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リリィ・スカーレット

作者: 未鳴 漣


 私、ダーシャ・ゼレナは、

 スカーレット・クラウディア・エーベルクレインの身に起こった悲劇をこの手記に記録する。


 これは、私の遺書である。



 ----------



 私は「悪魔に取り憑かれた」とされる人々を看てきた。

 その容態は様々だ。意思の疎通が難しいとされる者、己や他人をむやみに傷つけてしまう者……心労が祟って日々の意欲を著しく失ってしまった者も多く、堕落したとも取れるその態度を「悪魔にそそのかされた」として、患者たちは祓い師のもとへ送られてくる。

 この仕事を「悪魔祓い」と言うが、ろうそくを立てた魔法陣の中で呪文を唱えたり、内なる邪悪を追い出すために患者を鞭打ったりなどはしない。近年、そのような患者の取り扱いは禁じられている。「悪魔祓い」という名前が残っているだけで、実際のところ、人の心を看るのが祓い師の主な仕事である。

 たいていの患者は、適切な休養を取り、胸の内にわだかまる気持ちを他者に打ち明けたり、元の生活習慣を改善するなどの療法で快方に向かう。症状が重い者は、その特性をつぶさに記録し、どうすれば心穏やかに過ごせるかを模索していくことになる。


 当手記で取り上げるスカーレット・クラウディア・エーベルクレインは、軽症患者として施設へ入所させられた一人である。

 数ある貴族領地のうち、他所に比べて貧しいエーベルクレイン領を治める貴家の息女、スカーレット。彼女の担当になると聞かされた当初、私は戦々恐々としたものだ。祓い師としての経験がまだ三年ほどしかない若輩者が貴族のご令嬢を看るなど、本人の不興を買いはしまいかと気が気でなかった。

 貴族といえば傲慢で尊大、わがまま放題に振る舞う民衆の敵──というのは偏見であるが、人並みならない矜持を持つ堅固な気質の人であることは確かだった。スカーレットは冷静で冷徹、鋼鉄の精神を持つ令嬢であると聞いていた。

 とうてい、祓い師の世話になるなど考えられない。

 しかしながら、スカーレットは両親の強い希望により施設への入所を余儀なくされた。担当に私を指名したのは、ほかでもない彼女自身だったと聞く。いや、「私を指名した」との言い方は正確ではない。彼女は「学問の進歩に柔軟な若者を担当者に」と望んだのだった。

 スカーレットは十八歳。私は今年の初めに二十七歳になったばかり。

 本人の問題ではなく、家庭環境に難を抱えていると推測される彼女との出会いは、木々が芽吹く春のことだった。



 ----------



 スカーレットは秀才で、領民の困窮を憂う立派な淑女であった。

 私の読みは当たっていて、彼女の精神に特別な問題はなく、入所は両親との関係が悪化したことによるらしかった。

 三度目の面談で、私は思いきって彼女の両親について聞いてみることにした。エーベルクレインの現主人である父親と、近隣領を治める家から嫁いできた母親。二人に対する世間の印象は「温厚で柔和」。情け深く、領民の苦境に財を尽くす心優しき人格者であると評判だった。

 だが、スカーレットが言うには「ボンクラ」。

 彼女は小さな口に自虐的な笑みを浮かべ、肩をすくめてこう続けた。けれど、自分をこの施設に入れたことは間違っていないのかもしれない。

 何故かと聞けば、スカーレットはそれからさらに五回ほど面談を行った後で、理由をこっそりと教えてくれた。


 その日、彼女は私と顔を合わせるなり、「貴方を信頼して、すべてを打ち明ける」と言った。

 スカーレットが語ったのは、自分の記憶に前世のそれがよみがえったという話だった。私は耳を疑った。これまでにも何度か冗談を口にしたことがある彼女だから、からかわれているのかと思った。だが、言った本人の顔は真剣そのものだった。

 スカーレットは入所当時から、私やほかの祓い師たちを「精神科」の先生と呼んだ。その単語は初めて聞くものだったが、精神とは心のことであり、つまり祓い師のことであるとすぐに察しがついた。

 彼女は、その耳慣れない単語を皮切りに話を始めた。前世の何者かはニホンという国で生を受け、平凡ではあるが幸福の中で育ち、十五歳という若さで命を落とした。不慮の事故だったそうだ。

 その一生を過去のものとして思い出しただけなら、何ら問題はなかった。スカーレットが端正な顔をしかめたのは、前世の者が愛読していた恋愛小説の内容を語った時だった。


 それは現世で死亡した主人公の魂が世界を越え、悪魔と称される「悪役令嬢」に転生するところから始まる。このままでは破滅が予想される令嬢の人生をどうにか軌道修正していくことが、物語の趣旨となる。死なないようにと無難な将来を目指す中で、主人公は様々な困難に直面し、本来であれば嫌われるはずの相手から好意を寄せられたりなどする、喜劇の作品である。

 嗚呼。スカーレットは、何と想像力の豊かなお嬢様なのだろう。

 私は心底感心しながら、彼女の言葉を聞いていた。多大な興味を持って、その物語を聞いていた。だからつい、尋ねてしまったのだ。主人公の名前は何というのかを。

 スカーレットはややつり気味の目尻をけいれんさせて、貴家の息女にそぐわぬ乱暴な口調で吐き捨てた。

「スカーレット・クラウディア・エーベルクレイン」

 自らと同じ名を持つ主人公。

 家柄も、領地の状況も、家族の人柄も、何もかもが自身と一致している。

 それゆえに、彼女はその物語を「楽しむ」前世の者が許せなかった。

 これまで積み重ねてきた血のにじむような努力と、苦労をいともたやすく捨て。自分の家が没落しようとも、よその家に嫁げばいいだの。あまつさえ、その立場に甘えて怠惰に余生を満喫しようと企むとは。

 今、私の目の前で言葉を語るスカーレットには、耐え難い屈辱なのであった。

 彼女は貴族としての──エーベルクレイン領を治める人間としての誇りを何より大切にしていた。常に高潔であることを求める彼女は、たとえ記憶の中で見た娯楽であっても、その生き方を軽んじられることは我慢ならなかった。

 赤い唇を噛んで悔しそうにするスカーレット。

 その様子を見た私は何を思ったか? それとは……やや奇抜と言えるが、被害妄想に取り憑かれるほど、彼女は病んでいる。

 そう、彼女は心の均衡を失っている。実際のところ私の読みは間違いで、家庭環境ではなく彼女自身が問題を抱えていたのだ。この施設に収容される重篤な患者の中には、そういった支離滅裂な妄想に心を支配されている者もいる。スカーレットも似た症例なのだろう。

 そう推測したのだが、この時の私にはどうにも、はっきりと判断しかねた。

 これまで看てきた患者の誰とも違い、スカーレットの語り口が真に迫っていたからだ。



 ----------



 ここで少し、スカーレットの家族について書き記しておこう。


 スカーレットがボンクラと称した両親であるが、彼女は「人の良さは否定しない」と言う。度が過ぎるのが問題なのだと。それは彼女の祖父──先代主人も憂慮したことだった。

 祖父は自他ともに厳しく、貴族のあり方を体現したような人物だった。厳格すぎる態度はともすると他者を見下していると取られることもあった。そのため、領民からの評判は二分された。関係が思わしくない他家に悪評を流されることもあり、スカーレットの父親は幼少の頃から、通う学院で嫌な思いをしてきたそうだ。

 そのためか、彼女の父親は他者に対して必要以上に優しく振る舞うようになった。それ自体は悪い成長ではなかったが、彼は次第に自らの施しに対する好意に溺れていった。彼が持つ「優しさ」はゆがみ、他者からの評価を過度に意識するようになっていったのだ。

 祖父は我が子のいびつな性格をたしなめたが、幼少期の不愉快な体験から親への反発心を持っていた父は、その言葉を受け入れようとしなかった。

 両者の確執は時を経るごとに深まり、意見の対立は婚姻にも及んだ。祖父は辺境領の利発な息女を迎えるよう助言したが、本人は近隣を治める家の病気がちな令嬢を見初めた。

 祖父は彼女が子を産むに耐えられるかと心配した。

 父は、妻は子を産むための道具ではないと主張した。

 とはいえ、跡継ぎがなければ家は途絶えてしまう。どうするのかと聞けば、「養子でも何でも取ればいい」と父親は言ってのけた。血統を重んじる貴族社会の中で、血のつながりを軽視したとなれば、領土の貧困でただでさえ侮られているというのに、さらに立場を弱くすることになる。

 暴言とも取れるその言葉に、祖父は大いに(いか)った。

 だが、一人息子の彼を勘当するわけにもいかず、いさかいの火種がくすぶり続けることになった。

 そんな折り、スカーレットが誕生した。

 祖父と父親は彼女を取り合うようにして育てた。祖父は世の厳しさと学問の重要性を教え、父は他者への寛容を説いた。母は病気がちで世間知らずだったためか、教えられることは何もないと、いつもただ笑っていた。

 生き方の種々相を見て成長したスカーレットは、現状を分析し、よりよき未来を目指す祖父の姿にあこがれを抱いた。もちろん、父親の背中も見ていなかったわけではない。彼女は両者の長所を吸収して(よわい)を重ねていった。


 スカーレットが祖父に傾倒するようになったのは、彼女が十三歳の頃に起こった祖父と父の言い争いがきっかけだ。

 年老いていた祖父は領主としての仕事をほとんど息子に引き渡していたが、一つだけ手放していないものがあった。

 領地の貧困対策である。

 大昔の戦争で負けたエーベルクレインは、資源に乏しい領地の管理を押しつけられた。不毛と言ってもいい土地には人が居着かず、一家は長らく貴族の誇りを捨て、ひもじいままに生きてきた。

 その家を再興したのは、二代前の主人──スカーレットの曾祖父であった。彼の手腕で領民の生活は最下層を脱した。経済はわずかに上向き、彼は自らが見ることのない未来で領地が豊かに生まれ変わることを期待し、息を引き取った。

 曾祖父の遺志を継いだ祖父は、これまで順調に領地を盛り立ててきた。経済の回復と同時に増した領民の不満とも、真摯に向き合ってきた。エーベルクレインは今もなお、我が国の中では下流階級に属するが、状況は少しずつ改善しつつある。


 その功績を台無しにしようとしているのが、こともあろうにスカーレットの父親だった。貧困層にその場しのぎで金を配るやり方では、根本的な解決にならないというのに、彼は家の財を無策にばらまいた。結果、民からは感謝され、もてはやされ、さぞかし気分がよかったろう……とはスカーレットの言である。

 この愚行を発端とした親子の対立を間近で目撃したスカーレットは、父に対して疑心を覚えた。 

 民の生活を預かる者の自覚があるなら、時には冷然として、現在よりも未来に目を向ける必要がある。

 自分こそがしっかりと将来を見つめなければ、この家はいずれ潰れてしまうだろう。そして、領民をさらに混沌とした地獄へ突き落とすことになる。

 そうさせないためにも、スカーレットは一段と勉学に励む必要があった。


 しかしながら、エーベルクレイン家の覇権はすでに次代へ移りつつあった。スカーレットの祖父も、今や老いに首を掴まれた老骨であった。

 そこでスカーレットは苦肉の策を申し出る。彼女は祖父に、その意志を継ぐつもりであると告白し、席を譲ってほしいと提案した。祖父にはその指導役として、助言を賜りたいと。

 祖父はスカーレットの提案に乗った。

 実の父に疎ましい視線を向けられながらも、彼女は民の未来を守るため、十四歳にして領地経営を担うことになった。領民からの批判の矢面に立ち……祖父がそうであったように、冷酷な悪魔と罵られることも覚悟し、それでも立ち止まらず進んでいこうと決めたのだった。


 スカーレットは鋼鉄の精神を持つ。だが、やはりまだ心の未熟な子供だった。

 彼女が「前世の記憶」という被害妄想にとらわれたのは、それから一年後。十五歳の誕生日を迎えた時だった。



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 いや、ここで被害妄想と決めつけてしまうのは、人の心と向き合う祓い師として不誠実だろう。スカーレットがその話を本当だと言うのなら、私は信じなければならない。

 信頼関係とは、築くに難く、壊すに易い。

 私たち祓い師は非常にもろい橋を渡って、患者の心の中に分け入っていく。その足取りは慎重に、次の一歩で足下を崩してしまわないよう細心の注意を払って、対岸の相手に歩み寄る。

 それからは彼女の言葉を真実として聞き、その心労を慰めることに徹した。


 十五歳を迎えた日の夜、彼女は夢の中で前世の一生を体験した。

 愛情あふれる両親のもとに生まれ、少なくはあるが気の置けない友人にも恵まれて、その何者かの生活は幸せに満ちていた。志望する高等学院(スカーレットは「高等学校」と言った)への進学も叶い、人生は新たな段階へ進もうとしていた。

 その矢先、命を落とした。


(余談であるが、スカーレットは前世で勉学した内容を克明に覚えており、彼女は一例として「バケガク」という学問を解説してくれた。私も魔法と異なる「自然現象」に着目した学問を学んだことはあるが、彼女の説明は私が修めた知識の一歩も二歩も先を行っていた。

 と、ここで疑問が生じる。

 基本的に「自然学」は特等学院で初めて履修する科目である。

 だのに、現在十八歳で特等学院に入学する前のスカーレットが、基礎とはいえ自然学の理論を正確に理解し、実証さえしうるのは不可解だった。

 まさか、スカーレットの語る言葉は妄想などではなく、「本物」なのではあるまいか?

 この頃から、私は彼女の言葉をより真実みを持って聞くようになった。)


 死した前世の魂は慈愛の神に導かれ、同時期に十五歳となった「異世界」の少女に宿る──その対象がスカーレットだった。それは人格を上書きされたのとは違ったが、全く親交がない他人の記憶を強制的に引き継がされたスカーレットはその後、多くの弊害を被ることになった。

 前世の者は順風満帆な人生を送ってきたためか、現実の厳しさを理解していないところがあった。

 平和ボケした世間知らずの子供。

 まるで自分の母親を見ているようだと、スカーレットは思ったそうだ。

 スカーレットは自らの母をあまり好いていなかった。

 病気がちで屋敷からほとんど出ることなく過ごしてきた彼女は、浮き世離れした幻想家──つまるところ、世間の事情を知らない箱入り娘だった。

 母にとってはそれが劣等感の源であった。()せる合間に通った学院では常識なしと馬鹿にされ、その経験が原因で自分の考えに自信が持てず、他人の意見を常に正しいものとして受け入れてしまうようになった。

 前世の者は、その引け目を除去した人格と言えよう。

 それがスカーレットの頭に居座っているのだ。ことあるごとにスカーレットの行動を否定し、領地の行く末を案じる彼女を「もっと気楽に考えればいい」などと言って揺さぶり、果てには実現性のない的外れな対案をいたずらに提示する。

 こう書くと、あたかもスカーレットが幻聴を聞いていたように思うかもしれないが、それは違う。

 上記のことを、彼女自身が頭の片隅で自ずと(・・・)考えてしまうのだ。

 その絶望を、私は推し量ることしかできない。

 前にも述べたが、スカーレットは高潔であることを望む、実に貴族らしい気質の女性である。誇りを捨てるくらいなら死を選ぶと、冗談ではなくそう思っている彼女が、ふとした瞬間にそれを気軽に「捨てよう」と考えてしまうのだから、己への失望たるや……察するに余りある。

 それでも、前世の記憶がよみがえってから三年間は耐えた。

 必死に耐えていたが──、

「領民の皆様から貴方を悪し様に言われて、私も心苦しい(・・・・)のよ。あえて悪役を演じるような真似は、やめた方がいいわね」

 何気ない母親の言葉に激昂し、手を振り上げたことで、スカーレットの施設送りが決まった。



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 スカーレットは施設でどのように過ごしていたか?

 それは入所初日から変わらない。朝は日の出の少し後に起きて身なりを整え、中庭が望める食堂で楚々として食事を取る。午前は併設の図書室にこもって経済学の本を読み、昼食後に敷地内を散歩して回る。夕方になると自分の部屋を軽く掃除し、食堂で夕食を取り、消灯までの時間を読書して過ごす。

 私との面談は散歩の合間に東屋などで行われた。腰を落ち着けられる場所で、優雅に紅茶を楽しみながら談笑するのだ。

 彼女との会話はおおむね穏やかであった。

 家族(特に両親のこと)や前世の記憶を聞いたときは、やや語気を荒くすることもあったが、私やほかの祓い師に無理を言うことは一度もなかった。

 スカーレットは何より学ぶことを好む。情報や技術は常に最新を耳に入れる。それは衣服などの流行についても同じだった。

 お洒落は好きだと、彼女は小さな声で言った。街の書店で手に入れた衣装雑誌を差し入れると、幼子のように目を輝かせ、一心不乱に読みふけっていた。

 流行の髪型を試してみたいと言うので、整髪を手伝ったこともあった。私もスカーレットも美容の資格を持たない素人であったため、当然と言うべきか、手本のようにはまとまらなかった。ぐちゃぐちゃの髪を前に手鏡を左右へ行ったり来たりさせ、スカーレットは口元を押さえてコロコロと笑った。私が不器用なばかりに……と謝れば、彼女は「不器用二人を掛け合わせても、器用にはならないものね」と、片目をつぶった。


 スカーレットは実に、人心を引きつける人物だった。

 最初こそ、警戒心を露わにした態度で冷たい印象を受けたものだが、打ち解けてしまえば、彼女は当たり前に十八歳の女の子だった。

 私はその姿に、故郷の妹たちを思い出した。私の妹はスカーレットと似ても似つかぬおてんばで、ちょっと気に障ることがあれば下まぶたを指で押し下げて舌を出すような負けん気の強い子だが、それでも笑った顔はよく似ていた。

 だからだろうか。

 私はスカーレットが一刻も早くこの施設を退所し、敬愛する祖父の元で領地経営にいそしんでくれたらと、そればかりを願っていた。

 お別れになるのは寂しいが、仕方のないことだ。その気持ちを打ち明けると、彼女はクスリとした。

「貴方のことは特別気に入っているの。エーベルクレインへいらした時は、ぜひ屋敷にお寄りなさいな」

 魅力的な領地に改革して、待っているわ。

 スカーレットがそう言ってくれた日の夕方、彼女の父親が面会に現れた。



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 祖父が亡くなったとスカーレットの口から聞いたのは、彼女の父親が面会に来てから一週間後のことだった。

 彼女がその事実を言葉にするのに時間を要したのは、何も祖父の訃報にうろたえてのことではない。もっと別の理由で、彼女は私と口を利けなかった。


 スカーレットの父親が帰った後、私は少し間を置いて様子を見に行った。彼女は父親との面会後に決まって気落ちする。というのも、彼が「まだお前の精神には悪魔が居座っているのか」と、責めるようなことを再三言うからである。いくら気丈なスカーレットといえど、ちくちくと心を刺され続ければ参ってしまう。私は話を聞いてその憔悴を軽くしようと、いつもどおり彼女の部屋を訪れた。

 そこで異様な光景を目にした。

 スカーレットは備え付けの鏡に向かって、自身の顔を他人のそれであるかのように眺め、頬をなで、格好を見下ろしたりしていた。何よりおかしいのは、その仕草の一つ一つに、彼女らしさがなかった点だ。頭のてっぺんから足のつま先に至るまで、柔らかで丸みのある女性らしい所作を取る彼女が、髪を振り乱してせわしなく容姿と身なりを確認している。

 私は思わず、彼女の名を呼んだ。

 普段であれば、ゆったりと間を持たせ、しとやかな軌道を描いてこちらを向く視線。それがこの時は、はじかれたように落ち着きなく振り向いた。

 彼女は視線を泳がせながら言いよどみ、「ごめんなさい、ここはどこだったかしら?」と聞いた。

 ほかの祓い師であれば、彼女の身に何かあったようだと、その程度を察するくらいだろう。だが、スカーレットの精神が置かれた状況を知っている私は、すぐに一つの仮説を立てた。

 彼女の意識が、前世のそれに乗っ取られた。

 スカーレットが記憶の中で読んだという物語でも、転生した主人公が同じような言動をしたと聞いていたから、そう想像がついた。

 私は苛立つ足取りで彼女に詰め寄り、今すぐスカーレットの頭から出て行くよう、きつく言った。

 スカーレットは貴方ごときが転生していい人物ではない。領地の未来を考え、身を粉にし、日々努力を欠かさない気高き貴族のご令嬢なのだ。それを、下劣な仕草で汚すなんて。

 許せないと思った。

 私は大切なスカーレットを失ってしまった気になって、わめき散らした。同僚の祓い師たちに取り押さえられ、部屋から退去させられるまで「悪魔は誰なのか」と叫んでいた。先輩の祓い師に頬を叩かれたことで、私はようやく正気に戻った。


 冷静になって、考え直した。

 スカーレットはきっと、乗っ取られたのではない。

 以前、特等学院の課題でこんな症例を調べたことがある。強い精神的負荷により、本来ひとつであるべき人格が自分と他とに分裂してしまう。

 祓い師を続けていれば、いつかは同様の事例を見ることもあろうと思っていたが、まさかスカーレットがそんな症状に陥ってしまうなど、考えてもいなかった。

 きっかけは何か?

 間違いなく、父親との面会だろう。

 スカーレットは私が考えるよりもずっと、父親の言葉に傷ついていたのだ。何度となく繰り返されてきた罵倒がつらくて、自分はここに居てはいけないのだと……スカーレットは頭に住み着いた前世の記憶に人格を明け渡してしまった。


 そこで、私はこれまで通り、「彼女」をエーベルクレインの息女として扱う決心をした。ここはスカーレットが居ていい場所なのだと分かれば、自然と交代してくれる。そう信じて、私は彼女の世話を焼くことに専念した。



 ----------



 そうして、一週間後にスカーレットが戻ってきた。今では唯一の肉親であったとさえ言える祖父の死を受け入れて、さめざめと涙する背中。私はそこに手を添えることしかできなかった。

 祖父の死をきっかけに、貧困対策の部門はスカーレットから取り上げられてしまった。彼女の人生はまだ始まったばかりだったが、その仕事は一生を賭けるつもりの取り組みだった。上手くいけば自分の代で問題を解決できるかもしれないと思っていただけに、失望は大きかった。


 スカーレットは抜け殻のようになってしまった。


 それからも何度か、人格が交代することがあった。

 前世の人格で会うと、父は自分を悪く言わない……気を張ることにも疲れ果てたスカーレットは、頬の陰を濃くしてそうつぶやいた。正直、見ていられないほどの衰退ぶりだった。叡智の瞳は日々あふれ出る涙に沈んでいた。

 こんなにも自分は空っぽな存在だったのかと、スカーレットは事あるごとに嘆いた。たった一つの事柄をなくしただけで、もう死んでしまったも同然だなんて、何と虚しい人間だろうか。ほかに生き甲斐もなく、またそれを見つけることもなく、これが貴族であることだけに執着した者の末路かと、すっかり荒れ果ててしまった手で顔を覆った。


 そんな悲しみの日々が続き、祖父の葬儀にも(スカーレットは顔向けできないと言って)出ることができないまま、施設での生活も一年が経とうとしていた。

 スカーレットの両親がそろって面会に訪れる日が迫っていた。

 どうやら別人格である「彼女」の経験を覚えているらしいスカーレットは、もう耐えられないと言って立ち上がった。

 スカーレットは私の手を握って、剣呑なまなざしで懇願した。こんなことを頼むなんて、貴方の職業倫理に照らしても、あってはならないことなのだろうけれど……と、なけなしの気力を振り絞って願った。

「ダーシャ。どうか私の最期は、貴方に見つけてほしいわ」

 私はできないと言った。

 けれど、そこまで追いつめられているのなら。私がスカーレットをさらうから、もう二度と前世の記憶など気にしなくてもいい場所で一緒に暮らそう。

 そう提案した。

 私は本気だった。

 それを聞いたスカーレットは嬉しそうに、それでいて悔しそうに笑って首を左右に振り、それはできないと言った。貴族として生まれたからには、貴族として死ななければならない。

 傷だらけになっても、その誇りはスカーレットの中に重く席を置いていた。

 私はついに、貴族としての生き方より大切なものをスカーレットに示すことができなかった。エーベルクレインのまま死にたいという頼みに、頷くしかなかった。

 せめて、私はその死を見届けたかった。そうしなければならないと思った。私は食堂から小さな包丁を盗み出して、部屋に戻った。

 スカーレットは化粧を直し、衣服を整えて毅然と椅子に座って待っていた。ピンと伸びた背筋が勇ましい。死を前にしても少しもひるまないスカーレットは、まさに貴族のあるべき姿を顕示していた。

 包丁を手渡した。

 スカーレットは両手で握ったそれを自分の首に向け、ひと思いに突き立てようと腕を引き寄せた。

 切っ先は、彼女の首筋につんと触って止まった。

 思いとどまったのだろうかと、少し期待してしまった。やはりここから連れ出してほしいと、私の手を握ってくれるスカーレットを思い描いた。

 しかし、現実はそうでなかった。

 彼女は手に持っていた刃に驚き、すっとんきょうな声を上げて放り出した。私はそれを拾い上げて、彼女を見た。


 軟弱な瞳が、混乱に揺れている。


 スカーレットが殺したのは自身の体ではなく、心だった。


 それからずっと、彼女はスカーレットに戻らなかった。

 彼女は父親と和解し、施設を去った。

 私は自殺をけしかけた責任を取り、祓い師の職を辞した。



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 私は故郷へ戻れず、スカーレットが通うはずだった特等学院がある都市に移った。もうずっと空虚だった私は、あんなにも言葉を交わしたスカーレットの顔を思い出すことができなくなっていた。

 風の噂によると、「彼女」は自身の屋敷で療養を続け、この秋にようやく進学することを決めたらしい。

 私は毎日、学院の正門に向かい、近くの長椅子に座った。日がな一日ぼんやりと、通ってくる学生たちを見つめ、その中に凛とした淑女の姿がないかと探した。

 ある日、大きな荷物を抱えて馬車から降りてくる人物がいた。


 スカーレットの、横顔を見た。


 しまりのない表情。

 品位のかけらもない仕草。

 洗練された衣装だけが貴族としての立場を保っている。

 まるで以前とは違う、その女。


 私は中途半端に立ち上がった体勢で、震える足で体重を支えることができず、椅子にストンと腰を落とした。叫んでしまいそうになる口を手で押さえ、感情をこらえる。


 私はもう、なにも見ないまま住まいへと引き返した。



 ----------



 私は自室に、「あの日」を再現した。

 椅子を置き、そこに整然と座る令嬢の姿を思い描いて、恭しい手つきで刃を差し出す。

 それは白く細い首筋を突く前で止まり、床に落ちた。

 私は拾い上げた。

 スカーレットが果たせなかった思いを。


 日を改め、彼女が通う学院へと向かう。

 院の関係者であるかのような顔つきで構内に入り、その姿を探す。

 彼女は中庭にある噴水の縁に腰掛け、学友と雑談などしていることだろう。


 スカーレットを、どこにでもいる大衆の娘に成り下がらせた女。

 服だけは一流の贋者(ニセモノ)

 その正面。


 私はあの子の「遺志」を握って、そこに立つ。




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