14. 一人の狩人と沼地に咲く華
「……感覚を切ったな!」
交戦から約三十分ほどか、森の奥地へと戦場を移したはいいものの形勢は悪化していた。
途端に生気が漲ったヒュドラはその眼差しを鋭く向けている。その眼はまるで鋭利な刃物、むき出しの腹にピタリとナイフが押し当てられているよう。
俺はその蛇眼を前にし、まんじりとも動くことができずにいた。
先の叫び、ついで痛がる様。逃げるだけだった俺に構うことなく、確かに六頭は一斉に痛みに悶えていた。それは赤子が駄々をこねるかのようで周りに構うことなくその巨躯を地面にこすりつけ、吹き上がる砂嵐が東の森を覆っていた。
ここまでは計画通りだ。テンが俺の意図に気が付いて、そして危険を冒してまで一頭に傷をつけてくれた。立てた仮説は当たっていて、感覚を共有していたヒュドラたちはその痛みすらも感じ取ったようだった。
後はその隙を狙って無茶ができる身体を持つテンが各個撃破、そして陽動の俺と合流して二人で一緒に残りを叩く。
そのはずだったが、ヒュドラの方がやはり一枚上手だった。
連携の要であった感覚共有を捨て去り、個体での戦闘へと移行していた。
「……伊達にSランク張ってるもんな。その場で思いついた策が通るわけがねえ」
再び脚に魔力を込め、水蛇からの攻撃に備える。恐らく今までのような攻撃はもう来ない。一匹ずつではなく一斉に襲い掛かってくるだろう。
そもそも、安直な作戦が通じるのならSランクギルドが苦戦する訳がない。その弱点をカバーする策の一つや二つくらいは備えているはずだ。
考えの浅すぎた自分に苛立ち、思わず舌打ちをする。
「トーイ、お前の狙ってた獲物は随分と厄介だな……!」
瞬間、不気味な叫声。身体は否応なしにピクリと硬直する。いくら戦闘経験があっても本能には逆らえない。人間の奥深くにまでその舌が這いずり寄ってくる。
それに続き、六つの蛇がこの身体に牙を剥けてくる────!
「一閃────!」
地面を蹴り、最初にいた沼地へと進路を転換する。直後に吹きあがる風に乗り、勢いそのままに駆ける。
現状、最悪なのは誰かに気が付かれぬままに死ぬことだ。死ぬのならテンの目の前だ。情報の行き届かないままに戦闘を続けても勝ち目はない。互いの命を把握しながら、どちらかが欠けたらすぐ次の策へと移行できるようにするのが最善手。
テンの元へと急ぎ合流を図る、が。
「……っ、流石に二十分も放出しながらだとそろそろ切れるな」
駆けるスピードは目に見えて落ちていた。最速ならば見える景色は全て線で紡がれていたが、今は木々の輪郭がぼんやりと見えてきている。練り直さなければもってあと数分のところだ。
魔力はいわばタンクとポンプだ。空気中から魔力の元素をかき集めてタンクに貯蔵し、必要になったらその都度ポンプから放出する。魔術の素養とはその貯蔵量とポンプの出力をもって評されている。
魔術師レベルの素養があると評された俺であっても、使い続ければもちろんいずれは枯渇する。
そして、魔力の酷使の影響は当然身体にも伝わってくる。
「ぁっ、ぐぁっ!? はぁっ……!!」
かきむしるほどの激痛が胸を蝕む。必死に取り込む酸素は身体を回らずにどこかへと消えていく。底の抜けた桶のように呼吸がままならず、見える視界が色あせていく。
魔術とは元来、人間が持ちうるものではない。その昔、脆弱な人が神より借り受けたとされるものであり、幾星霜の努力を重ねて万人が使えるものへと昇華させたもの。人知を超えた結晶、叡智を身体に宿している。
過ぎたものを使い、あろうことかそれを酷使すれば当然身体は悲鳴を上げる。この身は既に使い古されているのだから尚更タチが悪く、タンクもバルブもそこかしこに傷が入っている。さらに半年ほど使わずにいたブランクもある。いつ壊れても何らおかしくはない。
それでも、
「ここで退けるわけないだろ……!」
込み上げてくる吐瀉物を喉で堰き止め、脚に魔力を注ぎ込む。
元より死線は幾らでも潜り抜けてきた。生と死の境目を見極めることには慣れている。今更死に怖気づくほど心は弱くはない。
ずるりとその後をヒュドラが追いかけてくる。振り向かずともわかる。その鳴き声、その紅に光った瞳、鳴り響く地響き。この二十分で嫌というほど味わってきた。身体は熱を帯びているはずが、背筋はひんやりとしている。
それでも迎撃はしない。するならテンと合流してからだ。そうなれば彼女には獰猛化も視野に入れてもらわねばならないが、この期に及んで配慮するつもりはない。
あいつは仲間だ。力を頼ることを躊躇するいわれなんてない。そもそもあいつもそんな気は使われたくないだろう。
「……もう、少し!」
斬り跡が付けられた大木を目にして、さらにスピードを上げる。地面のぬかるみも段々と感じるようになってきたことからするに沼地へはもうあと数百メートルほどか。
行きしなに通る木に傷を付けておいたのが功を奏したおかげで、迷うことなく最初の場所へと進められている。ヒュドラに薙ぎ倒されずに残っていたのが幸いだった。
テンは大丈夫だろうか。強靭な眷属の身体を持ってはいるが相手はSランクの魔獣。俺のように戦いをせずに陽動に勤めているのならまだしも、あいつは正面から戦わなければならない。それも二頭だ。先のように一匹ずつの戦闘ではなく、数の不利が付いている。苦戦を強いられている状況で俺が引き連れてきた六頭と対峙することとなれば勝算は途端に薄くなる。
テンの負傷具合が酷ければ、合流が悪手になる可能性も十分にある。
思わず顔をしかめたその時、
「────っ、うぁっ!?」
左脇に迫りくる牙を辛うじて躱す。
その風圧に押されたおかげで速度が落ちることはなかったが、まさか追いつかれるとは。俺が遅くなったのか、ヒュドラたちが速くなったのか。
一瞬の振り向きで視界に映った奴らの血走った瞳が答えだ。
「くそっ、他人の心配をしてどうする! まずは俺が生き延びなきゃ話にならねえんだよ!」
太腿を叩き、自分に活を入れる。駆けるスピードは最高潮に、魔術の酷使による痛みはどこかに飛んで行った。
戦場において一番重要なのは士気だ。最初から負けと確信しながらの仕合などする意味もない。テンは必ず生きている。そして、俺の策も必ず成功する。頭の中から既に戦闘は始まっているのだ。
下を向くな。前を向け。モノクロの負けを思い描くくらいなら頭の中を勝ちで彩れ。例えその望みが一縷としてなくとも信じ続けろ。現実の元へとそれを実現させるとあがき続けろ。
数多の死の淵を読み切り、五秒後の生存を見据えて。
その先に、俺の勝利があると信じて────
「────────は」
ようやく辿り着いた最初の沼地。見える景色は相も変わらず濁った水ばかり。一面の緑にそぐわない、まるで作られたかのようなその沼。
しかし、あるものが俺の視界を掴んで離さずにいる。
沼の中心、綺麗なとぐろを巻く二頭の蛇。
この戦いで見飽きたほどのその鱗の艶めかしさはとうに失われたのか干からびていて、泥の代わりに鬼灯を潰したかのような赤の筋が身体を伝っている。
泥沼には似合わないほどの儚さを浮かべ、その深い紅はまるでアネモネのよう。
一輪の華が、そこに咲いていた。
そしてその上には、よく見知った一人の少女が立っていた。
「……テン」
俺の声に反応したのか、ゆっくりと顔をこちらに向けてくる。
冷ややかに見下ろすその瞳はまるで蛇眼。見るものすべてを凍り付かせかねないその眼は、地面に立ちすくんでいた俺を圧倒するには十分すぎた。
思えば、初めてその姿を見た気がする。昨晩の戦いは宵闇に隠れていてその身体は結局見えずじまいだった。
だからこそ圧倒されてしまった。彼女の本気は、彼女の本性は、ここまで残酷なのかと。
「────コロス」
その呟きは、果たして誰に向けた敵意なのか。
瞳に浮かんでいたその綺麗な碧は、澄み切った紅に塗りつぶされていた。