18. 一筋の光明
万策は既に尽きた。心の中に灯っていた士気も消え失せ、残ったのは憤りと後悔のみ。後はヒュドラに喰われる道しか俺には残されていない。
上を見上げると、巨大な蛇の口蓋が俺の真上を覆っていた。粘着質の高い唾液がぼとりと俺の傍に落ちてきて、まるで地面が溶かされていくかのように煙を上げて泡立っていく。きっと、その唾液で肉を飲み込みやすく消化するのだろう。今まで経験したことの痛みになるはずだ。
「……喰えよ」
白旗を上げた俺だったが、何故かその身体は五体を保ち続けている。勝者である大蛇は、俺を食べようとする姿勢だけを取り続けていた。
「なぁ、早く喰ってくれ。喰べたいから俺たちのことを襲ったんだろ?」
再度、降参を告げる。俺には戦う意志も意味もない。そうヒュドラに伝えた。だが天蓋のように俺を覆う大蛇は、それでも口を開けただけのままだった。
「……早くしろよ! その尖った牙でさ! 俺のことをぐちゃぐちゃに掻き回して喰ってくれよ!」
俺の中の憤りは、とうとう焦らし続けるヒュドラに対して牙を剥け始めた。
早く食ってほしい。というか早く消え去りたい。俺という罪深き存在を、勝者であるお前の手によって跡形もなく消し去って欲しい。ただ、それだけの感情しか残されていなかった。
「俺は負けたんだ! そしてお前は勝ったんだ! なら俺を存分に喰え! これ以上俺というクソみたいな存在を晒さないでくれ!」
自分でも分かるほどの情けない言葉の数々。自ら負けを認めながら、それでも相手は聞き入れてくれずに晒上げられている。耐え切れないほどの屈辱が俺にのしかかってくる。負け犬の遠吠えが、ウラミアの森に響き渡っていくだけだ。
だが、それでも俺は叫ばずにいられなかった。降りかかってくる屈辱を受け止めるために、声を枯らしてまで負けを認め続けた。
「お前の方が強いんだ! だからそれを証明するために一思いに喰ってくれ! 不味いかもしんねえけどよ、俺も一生懸命喰われてやる努力するからさ!」
自分でも何を言っているか分からない。脳みそは空っぽのまま、思いついた言葉だけをつらつらと並べ立てている。
しかし、眼前に開かれた口蓋は俺を呑み込もうとはしない。まるで誰かに操られているかのように、じっと俺の頭の上に居続けている。
それが屈辱以外の何と言えるだろうか。
「……っ、悪かった! 敗者である俺が殺す手段を指定するなんておかしいよな。俺はもう何も言わないから押しつぶすなりなんなりして構わないから早く早く早く早く殺してくれ!!」
言葉は吐き切った。だらしなく、眼に涙を浮かべながら思いつく限りの単語を並べ立てた。それでも、ヒュドラは動かなかった。大きく口を開けたままじっと、俺の身体を呑み込もうとする姿勢だけを取り続けていた。
「……もう、いいよ」
失意を胸に、俺は眼を閉じた。俺の声はもうヒュドラには届かない。むしろ生殺しこそがあいつのやりたかったことなのかもしれない。俺という醜い存在を晒し上げ、その姿を嘲笑うのが本望なのかもしれない。
それならば甘んじて受け入れよう。瞳を閉じて、力を抜いて。最後の仲間であった彼女の亡骸を抱きながら真っ暗闇の中、いつ訪れるか分からない死を待ち続けよう。それが俺に与えられた最期の使命なんだ。
次に聞こえる声は、そうだな、もしあの世にテンが居るのならあいつの声が聞きたい。どうせ地獄に落ちる身分なんだ。最後は迷惑をかけたテンに会ってしておきたい。
あいつの文句を全て聞いてから「ごめんな」と一言でいいから謝りたい。
「……ごめん、って誰に向かって言ってるんだ?」
多分、苦笑いを浮かべながらそんな感じで返されるだろう。きっとあいつは俺がやったことについてはあまり深く考えずにいて、無意識に俺の心を苦しめてくるに違いない。いっそ罵倒された方が楽になるのに、なまじ人を知らないからこそ傷口に塩を塗ってくるのが目に見えて分かる。
「おい、ゼノン。こっち向けよ」
……幻聴か。今、確かにテンの声が聞こえた気がした。まだ特に痛みもないのだが、もう俺はあの世に逝ってしまったのか。
「……あの世? 何言っているんだ。私もお前もまだ生きてるぞ」
「…………は?」
その言葉に導かれて、すっかり重くなった瞼を開ける。真っ暗闇の中から次第に光が溢れ出てきて、俺の視界を純白に染め上げていく。
そして、ようやく視界が色を取り戻してきたその目の前には、
「何で眼を瞑っているんだ。まだ戦いは終わってないだろ?」
碧の眼を浮かべた少女が、かすかな笑みと共にこちらを見つめていた。