紋章の原則 2 ~ 紋章を持つ人びと
一条先輩が紋章の原則について話したところで、僕は疑問がわいた。
ネットで検索したところ、紋章の本質は次の2点であるという解説があった。
1つは同一紋章の禁止だが、もう1つは紋章が代々世襲されていること。
つまり世襲的であることである。
一条先輩は意図的にこの解釈を変えたようだ。
通説とは異なる原則の採用に僕は違和感を覚え、一条先輩に質問した。
「一条先輩、紋章の原則で抜けている点があると思うんですが」
「紋章は世襲されるものという点ね。森護先生の本では、紋章の定義として世襲的であることが挙げられているわ。紋章学では、世襲の実績が無い紋章は、ただの標章として区別されているのよ」
「それじゃ、紋章の原則として世襲的であることは不可欠なのでは?」
「でも実態として、世襲できない人が紋章を使っていたケースもあるの」
「それはどういうことですか?」
「聖職者の場合よ」
キリスト教の聖職者も紋章を使った。
彼らは主に家門の紋章と、聖職者の位階を表す図形を組み合わせて用いている。
例えば、教皇クレメンス七世、レオ十世、レオ十一世は同じメディチ家出身の教皇であり、メディチ家の紋章と教皇冠、そして金と銀の鍵を組み合わせた同一の紋章を使用した。
しかし、貴族出身ではない聖職者の場合、家門の紋章は存在しない。
そこで、紋章を持たない聖職者は、自分の過去の奉仕活動や興味関心のある分野をモチーフにした紋章を使うことにしていた。
例えば、日本人初の枢機卿で東京大司教区の大司教、ペトロ土井辰雄の紋章は、旭日旗と山桜の家紋を組み合わせたものである。
教区を持つ聖職者の場合、彼らの死後も同じ紋章が教区で使われ続けるケースもあった。
この場合、新たに教区の担当となった聖職者は、教区で代々使われている紋章と家門の紋章を組み合わせ、個人の紋章とするのである。
例えば、ベルリン大司教は大司教区の紋章に、自分の紋章を組み合わせて使っている。
「紋章が普及すると、聖職者は手紙や書類の印章に紋章を使うようになったの。他にも大学や都市、職業組合といった個人ではない団体も紋章を使い始めるわ。神戸港のように、港という施設の紋章というケースもあるわね。つまり、世襲的でない紋章の使用例もあるというわけ」
「それじゃ、そういう紋章は正確には紋章と呼べないのでは? それに、個人のものでも家門のものでも無い、ただのトレードマークになってると思いますけど」
「そういう意見もあるわね。だから、たとえ血統が違っても世代を越えて使われるという意味で、世襲的というよりも"継承性"と呼ぶほうが良い、というのが私の持論よ」
「継承、ですか」
僕は一条先輩の説明を聞いて腕を組んだ。
確かに継承であれば、血縁関係がなくても成立しているように見える。
「世襲的でないといっても、聖職者や団体の紋章を除外する理由にはなっていないというのも事実よ。教区長や学長が個人的に使っていた紋章を、その地位を引き継いだ人が使うことも許容されていたの」
「仮にそうだとしても、そういう使い方は比較的、新しく定義されたものなんじゃないですか? 中世の貴族の文化を、貴族ではない人々がすぐに取り入れられるとは思えないです」
「1198年に即位した教皇インノケンティウス三世は自分の紋章を使っているわ。聖職者は比較的早い段階から、紋章を取り入れていたと考えられるんじゃないかしら」
「では団体の紋章は?」
「最古の団体の紋章である、イングランド服地組合の紋章が承認されたのは1438年よ。団体の紋章の利用は確かに遅いかも知れないわね」
「それでも十五世紀前半には認められていたわけですね」
「そういうことよ。紋章の定義としては同一紋章の禁止と世襲的な相続は確かに重要ね。でも、紋章の使用に階級の柵は無かったの。
1180年頃には女性、
1200年頃には聖職者、
1220年頃には都市貴族や市民、
1230年頃には職人、
12世紀末以降には都市、
1240年頃には職業組合、
13世紀末以降には市民団体と宗教団体、
こうした人々や団体が紋章を世に出しているのよ」
「ということは、一概に貴族だけのものとは言えないわけですね」
「……その通り。……紋章が貴族的で古臭いというイメージは、誤り。……紋章学は万人に開かれたもの」
「イングランドで紋章を管理する公的機関として、紋章院が初めて設立されたのが1484年だから、少なくともそれより前に紋章は既に普及していたといえるわ。確かに紋章の使用者は貴族の割合が多かったけど、他の階級にとっても紋章は意味を持っていたということね」
「それはどうしてでしょうか?」
「紋章の役割が、戦場や馬上槍試合での目印から、自分たちの地位や権威を象徴するものに、時代と共に変わってきたの。そういうふうに考えれば、納得できるんじゃないかしら?」
"紋章の定義は紋章学者の数だけある"という、一条先輩の言葉が脳裏をよぎる。
個人と家門を区別するための紋章こそが本当の紋章であり、その目的に合致しない紋章はルール違反だという原理主義的な考えもあるようだ。
だが、現実としては聖職者や団体の紋章も、正式な紋章として用いられていると考えられる。
こうした塩梅は、まさに人それぞれの考え方によって異なるものなのだろう。
紋章の厳密な定義に対して、一条先輩の言う紋章の原則は、比較的、緩い立場に位置するようだ。
「……元々の定義として、紋章は世襲的であることが条件。……しかし、時代とともに紋章のあり方も変わった。……そして、紋章そのものも」
エリス会長が微かな声で言う。
「……紋章は進化し続けている。……騎士の時代から、今日まで」
「そういうこと! エリスちゃんの言う通りね。紋章は突然、湧いて出てきたわけじゃないの。時とともに育まれてきた文化だといえるわ。だから、その歴史的な経緯を知れば、理解が深まるはずよ」
「ただ単に、今、認められている作法を知るだけではいけないってことですね」
どうやら紋章は奥が深いようだ。
僕は一条先輩に同意して、次の説明に移ってくれるように願い出た。




