紋章の構成要素 1 ~ ティータイムは紋章とともに
紋章の原則について一通り話したところで、僕たちは一旦、休憩を挟んだ。
授業中に休憩というのもおかしな話だが、学生会長であるエリス会長の言葉なのだからやむを得ない。
僕が見ている前で、エリス会長は徐ろに折り畳み式ケトルを取り出し、その場で湯を沸かし始めた。
「何してるんですか?」
「……ティータイム」
「ここでお茶を淹れるんですか?」
「……」
僕の問いに答えるまでもなく、エリス会長はティーポットにお湯を注いだ。
誰の目から見ても奇行なのだが、エリス会長の英国人らしい外見がその異様さを軽減している。
「そういえば、エリス会長は紋章学について詳しいんですか?」
僕が尋ねると、エリス会長はティーカップに紅茶を注ぎながら呟いた。
「……少し」
「少し、ですか。そうは見えないですけど」
僕はティーカップに描かれた紋章を指差した。
金色に縁取られた紋章からは、格式高い雰囲気を感じる。
これまでの一条先輩の話によれば、女性でも紋章を持つことができるという話だった。
きっと、エリス会長の紋章も代々引き継がれてきたものに違いない。
「……紋章学を知れば、この紋章の意味も掴めるかも知れませんね。……星宮=クン」
エリス会長は不敵な笑みを浮かべながら、ティーカップを持ち上げた。
いつの間にか僕が紋章学を学ぶことが前提になっていて、納得できない。
だが、一条先輩の前でそれを強く否定するのも気が引ける。
食えない人だ。
一条先輩の強引さよりも、エリス会長の巧妙さのほうが恐ろしい。
これが英国らしい強かさというやつなのだろうか。
「さて、ティータイムは終わったかしら? 私は準備完了よ」
一条先輩が空になったジャスミンティーのペットボトルを振りながら言う。
エリス会長は静かにティーカップを下ろした。
これから後半戦のようだ。
「次はいよいよ紋章の構成要素について明らかにしていきましょ」
これまで見てきた様子だと、紋章の構成要素はかなり複雑に思える。
ネットで調べてみたが、すぐには理解が追いつかない。
「星宮君、貴方、アチーブメントの構成要素から調べたわね」
「アチーブメント?」
「楯の周囲にたくさんの装飾がついた大紋章のことよ。でも、それは焦りすぎだわ。まずは楯の中の要素を見ていきましょ」
一条先輩はそう言って、ホワイトボードに紋章を描いた。
「これはウィンストン・チャーチルの紋章よ。アチーブメントに対して、楯だけの紋章をコートオブアームズと呼ぶわ」
「コート? どうしてコートオブアームズと呼ぶんですか?」
「前にも言ったけど、紋章は楯から陣羽織にも描かれるようになっていったの。そこで、衣に描いた武具という意味で、コートオブアームズと呼ぶようになったの。最終的には食器、家具にまで紋章は描かれるようになっていったけど、経緯としては衣に描いたのが主な理由ね」
「コートオブアームズ」各部の説明は以下のようなものだ。
紋章を形作る楯全体のことを「エスカッシャン」と呼ぶ。
楯の発展とともに様々な形状のエスカッシャンが生まれた。
エスカッシャンの背景を「フィールド」と呼び、その上に様々な図形が描かれる。
チャーチルの紋章は大きく十字に分割されているが、この分割された図形を「ディヴィジョン」、分割図形と呼ぶ。
フィールド内に描かれている「オーディナリー」は基本的な抽象図形のことだ。
紋章を強調し、より識別しやすくするために描かれた。
オーディナリーの中でも特に基礎的な、重要な図形をHonourable ordinariesとも呼ぶ。
ここでは左上から右下に向かう帯のことを指している。
Honourable ordinariesは紋章のオリジナリティを出すための主要な要素であるのに対して、「サブオーディナリー」は分家などを表すために使う。
そして、「ディミニュティブ」はフィールド上に2つ以上配置される、オーディナリーよりも小さい、あるいは細い抽象図形だ。
ディヴィジョンとオーディナリーには似たような形のものがあるが、彩色の規則が異なるため区別する必要がある。
抽象図形に対して、動物や道具などの具体的な図形を「チャージ」、具象図形と呼ぶ。
チャージにはライオンや鷲といった実在の動物から、ドラゴンのような空想上の生物も使われる。
紋章で最も差が出るのがチャージのデザインといえるだろう。
また、紋章の上部は「チーフ」、下部は「ベース」、向かって左を「デキスター」、右を「シニスター」と呼ぶ。
デキスターはシニスターに対して優位な方向であり、この紋章でもチャージのライオンは左を向いている。
「あれ? デキスターは右って書かれてますけど、どういうことですか? 左にあるのに」
「これは楯を持っている本人から見れば分かるわ。楯の背面から見て右がデキスター、左がシニスターになるというわけ」
「なんだか紛らわしいですね」
「だからこれからは単にデキスター、シニスターと書くことにするわね」
さらに、紋章の中に描かれている小さな紋章のことを「インエスカッシャン」という。
インエスカッシャンは母方の家系を相続した場合や、君主から臣下に贈られる功績の証として用いられている。
「コートオブアームズの構成要素はこんなところね。こうした要素の組み合わせによって、独自の紋章を作っていたの」
「図形の組み合わせという割には、複雑にしすぎているような気がするんですが」
「その通りね。でも、デザインは組み合わせ、マーシャリングの影響もあるわ。ウィンストン・チャーチルの紋章はマールバラ公スペンサー・チャーチル家の紋章で、スペンサー家の紋章とチャーチル家の紋章が合体したものなの。左上と右下、ライオンの紋章がチャーチル家の紋章、右下と左下、貝の紋章がスペンサー家の紋章というわけ」
「組み合わせた結果、複雑になってしまうんですね。でも、それ以前にたくさんの選択肢があって、デザインするのは難しかったんじゃないですか」
「その中で、貴族は紋章で自分らしさを出すために努力していたの。宮廷の作法に合わない意味深であやふやな紋章にならないように、騎士らしく自信と誇りに満ちた、隠し立てしない紋章が好まれたのよ」
「具体的にはどんな紋章が好まれたんですか?」
「なるべく2色以上の紋章ね。単色だと古臭い上に、なんだか意味ありげな態度を示していると捉えられて、良くない印象を与えると考えられていたらしいわ。でも、チャージに関してはよくわからないわね。変な図形もたくさんあって、解釈するのは一筋縄ではいかないの」
コートオブアームズだけでこれだけの情報量になっているとは。
大紋章はさらに難しくなるのではないか。
「星宮君、ちょっと不安みたいね。でも安心して! アチーブメントはコートオブアームズの要素よりも具体的な意味合いを持っているから。きっとすぐに理解できるわ!」
一条先輩が満面の笑みを浮かべる。
一条先輩の自信と誇りに満ちた態度が一体どこから来るのかは分からないが、この状況から逃れることはできそうにない。
こうなれば覚悟を決めるのが、騎士道精神というものなのかも知れない。