紋章の構成要素 2 ~ 紋章はアクセサリーを纏う
「次は大紋章の構成要素を見ていくわ!」
一条先輩はホワイトボードをひっくり返した。
そこに描かれていたのは最初に紹介された神戸港の大紋章に、解説を加えたものだった。
「えっと……全部で14個も要素がありますね」
「これだけたくさんの要素を盛り込んだ紋章はかなり珍しいわ。とはいえ、こうした大紋章は歴史の中では新しいものといえるの」
「それはどういうことですか?」
「当初、紋章は馬上槍試合で騎士の素性を明らかにするものだったと話したわよね。だけど、馬上槍試合から離れて、宮廷社会で紋章が用いられるようになると、紋章は持ち主の詳細な情報を描き出すようになっていったの。そこで、自分がどういう人物か、紋章だけで分かるようにしていったのよ。それが装飾品となって表れたわけ」
「つまり、装飾品は自分のプロフィールを示すためのものということですね」
「だから、大紋章のアクセサリーは意味的に分かりやすいものが多いの。とはいえ、それらは位階や所属先、功績を表すものであることも多くて、個人の識別には役に立たないこともあるわ。だから、紋章本来の原則から考えると、アクセサリーはあくまでも副次的なものだといえるわね」
「それにしても、これだけアクセサリーが付いてると一筋縄ではいかないですよね」
「各要素について解釈する前に、まずは名称だけでも覚えていきましょ。上から順番に見ていくわ」
最上部と最下部に書かれているのが「標語」である。
モットーは巻物あるいは帯状飾りの上に書かれた文章を指す。
主に家門の信条、紋章の持ち主が好んだ格言や座右の銘が刻まれる。
殆どのモットーは下部に書かれるが、スコットランドの紋章では上部にもモットーが書かれることがある。
「バトン」は紋章の持ち主の特別な職位を示すシンボルである。
例えば、ローマ教皇の紋章には、聖ペトロの鍵――即ち金と銀の鍵が描かれている。
※神戸港の大紋章では正確には旗だが、ここでは紹介のため、これらをバトンとして分類した。
「兜飾り」は馬上槍試合の際に兜の上に付けた付属品から来ている。
アクセサリーとしては古い部類で、14世紀中頃から見られるようになった。
兜飾りは馬上槍試合では、楯に次いでアイデンティティを象徴する重要な装備である。
個人の識別に役立ち、さらに相続されるものとして、兜とともに紋章の要素を成すものとして兜飾りの重要性は高かった。
そのため、クレスト単体で家門を示すこともある。
同じ血縁関係の間で同じクレストを共有して使うことができたことから、会社のロゴに用いるなど、紋章よりも利便性に長けたケースもあった。
「リース」はクレストを支える土台部分にあたる。
兜飾りは針金や木材などで兜に取り付けられていたため、これらの材料を隠す目的でリースが付けられた。
あまり象徴的な意味はなく、兜に優雅なアクセントを加えるものとして用いられたものだが、中世末期にはほとんどの貴族がリースを書き加えるようになった。
「ヘルメット」は文字通り兜である。
兜は紋章の発生以来、楯に次いで重要視されてきた装備であり、兜自体に紋章が描かれることもあった。
兜の発達とともに様々な形状の兜が用いられており、楯と同じように厳格な彩色のルールが存在する。
「マントリング」は兜に被せた外套である。
当初、マントリングは一枚布で描かれていた。
しかし、戦場で勇敢に戦い、ダメージを受けたことを示すために、わざと切れ込みの入った意匠を用いるようになった。
マントリングの柄にもいくつか彩色のルールが適用される。
「クラウン」は冠で、特に王侯貴族が王位や爵位を示すために描いた。
イギリスなどの有名な王室では規定された王冠を用いている。
戦場に赴かない聖職者は兜の代わりに、冠の位置に自分の位階を示す帽子を書き加えていた。
しかし、近世以降に書かれた紋章理論書の記述とは裏腹に、冠は平民であっても自由に使っている。
従って、クラウンも個人の特定には役に立たない場合がある。
「サポーター」は楯を支え持つ何某かのものである。
楯を持つのは人の場合もあれば、動物、船や柱の場合もある。
片側だけに描かれたり、両側で別々のサポーターが描かれたりするなどパターンも多い。
クレストと同様にサポーターも家門で相続されることがあったが、1代で何度もサポーターを変えた例もある。
「エスカッシャン」は既にコートオブアームズで説明した通り、楯そのものである。
「フィールド」はエスカッシャンの背景部分にあたる。
「チャージ」は具象図形だけでなく、抽象図形を含めた図形全般を示すこともあった。
「カラー」あるいは「オーダー」は頸章、勲章、記章を表す。
修道会や騎士団で資格を有する者の立場(ガーター勲章、金毛勲章)が特に有名である。
特定のエリート集団に属することを示すことは、個人のアイデンティティに少なからぬ意味を与えた。
「コンパートメント」は大紋章全体を支える台座部分のことである。
木の台座や金属細工、花畑のようなものまで多種多様なコンパートメントが描かれる。
これらの他に、ローブオブエステートという位階を示すローブや、パヴィリオンという天幕が大紋章を覆うパターンもある。
しかし、こうした装飾は特定の高位の立場を示すものであり、基本的な紋章の構成には見られない。
「普通の紋章はそんなに装飾は無いんですね」
「地位や位階を示すほどの人物は一握りだったわけだしね。最初は挿絵画家たちが紋章を豪華に見せる手段として、こうしたアクセサリーを使っていたの。だけど、あまりに複雑すぎると紋章を描くことも判別することも困難になってしまうわ」
一条先輩は小さく溜息をついた。
「システムに拘り過ぎるあまり、17世紀以降の紋章は機械的で芸術性も失われてしまったのよ。結局、楯というのが現実的な落とし所だったわけ」
「まあ、自分のプロフィールにばかり拘っても、中身が無ければ仕方ないですからね」
「その通りね。それぞれの要素の歴史や特徴についてはまた後で話すわ」
「そういえば、一条先輩」
「何?」
「一条先輩は、どうして紋章学を?」
「そうね。元々は日本の家紋のデザインについて調べてたんだけど……」
一条先輩はホワイトボードに描かれた紋章の隣に、左右対称的な模様を描き始めた。
「一条家って言えば、よく知られているのは藤原氏、九条流摂関家の嫡流よね。だから、最初は藤紋だと思ってたの、自分の家紋も」
だが、一条先輩が描いた家紋は四つの菱形が上下左右に並んだ模様だった。
「割菱っていうんだって。甲斐の氏族は殆どが菱紋やその派生を使っているそうよ。武田信玄も割菱を使っていたから、割菱は特に武田菱とも呼ばれているの」
「では、一条先輩は甲斐の出身?」
「菱の模様は世界各地で紀元前から使われている、極めて原初的な模様なの。日本では奈良時代には織物の模様として確認されているけど、その流れが一体どこから来ているのかは分からないわ」
「一条先輩の家系が、どうして割菱を使ったのか分からないってことですか?」
一条先輩は顔を伏せ、後ろを向いた。
「そのうち家紋についても話すわ。でも、その前に紋章学、頑張りましょ!」
チャイムが鳴った。
一条先輩は笑顔で振り向き、そして謎を残したまま去っていった。
「……日本の家紋も、難しいですね」
エリス会長は考え込むように顎に手を当てていた。
そういえば、自分の家って、どんな由来があるんだろう。
きっと、紋章学や家紋はその手掛かりになる。
僕は急に紋章や家紋が気になり始めていた。