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15. 十人の餌と一匹の咆哮

 

 その瞳は、いうなれば獣だった。とうに理性は溶かしきっていて、己の願望を制御する機能も誰かに奪われいた。口元にこびりついた血痕は身体から溢れ出る欲で流されていく。こころなしか彼女の肌は死蝋じみていて、それこそ生きながらにして人形に変えられたかのよう。

 右手の短刀は鮮血に塗れながらもその銀の輝きを失ってはいない。むしろ血を浴びて喜びを表している。彼女の一部と化していて、意思をもって彼はその戦いを楽しんでいた。


「────コロス」


 緋色の眼はすべてを焼き尽くさんとする業火を灯し、口元から見える血牙はあまりに不気味。人間だった頃の面影はなく、大蛇の死骸の上には一匹の猛獣がそこにいるだけだった。


「ツギ……」

「ま、待て────!」


 彼女の口角が上がる。ただそれだけで身体は畏怖に包まれていく。何の変哲もない動作一つでさえ、狂おしいほどの早鐘が身体中に鳴り響く。


「……オマエカ!」


 殺気が空間に燈る。肉体はその眼差しに屈服して立ち尽くすばかり。


 瞬間、その紅の瞳が一本の稲妻を描いて俺の目の前へと────


 

「ぁ────────!?」



 音を裂く勢いで奔る緋色の弾丸は、後ろにそびえ立つ大蛇へと狙いを定めていった。


 振り向き刹那、激しい衝突音が響き渡る。それは人の鳴らす音ではない。ぐわん、と大きな鐘を何度も叩きつけた音が鼓膜を揺らす。巻き起こった風圧は際限なく勢いを強めていき、傍の大樹はめきりと痛々しい音を奏でる。 

 地に落ちた若葉は吹き返しの風に乗って彼女の周りに集まっていく。それらはヒュドラの吐き出す深紅に染まり、赤の嵐が渦巻いているようにも見えた。


 獣同士の命のやり取り。一手一手が必死の生死の境を分けるその戦い。

 目の前に広がる光景を見た俺は、なぜか綺麗に感じてしまった。

 

 赤のドレスを身に纏った彼女はワルツを踊るかのように優雅に、タンゴを踊るように激しく舞う。表す殺意は情熱に代わり、小気味良いリズムを刻みながらヒュドラの周りをくるりくるりと回り続ける。

 

 彼らの織り成す生命の輝きは、かくも美しいのかと。


「――――ゥァアアアアアア!!」


 掠れた声と蛇の鳴き声が深く共鳴する。小さき一と巨大な六が渡り合う。


 防戦に入ったのか、必要以上の攻撃を仕掛けようとはしないヒュドラ。それと対照的に、愚直な衝突を繰り返しながらもその鱗を削り取ろうとするテン。その模様はまるで城攻め。中央に陣取って堅牢な防衛を敷く水蛇と、孤軍ながらも圧倒的な火力で四方八方から攻撃を繰り返す獣。

 この戦いはたった一歩踏み出るか否かで勝敗を分けかねない、いうなれば水平にあり続ける天秤。少しの重りだけで戦況が傾いてしまう。

 これまで多くの戦いを陣頭を取ってきた俺ですらもこの規格外の戦闘の行く末は見えない。恐らく当事者であるヒュドラもテンも、五秒後の戦いの行方を予想すらできてないだろう。 


 ならば、俺にできることはただ一つ。この大剣で、その行く先を切り開くまでだ。


「一閃!」


 術式詠唱。一瞬にしてこの身は魔術を行使する撃鉄となる。

 魔力は立ち止まったおかげで少し回復した。呼吸も整いつつあり、出力も大分上がった。

 後はこの壊れかけた()()()が持ってくれるかどうか。


「────おらっ!!」


 地面を蹴り、勢いそのまま一刀にして鱗を削ぐ。鋼鉄の刃は一瞬にして真紅を纏う。


 今は六頭全てがテンに夢中になっている。こちらに気を惹いてくれれば上等、彼女が更に動きやすくなる。例えそうでなくてもこちらがフリーになってまた鱗を削ぐなりするだけだ。死には至らずともダメージは確実に蓄積していくはず。


「もういっ、かい!」


 もう一度地面を蹴り、大蛇の身体を斬る。今度は二頭同時に傷を入れる。この攻撃でようやくある一頭がこちらに意識を向けてきた。


 しかし、


「くっ、……!?」


 瞬時にこちらを捕食しようとしてくるが、その動きは数段と落ちている。一閃を使わずとも避けるのに支障はなく、捕食後の風圧すらも起きずにいる。


 その理由はその眼をみてすぐに理解できた。


「……腹が減ったんだな」


 俺を攻撃してきた蛇は、舌をしゅるりと巻きながら口元から涎が際限なく垂れ流していた。紅の眼は段々とその色を失っていき、薄い朱色へと変貌していっている。

 ふと残りの五頭を見ると、同じように眼の色が変わっていっていた。あまり攻撃を仕掛けようとはせず中央に陣取っていたのは、そもそも攻撃を仕掛けようとする体力がなかったからなのだろう。


 テンが嗅ぎつけた強い血の匂い、それは眷属が血を欲するSOSサイン。俺たちが会敵した時点で獰猛化は進んでいるものの、裏を返せばその命は消えかけの蝋燭のようにか細い。

 餌を得るために最後の力を振り絞ったは良いものの、反抗が存外に強く仕留めきれずにいて腹は満たされていない。満たされていないのならば餓死寸前、そこにはSランク魔獣の力は残されていないはずだ。


 天秤が揺れ動いてできた僅かな軋み。その小さな動きすらも、天秤の平衡を失わせるには十分だ。


「……一閃」


 魔力を再び脚へと回す。こうなれば逃げ回るだけで自滅してくれるだろう。それまでは身体にダメージを与え続けて体力を減らすのみ。


「────はぁっ!」

 

 最高速度で這いずる巨躯に横一文字を刻みこむ。斬り終えた後、ワンテンポ遅れて鮮血が次々に弾ける。

 序盤のような連携もなく、中盤のような個々の力もない。ヒュドラは俺の動きについてこれず、その蛇の口は虚空を喰らうのみ。

 睨み付ける眼にも若干の疲れを浮かべていた。


 苦し紛れの叫喚。されど身体は恐怖を覚えていない。筋肉は硬直せずに目の前の蛇に必死に向かい合おうとする。



 ────こうなれば最早、時間の問題となっていた。

 地面に立つ俺は一頭ないし二頭に傷をつけ、できるだけテンからの注目を逸らしながら体力を削る。

 テンは木の上を伝いながら残りのヒュドラと相対する。理性はなくとも本能がそうさせているのか、短刀を腹に刺して肉を喰らいながら獰猛化を維持し続けている。時々掠れた雄叫びを上げていることから、彼女にも幾分か余裕がありそうだ。


 それに対してヒュドラは満身創痍だった。空から陸から傷を入れられ、されど腹は未だ満たされずにいる。当初は入れられた傷もすぐに塞がっていったのだが、段々と治りが遅くなっていて中の肉がはみ出ている個体もいる。

 赤の塊は這いずる身体に潰され、吹き出す血潮はぬかるんだ大地に咲く紅蓮華のよう。


 地を奔る鋼鉄は血で血を洗い流し、空を駆ける獣は蛇を喰らう。

 天秤は確実に傾いていた。重りはこちら側へと積まれていき、軋みは段々と大きな孔へと変貌する。

 

 勝ちは見えている。一手一手がまさに必死。この盤面、ヒュドラには返せる力はない。じりじりと蛇はその命をすり減らしながら、なおも足掻かんと────



「──そこにいるのは誰だ!!」



 声が響く。それははっきりと人の言葉を紡いでいる。会敵してからというものの、獣の声以外聞こえていなかったが故に理解が遅れた。


 踏み出そうとした脚を止め、その声の主へと振り向く。


「我らは王国憲兵だ! 王の治世での狼藉は許さん! そこにいるもの全ては懲罰の対象となる!」


 茂みの奥から銀の光が見えた。

 傷ひとつない鎧に白光が奔る長槍。足音からするに十人ほどだろうか、分隊を組んでこちらへと向かってくる。

 

「聞こえんのか! 我らは王国憲兵だ!」


 張り上げた声は荒れ狂う森によく響く。彼らにとってはこの戦いは狼藉で済む程度に思っているのだろう。その歩は止まらずに死地へと向かっていっている。


 まずい。この状況を知らずにいるのであれば最悪だ。ここに来れば確実に喰われる。


「来るな! ここは危ない!」

「来るなとはなんだ! 狼藉は許さぬと王は仰っておる!」

「頼むから待ってくれ! 少しで良い! 今すぐ森の外へと逃げてくれ!」

「黙れ! 逆らうのであればその場で打首だ!」


 俺の頼みも虚しく、兵は死へと向かっている。

 この際、兵の生き死には()()()()()()。肝心なのは餌が来た、ということだ。


 餌が来ればどうなるか。腹を空かした蛇は喰らい尽くすに違いない。


「後でいくらでも牢獄にぶち込んでくれてもいい! このままじゃ、ここだけじゃなくウラミアの街も────!」

「いい加減なことをぬかすな!」


 腹が膨れた蛇はどうなるか。それは言うまでもない。


「帰ってくれ! ここに来たら死んでしまう!」

「ほざけ! 死ぬのはお前だ!」



 天秤が、平衡を取り戻してしまう────



「────────は?」


 

 深きウラミアの森を最奥部、そこに鎮座する沼地の前にし、兵たちはただ見上げるしかなかった。

 目の前に広がるその惨状を。木々を飛び回る獣を。血を撒き散らしながら蠢く大蛇を。


 一頭の蛇が匂いを感知する。

 振り向き見ると、そこには待ち焦がれていた餌がいた。

 瞬間、その疲れ切った眼に生命の灯火が宿る。朱色は段々と綺麗な紅へと色を取り戻していく。しかも餌は十匹。満腹とまでは行かずとも力はある程度は取り戻せる。


 体内からどろりとした欲が溢れ出す。渇望の胎動は止まることを知らない。その眼光で餌を射抜く。この機会を逃すわけには行かない。

 刹那、大きな蛇の口から舌がするりと伸ばして────



「ひぁっ、が──────!?!?」



 喰らった。



 先頭にいた奴を一人、そしてその側にいた兵を二人。そして続け様に三人四人、地面を抉るようにして餌を吸い込む。牙は堅牢な鎧をいとも簡単に引き裂き、中に潜む豊潤な肉を口に入れる。

 溢れ出る血は乾き切ったヒュドラを潤す。紅に浮かぶ瞳孔は大きく開き、身体全体でそれを歓迎する。


 一際大きな咆哮を上げて喜びを唄う。人が、森が、沼が、その喜びに恐怖して身体を震わせる。


 その声に共鳴したのか、曇天の空は唸りを上げて巨大な雷雲が立ち込んでくる。


 獰猛が、再び始まる。

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