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江戸の処刑

作者: 瓜

江戸時代の処刑には、下手人・死罪・獄門・磔・火罪・鋸引の六種類があり、下手人、死罪、獄門、磔の順に罪が重かった。火罪は放火犯に、鋸引は主殺しに限って科せられた刑罰で、この二つは特例である。また、重罪人の親族までも処罰する縁座というものもあった。


1.下手人

下手人とは庶民に限った斬首刑の一つで、解死人ともいう。喧嘩・口論の末、不慮に殺人を犯した者に適用された。その刑場を切場と呼ぶ。切場には、囚人の血を捨てる血溜まりがあった。因みに、処刑の打首は下手人が昼間、死罪は夜間行われた。囚人を牢屋から呼び出し、牢屋改番所で掛諸役人が並び、本人である事を確認。検使が宣告文を読み聞かせた後、刑場へ引き出す。その入り口で半紙の二つ折りを細い藁縄で頭の後ろに結び、目隠しをする。囚人は非人三人に押さえつけられ、血溜まりの前の筵の上に座らされる。非人が囚人の首を血溜まりの上に差し伸べさせる。その手が引くのを合図に、首打役は「まだ斬りはしない」と言いつつ、一気に首を切り落とす。これは、囚人に無用の苦痛を与えないための配慮である。首打役は当番の同心が行う。首が切り落とされた後は、非人が囚人の体を揉んで、体内に残っている血液を血溜まりに捨てた。


2.死罪

死罪は斬首の後死体が様斬りされる刑であり、十両以上(現在の数万円)盗んだ者やねだり事をした者、主人や親へ打ちかかった者(現在では正当防衛となるような事例にも適用、また、主人や親の生死は問わない)、車や牛馬で人を轢き殺した者などに適用された。現在では然程重い刑にならないような罪に対し死罪が適用されたのは、犯罪の抑止という目的あっての事だろう。


3.獄門

獄門は、囚人を引き廻した後死罪と同じく斬首し、それから、斬られた首を二夜三日間獄門台にかけて晒す刑である。三日目には首は弾左衛門から町奉行へ伺いを立てて捨てられたが、捨札(囚人の名前や罪状が書かれた札)は三十日間そのまま晒された。獄門に処されるのは、殺人強盗をした者、主人の親類縁者を殺した者、文書偽造をした者、主人の妻と密通した男、人を毒殺した者など、多岐に渡る。引廻は、斬罪以上の重刑者に付加したもので、処刑前の囚人を馬上に縛り付け、その罪状を紙幟に記して町中や犯行現場を引き廻すものであった。江戸における引廻のコースは、小伝馬町牢屋敷から江戸橋、八丁堀、南伝馬、京橋、札の辻まで行って引き返し、赤羽橋、溜池、赤坂、四谷、牛込、小石川、本郷、上野、浅草、蔵前、馬喰町から牢屋敷へ戻る。江戸のメインストリートを回るため、囚人も娑婆の見納めと、寧ろ喜んだという。引廻の途中、役人に食べ物をねだるなどする囚人もいたため、引廻のコースは後に短縮された。


4.磔

磔は機物・張付・八付とも呼ばれ、主殺し、親殺し、関所破り、姦通など、封建体制の維持に重大な反逆をした大罪人に対してなされる死刑である。囚人が男の場合は、横棒二本をキの字型にした柱を、女の場合には十字架型の柱を使った。処刑の際には、槍で突き易いように脇の辺りの衣服を切り裂き、その上を縄で結んだ。その後二人の処刑人が囚人の前で槍を交差させて見せ槍を行い、それから槍を引いて「アリヤ、アリヤ」と掛け声を掛けながら脇腹から肩先に突き抜けるように槍を突き上げる。これを二十四五から三十回繰り返した後、喉を右から貫いて止めを刺した。処刑人の腕が未熟だと、骨に邪魔されて槍が貫通せず、囚人の苦しみが増した。こうした事態を防ぐため、江戸時代後期には磔にかける前に予め囚人を絞殺しておく事もあった。処刑の後、死体は二夜三日間晒されて捨てられた。


5.火罪

火罪は放火犯にのみ適用される同害報復的死刑方法(所謂目には目を、歯には歯を)であり、見せしめの意味が強かった。こちらは、江戸と大阪(上方)で違いがあったらしく(1831年の大阪西町の奉行の書簡による)、大阪の方がより残酷だった。しかし、当時の大阪は江戸に比べてずっと火罪が少なく、1785年から1831年の間一件も適用されなかったため、古いやり方が残ってしまったと考えられる。大阪のやり方では、まず囚人の首を鉄輪で縛り、鉄輪を三尺(約90cm)の鎖で柱に繋ぐ。この時、囚人の手足は自由である。そして、柱から六尺(約180cm)の所に柴などを積み、火をつける。こうすると、囚人は熱や煙から逃れようと柱の周りを走り回るため、悲惨であった。それに対し、江戸の火罪では、まず囚人を薪の上に立たせ、首、腰、太腿の上部、足首を柱に縛り付ける。そして、両肘の上部を輪竹に結びつける。首と両肘を縛る縄には、焼き切れないよう粘土が塗り込まれた。それから、囚人の四方に茅を積み上げ、火をつけた。囚人が焼き殺された後、更に止め焼きとして鼻と、男の場合は陰嚢、女の場合は両乳房を焼かれた。江戸時代初期には生きたまま焼き殺していたが、中期以降には、その残虐性から、火をつける前に短刀で喉を切って殺しておいたともいう。


6.鋸引

鋸引は、主殺しなどの反儒教的・縦的秩序違反の犯罪者に対してなされる、江戸時代の最高刑である。三尺四方、二尺五寸の深さの箱の中に囚人を座らせ、首枷をして首だけ箱から出させる。刑場の捨札に自由に鋸を引いてよい旨を記しておき、希望者に竹鋸で首を引かせて殺す。慶安年間(1648〜52年)には、妙仙という者が衆人によって実際に鋸で挽かれたというが、江戸時代中期以降になると実際に鋸を引く者は殆どいなかった。鋸には、囚人の肩を傷つけた血が予め塗られており、これは、誰かが鋸を引いたかのように見せる細工であった。享保年間(1716〜36年)以降になると、誰かが実際に鋸を引かないよう同心が見回ったというから、鋸引という名前ではあるが、実態は晒しの後の磔だった。


ただ人を殺すよりも主や親など、所謂「敬うべき人間」を殺す方が罪が重い事、窃盗や関所破りなど、頻発しがちな犯罪に重刑が科された事から、当時は儒教的思想や封建体制を維持しようという考えが強く、また、刑が重くなる対象として主を殺した者だけでなく、古主を殺した者も含まれた事から、「縁」というものを重んじていたのではないかと私は考える。

【参考】

大久保治男『江戸の刑罰拷問大全』講談社、2008年

氏家幹人『江戸時代の罪と罰』草思社、2015年

歴史ミステリー研究会『拷問と処刑の日本史』双葉社、2010年

小野武雄『江戸の刑罰風俗誌』展望社、1998年

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