16. 一匹の獣と貪る水蛇
破壊。咀嚼。破壊。咀嚼。破壊。咀嚼。
眼前に巻き起こる蹂躙は止まるところを知らず、ウラミアの森を赤色に染めていく。破壊の音と叫びが渦巻くこの場所はさながら地獄のようで、ここは既に人間が踏み入ることのできない禁足地と化していた。
「……どう、すんだよこれ」
災禍の渦巻くその中、俺はただ立ち尽くすしか他なかった。
水蛇、ヒュドラ。かつて、ヴァンパイアと双璧をなしたほどの力を持っていた魔獣はようやく本来の、いや本来以上の獰猛を取り戻している。先のような弱々しさは欠片もなく、恐怖を体現した巨躯は若草生い茂る森を征圧する。それは決して比喩表現ではなく、俺の身体は地面に押さえつけられていた。それがヒュドラの持つ特別な能力なのかは分からないが、少しでも気を緩めれば膝をついてしまうような圧倒的な恐怖がそこにあるのは間違いなかった。
そして、そのヒュドラはあろうことか――――
「仲間を、食べてやがる……!」
まだ物足りなかったのか、蹂躙の牙はすっかり弱っていた五頭の蛇にも及んでいた。艶のある鱗を鋭い牙で引き裂き、中からずるりと溢れ出るピンクの肉を飲み込む。余さず残さず、骨までを啜るかのように丁寧に食べていく。
だがしかし、自らの身体が食われていく中奴らは抵抗もせずに受け入れていた。勝利のためなら全てを捨てる、それは本能からくるものなのだろうか。最強を謳われる魔獣は、勝利にも貪欲だった。
Sランクのギルドを以ってしてようやく五分の勝負に持ち込めるその相手に、ボロボロの魔術剣士が一人で立ち向かうのは単なる自殺行為でしかない。あちらからすれば虫ケラ当然の俺は、ただヒュドラの出方を待つしか策はなかった。
だが、彼女だけは違った。
「……コロス!」
大樹の枝から獣の声が響く。彼女の鋭い眼光は、臆さずにヒュドラへと向け続けている。
テンはまだ獰猛化のままでいた。傷もそこまで深くはなく、むやみに突っ込まないところを見るに冷静さも保ち続けている。彼女曰く、理性が戻りかかってくる血が切れかけの時間帯が最高のコンディションらしい。
今のテンの状態なら、あるいは。
「ゥゥ、ァアアアアア――――!!!」
ヒュドラが最後の一匹を食し終えた瞬間、激しい叫び声と共に緋色の弾丸が奔った。紅の光は一直線に蛇の喉元へと飛び込んでいき、身体を貫かん勢いで激突する。
「――――っっ!!」
刹那、衝撃が辺りに奔る。音の波は身体の芯にまで響き渡り、びりびりと全身の筋肉を震わせていく。まさに渾身の一撃。いくら万全の状態を取り戻したと言えど、獰猛と化した彼女の突撃を喰らったのであればひとたまりもない。死には至らずとも、深からずな傷は負っているだろう。
だが、先に血を流したのは――――
「――――ぁ、ぅぁ」
テンだった。
緋色の弾丸は、水蛇の身体を貫けずに弾き飛ばされた。
弱々しい声を上げながら、彼女の身体は力なく宙を舞う。貫かんと突き出した彼女の右手は確かに潰れていて、受け身を取れるほどの余裕はそこには見えなかった。
その隙を見逃すことなく、ヒュドラは大きく口を開けた。
「ゃ、やめ――――!!」
俺の必死の叫びは、かの大蛇には届くことはなかった。
「っぁ、がぁぁ、っ――――!!!!!」
ぱきり。
悲痛な叫びと共に、テンの身体から深紅が零れ落ちる。大蛇の牙は彼女の華奢な身体を容赦なく貫いていて、ぱりぽりと小気味良い音を鳴らしながら咀嚼を始めた。一噛みされるごとに身体はびくりと跳ね、より一層に血液が垂れ落ちてくる。血の量を見る限り、喰われた部分は恐らく腹だ。好物である血液が一番多いところを、そして一番死ににくい場所を的確に狙い
澄まして喰っていた。
「――――ひ、っ、ぃ、ぁはっ」
声にならない声が聞こえる。痛みを必死に紛らわそうと呼吸を整え、朦朧とした頭の中で自我を保とうとしているのが分かる。しかし、ヒュドラの牙は無情にも彼女の身体を破壊していった。
「ふざけんなよクソカスが……!!」
殺気の籠る言葉とは裏腹に、俺の身体は終ぞ動こうとはしなかった。
怒りに身を任せようにも本能がそれを止め続けている。その先は死地であると、長年に渡って冴え続けてきた勘が俺に告げてくる。その忠告ばかりはどうしても無視できなかった。
「……どうすれば、どうすればあいつを!」
握る拳の力だけが増すばかりで、蛇の前に立ちはだかるその一歩すらも出せない。くちゃりくちゃりと音を立てながら食事を楽しむ目の前の蛇に対し、俺はいつの間にか屈服させられていた。




