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就学編6 (深町正の自叙伝)

長い夏休みも終わりかけた頃、音楽の教師に急に誘われでドライブに行った。様子がおかしかった。いつもは音楽やその他いろんな話をしてくれるのだが、その日は「六甲山頂まで付き合って」と言ったきり黙りこくってしまった。六甲山頂までの車の中、息苦しいぐらい重い空気が淀んでいた。いくら鈍感な私でも、流れる車窓の景色を見てやり過ごすしかできなかった。時間が過ぎるのがすごく長く感じた。六甲山頂に着き、車から降り、山ろくが見渡せるところまで私を乗せたバギーを進め、教師はその横にしゃがみこんだ。眼下には神戸や大阪の街が見えて、私はさっきまでの息苦しさを忘れてしばし感動と興奮にひたっていた。しばらく沈黙して私の横にしゃがみこんでいたその教師は空を仰いだ。「・・・私、ふられちゃった・・・」とポツンと言った。私にしたら唐突だった。その教師の足元の土の上には、よく知っている教師の名前があった。空を仰いだその眼から涙かあふれていた。見てはいけないものを見てしまったような気がして、どうしていいのか分からず、私は神戸の街並みを見つめていた。そうするしか無かった。私の手をしがみつくように握り締めたその教師が震えているのを感じた。言葉を探したが中三の私には見つからなかった。ふと、その教師の「人間だもんね」という言葉がよぎった。「僕も先生も人間ですから、こんなこともたまにはいいと思いますよ」と私が言ったらその教師は、小さくうなずいたままうつむいた。「深町君、ごめん、しばらくこのままでいいかなぁ」そう言うと、私の手を痛い程掴んで、声を押し殺して肩を震わせていた。私は手の甲に、何かが落ちて濡れていくのを感じた。

その教師のそんなところを見てはいけないような気がして、私は声を押し殺してすすり泣く声を聴きながら、黙って神戸の街を見つめていた。私にはそんなことしかできなかった。たいふ長い時間そうしていた。ありったけの芝居で平静を装ってはいたが、中三の私には衝撃的だった。その帰り、あるアパートの前で車が止まった。ふった方の教師が住んでいるアパートだった。しはらくそのアパートを見つめていた教師は「・・・身も心も捧げたのに・・・」と深い溜息をした。助手席でそれを見ていた私は、痛々しささえ感じた。だた、それでふっきれたようで「ごめんね、生徒にこんなところ見せて。先生失格ね。二学期からちゃんと先生するから・・・・さぁ、帰ろうっかあ」と、車を発進させた、私からもう少しドライブしてほしいと言ったのは、もちろん自分の心の平静を取り戻すためでもあるが、その教師の目がまだ腫れて充血していたからだった。


二学期に入ってすぐ、来年度には高等部の設立は難しいという回答が市からあった。中三の私たち4人は、高等部設立の運動と同時に、中学部卒業後、高等部設立までの間の問題にも直面していた。不安だったが、それ以上の不安が私を待っていた。

それは妹の小学生最後の運動会当日から始まった。弁当を作っていた母に異変が起きた。背中と腹部に激しい痛みがあったようだ。母は弁当を作り終えた後、ホームドクターだった内科に走った。母は胆石だった。それも早期の手術が必要という診断だつた。今のように介護制度が発達しているわけではない当時は、主たる介護者が倒れるという緊急時に対応できるところは皆無だった。母は私の介護の段取りをし、入院した。3週間という短期間の入院ではあったが、私にとって貴重な機会だった。父・妹・九州から来てもう自分の家庭を築いていた従姉や母方の従姉・叔母・ボランティア・教師・近所の人たち・・・・・等々、いろんな人に生きていくうえで必要なことや、生活のあらゆることをしてもらった。母がして当り前に思っていたことが恥ずかしく感じた。自分からも自分の将来からも目を背け、考えようとせず、何もしようとしてこなかった、何もできない自分を、嫌になるくらい思い知らされた。私は周りから「かしこい」「できる」と言われてきて、無意識のうちに自分でもそう錯覚し、自信を持っていたようだ。その錯覚の自信は一気に崩れた。

金銭を稼ぐことはもちろん、買い物や料理・掃除・洗濯といった日常的な家事も、衣服の脱着や排泄・飲食といった行為も、生きて行く上で必要な事が何一つできないという現実を、私は突き付けられた。

同時に、母の入院で、親は永遠ではなく自分より早く死ぬ ということは、いままで観念的には理解しているつもりだったが、必ず来る現実として突き付けられた。

私の人生で最初の挫折だった。

どうするか、必死になって考えた。

しかし、中三の私には自分の未来など想像もできず、目の前に広がるのは漆黒の闇のみに思えた。

何もしようとしてこなかった何もできない自分ということを考えると、未来など絶望的にしか思えなかった。

途方に暮れそうになったが、精神的に途方に暮れている余裕は私にはなかった。「私の死ぬ前に死んでくれたら・・・・」という母の言葉が、私の頭をよぎったからだ。殺されかねないという切迫した恐怖心もあったし、勝手に生んどいて先に死んでくれというのは、あまりにも親の身勝手だとも思った。

施設へ行くこと以外、私のような重度の身体障害者の生活の情報はこの時代非常に少なく、指針となるものが無かった。不安は解消しきれず、増していくばかりだった。私は何のきっかけすらつかめず、ただただもがいていた。そうこうしているうちに三週間の入院から母が戻ってきた。

戻ってきた母に、私は開口一番

「僕の将来どう考えてる?」と切り出した。

「私の目が黒いうちは私が面倒みる」と平然と答える母。それに対して私は率直な疑問を返した。

「じゃあ、目が白くなったら?」

母はしばらく考え口を開いた。

「私より早く死んでくれたら安心やけど、そうでなければ施設に預けるしかない」

「私の目が黒いうちは私が面倒みる」と「私より早く死んでくれたら安心」というのは、親の心情を表す美しく世間うけする言葉で、当時の障害者の親がお題目のように言っていた流行りの言葉だった。

私はそんな言葉を使った母に腹が立った。

「生んどいて早く死んでくれたら安心というのは親の勝手やし、面倒みれなくなったら施設に預けるしかないというのは親の都合や!おかあさんは僕のことは考えてない!死ぬんやったら勝手に死んでくれ!行く末を見届けてから死ぬんが親の責任ちゃうんか!それは責任放棄ちゃうか!?僕の行くとこ探しといてくれ!」

その時の私の精一杯の言葉だった。母はしばらくの沈黙の後、「親の言う事を聞いとけばええんや」という、いつものような高圧的な態度と、「目の黒いうちは私が面倒みんと私が世間からどうみられるか・・・・・」という言動を口にした。

これが本性だと思った。母は、明らかに私の将来より自分の世間体の方を、優先させていた。この親に自分の将来は任せられないことが、はっきりとわかった。

私自身、自分の将来に対するビジョンは持ち得なかったから、ある意味親への責任転化にも思えるが、自身が考えなければならないということは自覚していた。

私の言葉は母に相当インパクトを与えたようだった。

これが私の、「自分の人生は自分で決めていく」という最初の宣言だったし、それを親の権限や力で抑えようとするであろう母への宣戦布告でもあった。

その頃から「障害者の一番の敵は親だ」という言葉を、おりに触れ口にするようになっていった。

勿論、産んでくれ育ててくれているのだから当然感謝はしていたが、ここで情に流されていたら自分の未来が開けないと思った。「親は敵だ」というドラスティックな言葉は、私のそれまでの経験や、この時の母の言動への反発の影響が大きいが、私自身後戻りできない所に立つ覚悟をしたという意味もあった。「親は敵だ」というのは、その時の状況や決意を表す、象徴的な言葉だと思う。それは私の本気と虚勢が入り混じった言葉だった。母は私の真意を知ろうとせず、ただむやみに力で抑えようとやっきだったが、母が抑えようとするほど、私は「親は敵だ」という虚勢を張らざるを得なかった。


同時期、教育者を目指していた大阪教育大卒で『日曜保育』の学生ボランティアだった女性が、教師になることをあきらめて指導員となり作ってきた、学齢期を越えた未就学障害児・者が集える場、『青年学級』、は、尼崎養護学校に途中で編入して卒業した身体障害者の受け皿にもなっていた。「父母の会」単独では運営しきれなくなっていたことと、「親の会」の知的障害者も受け入れてほしいという要望もあった。川西市社会福祉協議会のはたらきかけもあり、それまでバラバラだった「父母の会」、「親の会」、「福祉協会」、の三団体は組織化し、川西市心身障害者団体連合会 通称「川障連」というものを作った (表向きはこうだか、ここでは書けないがそれぞれ様々な思惑があったようだ)。そして『青年学級』は運営母体を「川障連」に移し、名称も『青年学級ひまわり園』とし、再スタートをしていた。

私とは直接関係はないが、後に私の人生に大いに絡んでくる。ちなみに、私の母が「ひまわり園」の会計係をしていた。


川西養護学校では中学部卒業後の進路問題がより鮮明化して差し迫ってきていた。市教育委員会はまだ対応を明らかにしておらず、依然進路問題は混迷していた。

私以外のほとんどの学校関係者は、高等部設置を求めていた。私も成り行き上、表向きは高等部設置を求めていたが、内心そんなこともうどうでもよかった。自分の将来を考えるのに精一杯だった。

たかが養護学校の高等部、卒業しても高卒の資格は無い。学歴は一般社会的には中卒だ。そんなことにこだわっているより、将来を見据えて、今すべき事・今しかてきない事・今せねばならない事を考えていくことの方が私にとって有意義に思えた。

私はやみくもに焦っていた。

そんなとき,ある土曜の放課後、家に帰ってからあの音楽の教師がやってきた。将来のことで母と口論となり平手打ちされているところだったので、私は救われた。音楽の教師は赤く腫れた私の頬を見て、「深町君、ちょっと借りますね」と母に言い、私を連れ出し車に乗せた。何か母に話してから運転席に座った。私は音楽の教師の自宅にお邪魔することになった。

「遠慮しなくていいよ、今日はたまたま私一人だから」と、その教師の部屋に通された。

教師はすぐ濡れたタオルを持ってきて、何も聞かずに私の頬にあててくれた。腫れた頬に濡れたタオルは気持ちよかった。

「お母さんには、今晩はあなたを私が預かるって言って来たから、ゆっくり語り合おう。私も話したいことがあるし」とその教師はいった。

私とその教師は、その夜一晩中本当にいろんなことを語り合った。私は将来への思いや不安・油絵を描きたいという欲求・父母への不満・・・・・を、その教師は恋愛・仕事、人生・・・・・を語り合った。その教師は、対等な態度で語り合ってくれた。

気付けば窓の外は白み始めていた。

その教師は何か踏ん切りがついたようで、転属願を出すと決意したのだった。心情を思うと、私は止める気にはなれなかった。

ひと時ではあったが、私の中のもやもやしたものが少し晴れたように思えた。

太陽が昇ってきた。その光景を私は、自身の未来と重ね合わせ、未来を信じようとしていた。

帰りの車の中で、その教師は私にある提案をしてきた。卒業式に歌う歌の詩を考えないかというものだった。「今の素直な思いを込めて作ってほしい」と言われ、やってみますと言ったものの、戸惑いながら二日で書き上げた。

鈍行列車というこの詩である。

<        鈍行列車


僕らは たびだつ

この手で汽車を動かして

ゆっくりゆっくり進みます

川があったら橋をかけて

線路がなければ 作ります

さぁ僕らの旅は これからだ


僕らは たびだつ

もう汽車あとへはもどれない

ゆっくりゆっくり進みます

みんなと力を合わせつつ

輝く未来をしんじつつ

さぁ僕らの旅は これからだ       >

その教師が作曲をした。

二学期の終りであった。


三学期が始まってすぐ、昼休みに尼崎養護学校から中学生活の3年間ずっと担任をしてもらっている、破天荒な熱血教師に呼び出された。腰を痛めもう養護学校では働けないから転属願を出したということを伝えられた。残念だったが、仕方が無かった。

私は中学生活の3年間の終期を肌で感じていた。



卒業式に唄う<鈍行列車>を練習しているとき教頭がやってきて、卒業式に<鈍行列車>を唄うのをやめろと言って来た。

普通校で長年生活指導をし、竹刀を片手に校内をのし歩き、鬼と呼ばれ恐れられていたという逸話がある教頭だった。からかうとすぐ顔を赤くして口をとがらせ怒っていたから、それが面白くて私はよくからかっていた。教頭もよく私をからかっていたから、おあいこだ、普段は実直で無骨だが一本筋の通った人だが、そのときは、♪輝く未来をしんじつつ♪の部分がいやみだ という、まったく筋が通っていない理由だった。これはチンピラのいいがかりに近い。

私たちはもちろんだが、そこにいた教師全員が反発した。

「教頭!このどこが誰に対するどういったいやみになるんですか!?」

「この詩は子供たちの素直な想いですよ!」

「生徒たちの想いをどう思っておられるのですか!」

教師たちが次々、教頭に詰め寄った。

教頭はいつものように、すぐ顔を赤くして口をとがらせ怒って「本校初の卒業式だから、市や市教育委員会の関係者、市長、議員、市内各校の関係者などをお招きする。そんな席で、こんないやみととれる歌を唄ったらどう思われるか、分かってるのか!?」という。

それに対して「それなら尚更、高等部ができないという現状を訴えるいい機会ではないですか!」と反発を強める教師たち。

唄わせない、唄わす、唄わせるんだったら詩を変えさせろ、変えさせたくない、教頭と教師たちが押し問答をしていると、休み時間のチャイムが鳴り母らがやってきた。教頭は母らに、この卒業式に唄おうてしている<鈍行列車>の歌詞をどう思うかと、唐突に問うた。狭い学校だから教頭と教師たちの押し問答は、母らの控室にも聞こえていたらしい。唐突な問いにもかかわらず母らは平然と「なにか問題でもありました?子供らの想いが伝わってくるええ歌ですやん。もしこれをいやみにとる人がいてたら、なんんやましい事かあるんちゃいますか?そう思いませんか?教頭先生」と言った。その場は騒然とした。それに続いて「だれの卒業式ですか?教頭先生は僕らの味方ですか?それとも・・・・・?」と、すかさず私はそう言った。それがとどめとなったようだ。顔を赤くし口をとがらせたまま、教頭は無言で職員室に戻っていった。中間管理職の悲しさだ。教頭が職員室に戻っていった後もその場は殺気立っていた。

その日放課後の職員会議で♪輝く未来をしんじつつ♪というフレーズを問題にしようとした校長と教頭が、逆に吊るしあげられたことは言うまでも無い。

当時の状況から教頭の危惧も分からなくもない。しかし、校長と教頭が保身のため、♪輝く未来をしんじつつ♪というフレーズを問題にしようとしたともとれる。だとしたら教育者として失格だろう。そうで無かったと思いたい。

作詞者としては、自分の事ももちろんあるが、高等部の設置を要求している状況で書いたのだから、内容に反映するのは当然だろう。それで、いやみや皮肉ととらえられても仕方が無いと思っていた。


中学部の卒業が押し迫っていたそんなある日、『青年学級ひまわり園』の指導員が、その年大卒予定という女性を連れてうちに連れてきた。妊娠・出産の為、『青年学級ひまわり園』の指導員を3月いっぱいで辞めるので、引き継いで指導員をしてくれる人材を探していたところ、応募しきたのが、若い男性とこの大卒予定の女性だという事だった。翌年度から市の女性も降りることから、指導員にその二人を採用した。

自分の次の指導員だと紹介された。母が会計をしていたから顔合わせに来たのだった。おかっぱ頭で飾りっ気の無い流行とは無縁のような、当時の大学生にしてはあかぬけしていない女性だった。『青年学級ひまわり園』の次の指導員ということで、私にはあまり関係ないので関心も無かった。母が会計をしていたから、それから会計のことで月1.2回程度この女性はうちに来ていた。受動的に私もそのたび顔を合わせることになった。

二人の指導員は変わってしばらくして、大人の障害者にいつまでも青年学級はおかしいということと、行政の支援を受けやすくするため、名称を『重度心身障害者通所施設ひまわり園』に変更した。

まさかこの指導員の女性が私の人生に深くかかわることになるとは、15歳の私には想像できなかった。


卒業式を目前にして、中学部卒業後の私たちの処遇が決まった。一時的な措置として『別科』という地に足がつかない枠を川西養護学校に設け、卒業後はその『別科』に通いながら、高等部設置の認可を待つというものだった。私たちの選択肢は無かった。私個人にしても、自分の将来への具体的なビジョンはなかなか持てなかったから、『別科』という地に足がつかない枠は非常に都合よかった。


『一円でもええ、自分で稼ぎたい。そうすることで何か自信を持てるんちゃうか。親といると自分が駄目になる。なるべく早くこの家を出たい。そのために施設に入ろう』そのころ、私は、そういった考え方をするようになりつつあった。

それは私が具体的に考える第一歩だった。


1979年3月。

第一回川西市立川西養護学校中学部卒業式は、たんたんと行われた。

開校からわずか1年のことだった。

とりあえず『別科』という場は保障されてはいたが、希望に胸を膨らませた卒業ではなかった。

それぞれ不安を胸に<鈍行列車>を唄った。

教頭が危惧したような、歌詞を捻くってとるような列席者は表向きおらず、混乱する場面は無かった。

卒業式は、滞り無く、無事済んだ。

卒業式終了後に、担任から手渡された卒業文集の題も、<鈍行列車>だった。

就学猶予と闘って、勝ち取った義務教育もようやく

終わった。

担任にお礼を言い、私は静かに中学生活に別れを告げた。

そのときすでに私は次の一歩を踏み出しかけていた。



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