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始まりの地 Ⅰ

 深々と降り積もる雪は、まるで全ての音を片端から喰っているようだった。




 白と黒だけの世界はどこまでも静まり返り、どれだけ歩を進めても景色が変わる気配すらない。矮小な人間風情が、自己や理性といったものを失うのにはそう時間も掛からないだろう。


 そんな世界に身を置きながら、ヘズという少年は全くもってその歩みを止めようとはしなかった。彼を取り巻く閑寂の中には気まぐれ程度の風音が少々と、愚直に雪を踏みしめる音だけが、只々、存在していた。




 行先などどこでも良かった。生温い地獄と地続きである『憎たらしい現実』という場所から逃げ出せるのであればどこであろうとも。


 そして、歩き続けた先で己すら消え失せてしまえば良いと、そう思っていた。




 熱を奪われる痛みが絶えずヘズの顔面を刺し続ける。顔面だけではなく、防寒着で覆われた手足も既に麻痺して久しい。たとえ微風であったとしても、それが氷点下の冷気を孕んでいれば容易く生命を削り取る凶器になり得る。体力もとうに底を尽き、気力や根性などというものも既に無い。幸か不幸かはさておき、頑なに命を繋ぎ留めようとする身体が、どうにか彼を歩かせ続けていた。


 だが、いよいよ足取りが覚束なくなってくると、今の今まで強く繋がれていたはずのそれは薄情なほど簡単に手から滑り落ち始めるのだった。同時に、全身に張り巡らされていた糸が一気に切り落とされてしまったような脱力感に襲われる。僅かばかりの未練も、気付けば諦観の念に刈り取られていた。


 朦朧とする感覚の中、ヘズはやっとの思いで近くの針葉樹の根本に腰を掛けると、ひとつ呻き声を上げる。間髪入れずにため息をひとつ吐けば、それは宙に白く拡散し、しばらくすると消えていく。それを見届けることも叶わず、重さに負けた目蓋が虚ろな双眸を塞いでしまった。



「ここで終わりか……」


 独り言ちてみても、苦笑すら浮かばない。


――我ながら全くもって短く、どうしようもない人生だった。




 全くよくある話である。戦争でもない小規模な争いで村が丸々ひとつなくなることなどは。そして生き延びた先、余所の集落で奴隷に等しい身分しか拝借できないことなどは。


 ヘズの場合、単純な労働力として拾われており、扱いとしてはまだマシなものだった。一介の労働者として、己の全てを費やせば成程、生きることなど実に簡単である。汗水垂らし、パンを喰らい、酒を飲み、可能なら成り上がり、そしてしばらくしたら女を買い、きっといつかは家を買い……。半分は理想論であるが、己以外を失った身として、それが得られる範囲で最上の幸せだという話も、まぁ分からないではない。


 で、それが一体何だというのか。


 誰とも慣れ合わず、粗末な飯を食うためだけに身を粉にする意味を、彼は見失った。否、恐らく全てを失った日に、きっと自分の欠片も失くしてしまっていたのだろう。それに気付いた時、ヘズはその生温い地獄を抜け出そうと思った。


 そして外の世界、本当の地獄で今度こそ全てを放り棄ててしまおうと、そう心に決めたのだった。




 幾許かあって、肌の感覚にやや熱が戻る。どうやら風が凪いだようだ。揺らぐ意識の中でふと、眼前の景色くらいは眼に焼き付けておきたい、そんな考えがヘズの脳裏を過った。生に執着するわけではないが、まだ自分が生きているのなら、最期にそれくらいはしても良いだろう、と。

 

 搾り滓のような最期の力で、凍り付き始めた重い目蓋を少しずつ開いていく。そうして開かれた眼からは、ヘズが腰掛けたのはやや見通しの良い丘の上だということ、眼下には鬱蒼とした森が広がっていること、己の足跡からかなりの距離を歩いて来たであろうことが見て取れる。可能な限りで視界の隅々まで転がった瞳は自ずと空を向き、そして、ヘズはほんの一瞬だけ、全てを忘れた。 




 先程まで立ち込めていた雪雲には嘘のように大きな孔が穿たれ、夜の黒を遺憾なく顕している。その黒の中には無数の細かい光が遍く広がっており、千切れた雲と相俟って幽世を思わせた。それらの光は一見すれば一律に輝いて見えるが、よくよく観察してみれば色や大きさ、明るさも様々である。また、いずれも不規則に瞬くので、まるで宝石を砕いて敷き詰めたかのようなその煌びやかさがヘズの視線を奪っていくのだった。世界の空がこんなに鮮やかな色に溢れていたのだと、まさか今際の刻みに思い知らされようなどと、少年は露ほども考えていなかった。


「あぁ、これが星かぁ……」


 彼は決して夜空を見たことがないわけではなかったのだが、ここ十数年、絶えず世界は翳り続けていたため「星など運が良ければ多少見える程度のもの」というのが世の常であった。なればこそ、どの星が何であるかとか、そんなことは知ろうはずもない。だが知識など、深い感銘の前には悉く不要なものだ。


「……まるで夢の中に放り込まれたみたいだ」


 初めて見る星空に、ヘズは許されるだけ心酔する。やや眼が慣れてきてから、暗幕に散りばめた宝石の中にあって、昼光の中の薄雲のような、あるいは朝陽に揺らぐ河川のような、それはそれは大きく明るい道のようなものが見えた。星々が寄り添って出来たであろうその巨大なうねりについて、はて、どこでだっただろうか、いつのことだっただろうか、聞いた傍から下らない御伽噺だと吐き捨てたどうしようもない逸話を思い出す。


 曰く、あれは死者が辿る道なのだと。


 星になるための遥かな行路を、数多の人々が旅する魂の道なのだと。


 誰に聞いたのかすら思い出せないが、これからあの輝く道を旅するのならばそれも悪くないか、とヘズは思った。既に気息奄々、手前勝手に放り出した命ではあるが、光に似た妙な希望を抱いて逝けるというのなら上々というものである。


 これでもう思い残すこともない、と少年はまたゆっくりと目を閉じようとした、その時だった。


 視界前方の黒々と広がる森に突如、空間の亀裂のような巨大な光柱が発現する。天高くから瞬間的に宵闇を切り裂いたその光度は、黎明を越えて暁と見紛うほどのものだった。同時に、まるで質量を持った何かが地面に激突したような轟音と振動が辺り一帯を飲み込んでいく。随伴して発生した空振は衝撃波となり、周囲の森林のみならず落着地点より遥かに離れているであろうヘズの身体までも薙ぎ倒そうとする。


「何だ……?」


 轟々と殴りつけてくる雪片をやっとの思いで凌ぎながら、ヘズは眼を凝らす。

 恐らくそれは、青天の霹靂といった類のものであった。


 かの稲妻の痕跡は未だ森に這い続け、青白く蜷局を巻いている。

 その中心に、ひとつの小高い山が見えた。いや、あんなものがあっただろうか。




――嗚呼、あれは霜の巨人(ヨトゥン)だ。




 外の世界には人智を越えた神代の怪物がいると聞く。

 それは神々と未だ争い、人々を嬲り続けているという。


 だから人々は地下に住居を移さなければならなかった。()()()が入って来られないような場所に。此処のような本物の地獄より遥かに安全な、生温い地獄に。


 少年の全身は強張り、本能が腹の底から『逃げろ!』と叫んでいるように感じた。だが、逃げようにも足が動かず、立ち上がろうにも手に力が入らない。今の今まで死に急いでいただけに、全くもって滑稽なものである。


 だが詰まる所、相手はこちらの身長の何十倍もあるデカブツだ。見つからなければ遣り過ごせるだろうし、視野がいくら広かろうがこんな遠くの、こんな小童一人に目を付けることもないだろう。だが先程からヘズの胸中は、直感じみた絶望感がどうにも収まらない。


 件の霜の巨人(ヨトゥン)はゆっくりと立ち上がると、周囲の様子を窺っているようだった。それも一巡したところで、やはりと云うべきか、こちらを見詰め、にたり、と笑った気がした。


 刹那、心臓を貫かれるような悪寒がヘズを襲う。この身は全身凍傷寸前だというのに、それ以上の冷気で骨の髄まで凍らされるような、そんな感覚だった。ご苦労なことに()()はどうやら、この開けた世界を前にしてわざわざこんな塵芥に狙いを定めているらしい。


 四~五十メートルはあろうかという巨体がこちらに向き直り、地響きと共に近づいて来る。『死』そのものが迫って来る様は先程までヘズ自身が望んでいたことであったはずなのだが、形容し難い畏怖がどういうわけだか身体を震わせ続けている。それが明確に拒絶という感情なのだと気付くのに幾許かの時間を要した。いつの間にやら、芽生えようもなかった『死にたくない』という思いがヘズの脳裏を支配していく。


 木々が薙ぎ倒されるたび、かの霜の巨人(ヨトゥン)との距離が縮んでいくたび、弱まっていたはずの心拍は高鳴りを始め、凍っていたはずの手足に血が巡り、さぁ立ち上がれと言わんばかりにヘズの身体は高揚していく。全身に力を込め、寄り掛かっている木に片手を添えながら何とか踏ん張ってみるが、氷点下の気候に打ちのめされた身体では目線の高さをじりじりと上げていくのが精一杯だった。


 彼がやっとの思いで中腰程度まで立ち上がれたのは、眼前の巨大な死神が爛々と眼を光らせながら、こちらに向かってゆっくりと手を伸ばしている最中のことであった。

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