度心身障害者通所施設青葉園』の後々の園長にもなる人も、他の地域からも『ひまわり園』に見学に来ていたようだ。当時から重度心身障害者の地域での行き場(生き場)ということは問題になっていた。『ひまわり園』はそういう問題に方向性を示す先駆的な事例だった。

その一方で川西市が新たに『親の会』の長年の要望で、知的障害者の作業指導所という中途半端なものを造る計画を実行に移し、すでに着工していた。本来、作業指導所とは、障害者に対して、一般企業への雇用を前提として、長くて6年から8年という期限付きで職業(おもに軽作業)訓練を行い、障害者の雇用促進を図る施設だ。当然、対象者は、軽作業ができ得る障害者に限定される。

重度心身障害者は対象外だった。

にもかかわらず、市は作業指導所を造るというを盾に『ひまわり園』への補助金の全面カット、事実上の『ひまわり園』の閉園を迫った。いいや迫ったというより決定事項として強制されたものだった。



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