4. 一人の魔獣と爆ぜる閃光
唸る咆哮。
衝撃が草原を駆け巡る。
尋常ならざるその雄叫びは、人を圧倒するには十分すぎた。
「こんな場所に、なんで……」
ベルクリフはもう立てそうになかった。
荒れた呼吸と身体中の痙攣。恐らくはあいつの人生の中で、圧倒的強者の前に立つことがほとんどなかったのだろう。
「ゼノン、逃げるしかねえ。こんなやつ相手になんかできるわけ────」
「逃げれるわけねえだろ」
俺はより一層、剣の柄を強く握りしめる。
ベルクリフはおろか、今の俺ですらも逃げられるかあやしい。敵に背を向けながら退くことは一人ではできない。相応の力を持つ奴らが集まってようやく退却の択が生まれる。
「……じ、じゃあ俺たちは諦めて死ぬしかないってことか?」
半泣きになっているのだろうか、背中から弱々しい声が聞こえてくる。
その声は聞き馴染みがある。
戦いに負けて撤退する直前に、方々から聞こえてくる腹立たしい声だ。
ギリ、と歯軋りをしてしまうくらいに苛立つ情けない声だ。
「……ふざけるな! 気持ちで負けてどうすんだよ!」
腹からの檄を飛ばす。
戦場での一番重要なことは士気だ。
誰か一人でも怖気つけばそこに勝機は見えない。
「目の前の敵を恐れるな! 俺たちは勝てるんだと思い続けろ!」
「んな、無茶な……」
「無茶を通せ! 俺はいつだって勝つ気でいる!」
勝てる算段は見つかっている。気持ちも負けていない。後は身体がついてきてくれるかどうかなだけだ。
「お前、まさか──────」
「諦める気なんて毛頭ない! 斬るんだよ!」
若草色の草原を踏みしめ、身体を前へと出す。目の前の大きな巌に向かって、脚に力を込める。
「■■■■■■■■■■■────!!」
俺の突撃に応えるようにしてミノタウロス雄叫びを上げ、瞬時に斧を構える。
「……っ、ぐっ!?」
耳がその咆哮を受け止めきれない。言語化されずにその轟が脳を駆け巡る。
がしかし、思わず塞ぎそうになったその手を押しとどめる。
焦るな。焦るな。
何度か戦ったことはある。その全てに俺は勝ってきた。その強さも弱点も把握済みだ。
こいつは身体がデカい分──────
「──── ■■■■■■■■■!!??」
左から来る斧をひらりと躱し、無防備な背中へと回り込む。
やっぱりだ。こいつは図体がデカい分予備動作が凄まじく大きい。
冷静に見切れば避けることくらいは簡単だ。
強化魔術を使うのはもう少しだけ後回しにしたい。
魔術は半年のブランクの影響が一番出かねない。不確定事項に頼るのは避けたいところだ。
素早く大剣を構え、足の腱へと狙いを定める、が────
「────っ、硬ってぇなぁ……!」
堅牢な肉体が刃を通さず、一瞬だけ身体が硬直してしまう。その反動で筋肉が、骨が痺れていく。
「■■■■、■■■■■■■────!!」
ミノタウロスは、その一瞬の隙を見逃さなかった。
「ぁ────っ、ぐぁっ!?」
斧の柄に押されて強引に弾き飛ばされる。
呼吸が止まる。吸い込もうとしても酸素が身体から抜け出していくかのよう。
身体の自由が効かないままに、俺は地面へと落ちていく。
「…………はぁ、はぁ」
辛うじて大剣で攻撃は防げたものの、確実に内蔵にダメージが入っている。ずくずくと腹を蝕む鈍痛が、着実に俺の体力を削っていく。
半年のブランクが顕著に出た攻撃だった。
手入れの行き届いてない大剣、戦闘訓練の怠り、状況判断の不正確さ。
昔のようには上手くいかない。
今の俺に見合ったプランを立て直されなければ。
「■■■■■■■■■■■!!」
「……流石に待ってくれねえか」
斧を振りかざしながら迫る巨躯。
このままでは攻撃は仕掛けられない。躱しながらプランの立て直しを図る。
「……ふっ、ぐっ……!!」
「 ■■■、■■■■■、■■!!」
右、左と休む暇もなく来る死の斧。
出鱈目に振り回されるそれらを必死に躱していく。
前へ前へと突き進んでいく巌に押し負け、ジリジリと後退していく。
このままではまずい。
いっそあっちの体力が尽きるまで付き合ってやるか。
否、それでは先にこっちの体力が尽きる。
無理をしてでもこちらから仕掛けなければこの斬撃は止まらない。
されど防戦一方。起死回生の一撃の糸口すらも見えずに、とうとう最初の草原の入り口へと辿り着いてしまった。
「────っ、くそっ」
振りかざされた一撃を辛うじて躱し、鬱蒼とした森の中へと逃げ込む。
立ち並ぶ樹木が進む道を狭めて行く。
朽ちた倒木、木々に垂れ下がる蔦、ぬかるんだ地面。
まるで自然の全てが俺の命を狙っているかのよう。
「■■■■■■■■■■■、■■■■■!!」
その後ろを追いかけてくるミノタウロス。
巨木すらも薙ぎ倒しながら、その斧を振い続ける。
距離も相当近くなっているからか、その風圧で体幹が乱れる。
「……はぁ、はぁ、はぁ」
心音は体内で煩いほど鳴り響き、汗がたらりと滴り落ちる。
もう手がない。回避の精度が落ちていき、身体のギリギリを通る攻撃も増えてきた。
こうなれば不安定な強化魔術を使うしか他ない。
「────『一閃』……!」
術式を唱え、右手に魔力を込める。
しかし、
「っ、足りねえ……!」
攻撃を避けるのに手一杯ながらの術式だと十分な魔力が集まらない。
一度立ち止まるだけでも三回ほど使える力は練ることができるのだが、今の状況じゃ難しい。
「■■■■■■■■■■■!!」
すぐ後ろにはミノタウロス。
その二本の凶刃は俺の喉元へと着実に近づいている。
絶命までの時間はもう後僅かだろう。
────ここで賭けに出るか。
不十分ながらも魔力は集まっている。
このまま避け続けても勝機はない。
ならば通るから分からない一撃でも、与えれば戦況は変わる可能性がある。
その一縷の望みにかけ、ミノタウロスへと向き直る。
そして、その巨躯の胴をめがけ────
「────────『剛力』っ!!!」
「■■■■■■!!??」
ズン、と辺りに衝撃が走る。
瞬間、ミノタウロスの身体は地面へと勢いよく叩きつけられる。
その右脚には────
「ベルクリフ!」
巨漢の男が両腕でしがみついていた。
規格外の力を押さえ込んでいるためか、腕からは血飛沫が飛び散り、今にもはち切れそうになっている。
「■■■■■■■■■■■!!」
その拘束を嫌がっているのか、ミノタウロスは懸命に脚を動かそうとする。
それでも、ベルクリフはその右脚を抑え込み続けていた。
あいつが作ってくれた機会を逃すわけにはいかない。
「待ってろ、今魔力を────」
「ゼノン! 俺のことは良いから早く逃げろ!」
「なっ…………!?」
『逃げ』の一言に俺は面食らった。
「逃げるんだ! ファリスに帰ってこの事を報告しろ!」
「なら、お前はどうするんだ! このままこいつを抑え込むつもりか!」
「その通りだ! 俺はここでこいつの脚に引っ付いて邪魔脚続けてやる!」
雄叫びを上げたベルクリフは更に力を込め、ミノタウロスの右脚にしがみつく。
吐き出す声は、死をも覚悟していた。
仲間のためを想う自己犠牲の精神。一人で全ての責任を背負い込もうとする捨て身の攻撃。
それは何度も見たことのある光景。
散って行った仲間たちは、皆口を揃えてその言葉を呟いて逝った。
……ふざけるな。目の前で死なれるのゴメンだ。
一人で全てを背負おうとするな。一人で死のうとするな。仲間を見捨てておめおめ逃げ帰る奴なんて、そいつは一体どんな外道なんだ。
俺は誓ったんだ。
血でぬかるんだ地面を掘り下げ、仲間の墓標を作ったあの時から、一つの失敗で仲間を大勢失ったあの戦いから。
もう二度と、仲間を見捨てないって。
「────『一閃』」
その呟きで、全身が熱を帯びる。
今度の魔力は十分に集まってきた。
右手だけじゃない。全身全霊でコイツを叩く。
「……ゼノン、すまん────!!」
「■■■■■■■■■■■!!」
今日一番の咆哮と共に、ミノタウロスは足枷を吹き飛ばす。
素早く立ち上がり、こちらへと斧を振りかざさんと────
「────────遅いんだよ」
剣を持つ両腕に魔力を込める。
そして、地面を力一杯に蹴る。
瞬間、見える全てが線で紡がれていく。
鬱蒼とした森の深緑。降り注ぐ陽光の白。巨躯の焦げた茶色。
そして、噴き出す鮮血の赤黒色────
「■■■■■■■■■■■!?」
胴を斬り裂いた。
巨躯は思わず蹌踉めき、膝をつく。
そこへ────
「『一閃』」
もう一度地面を蹴り上げ、今度は左腕を斬り落とす。
「■■■■■■■■■■■!!!」
自分が斬られるとは思っても見なかったのだろう。
ミノタウロスは悲痛な叫びを上げる。
その実、堅牢な肉体を斬るには人間の力では程足りない。
しかし、人間には魔術がある。
脚の力を増幅し、防げないスピードで懐まで潜り込む。
腕の力を増幅し、その巌の身体を斬り崩す。
魔獣に簡単に屈するほど人は弱くはない。
だからこそ、剣を取る人が現れ続ける。
ギルドが解体された今でも、人は戦い続ける。
「『一閃』!!」
斬った勢いを切らさないように側にある大木に脚をかけ、バウンドするように再びミノタウロスの胴へと剣を振りかざす。
何度も。何度も、何度も、その動きを繰り返す。
大木を蹴り、斬った後は別の大木へと移る。また大木を蹴り、斬った後はそのまた別の大木へと移る。
中央には見えない斬撃に怯えるミノタウロス。
鮮血が飛び散る中、その周りを鋼が縦横無尽に飛び回る。
「■■■■■■■■■■■■■■!!!」
黒の巌は段々と剥がれ落ちていく。二対の巨斧は自らの血で濡れ、震われることなく地面へと落つる。
巨躯が奏でるその慟哭は、巨木が立ち並ぶ森を揺れ動かし続けた────
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木々が立ち並ぶ鬱蒼とした森林の中で、その咆哮はようやく止んだ。
烏が勢いよく森から飛び立ち、頭上から黒羽がひらりと舞い落ちる。
手には燐光を帯びた大剣。その輝きで昔のことを少しだけ思い出す。
半年前、ギルドを解体させられたあの時のことを。
「──────お前、何もんだ」
呆然とした仲間のベルクリフにそう問いかけられる。
奴の肉体は常人からすれば巨漢と言えよう。
だが今、その身体はひどく怯えて縮こまっている。目の前に広がる光景に、その惨状に。
「…………何って、ただの傭兵上がりの無職だ」
獣毛に覆われたその巨大な山の上で、俺はそう答えた。