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紋章官の起源 ~ 学生会長、現る

「……紋章、ですか」


 不意に教室の後方から静かな声が聞こえて、僕は後ろを振り返った。

 そういえば、もう一人、受講者がいたことを忘れていた。

 最後列の席に座っていた女子学生がこちらに歩み寄ってくる。

 紋章なんて無くても、その姿を身紛うことはない。

 小柄な背丈、日本人離れした顔立ち、亜麻色の柔らかな髪、憂いを帯びた翠の瞳。

 電子科三年、学生会のエリス会長だった。


 エリス会長は今年、断トツ1位の得票数で会長に選ばれた。

 英国生まれ英国育ちで日本に帰化したというエリス会長の来歴の物珍しさから、選挙に興味のない一般学生がなんとなく投票した結果だった。

 しかし、その選択が誤りであったことに学生たちはすぐに気付いた。

 彼女が会長になってからというもの、学食に瀟洒なアフタヌーンティーセットが導入された一方、ウナギのゼリー寄せやスターゲイジー・パイといった冗談のようなゲキまず料理が並ぶようになり、学生たちは戦慄した。

 どうにか彼女に少しでもまともな施策を実行してもらおうと、学生会への投書が集まり、学生運動が活性化している。

 今では会長派と反会長派が勢力を二分し、熾烈な運動を展開している、らしい。


「……一条=サン。紋章について語るならもっと重要なことがあるでしょう」


 エリス会長が僕と一条先輩に上品な笑みを向ける。


「……紋章を審査し、正確に解釈する。それが"紋章官(ヘラルド)"に求められる能力(スキル)


 僕はエリス会長の言葉を聞いて、どうやら本当に面倒なことになったと思った。

 次々に飛び出す奇妙なキーワードに紋章官が追加された。


「そうね。星宮君は次のステップに進むべきだわ」


「え? なんで? ちょっと? 展開が早すぎてついていけないんですけど?」


 僕は慌てて両手を顔の前で振る。

 エリス会長は曖昧な笑みを浮かべて、安心しなさい、と言った。

 エリス会長の意味深な振る舞いに、むしろ不安が増大する。


「大丈夫! 一人前の紋章官として紋章院に就職できるように私が教えてあげるから」


 一条先輩が勢いよく僕の肩を叩く。


「紋章官ってなんですか。紋章なんて全然分かりませんし、お願いですから止めてください」


 僕は率直に事実を述べて懇願した。

 このままのペースでは紋章官なる正体不明の職業に就職することになってしまう。

 そんな人生設計は予定していなかった。


「……すぐに分かるようになるでしょう。紋章の歴史、解釈、記述理論。そして、紋章官の運命(さだめ)も」


「なんか聞いてるだけで耳も心も痛いんですけど」


「紋章について知っていけば、自ずと分かるようになるわ! さあ、早く紋章官を目指しましょう」


「僕は紋章官になりたいなんて一言も言ってないですよ。人の人生を勝手に決めないでください。僕はできるだけ人と接触せずに、在宅ワークだけで完結した悩みの少ない平穏な生活を送りたいんです」


「今、確かに言ったわ。紋章官になりたいって」


「都合のいいように発言を切り取りすぎじゃないですか?」


「ノープロブレム!」


 一条先輩が親指を立てた拳を僕の眼前に突き出す。

 完全に問題があるのだが、一条先輩は気に留める素振りを一切見せない。

 この時、僕の中での一条先輩の評価は"憧れの先輩"から"無駄に胸が大きい変な人"までランクダウンしていた。


「それじゃ、あえて聞きますけど、紋章官って何なんですか」


「端的に言えば、紋章を管理する役人のことね。Wikipediaでは以下のように書かれているわ」


 一条先輩がチョークを手に取り、黒板に紋章官の役割を箇条書する。


 - 紋章にまつわる事案を発議すること、及びそれを管理監督すること。

 - 国家の儀式を手配し、それに参列すること。

 - 紋章や系譜の記録を保存すること、及びそれを解釈すること。


「なんだか、ややこしそうですけど」


「こうした紋章官の仕事が定義されたのは十五世紀、宮廷での儀式様式が確立されてからの話よ。紋章官は宮廷の儀式だけでなく、戦場で交渉や伝令を行う軍使として活躍したという説もあるけど、実態は少し違うわ。中世初期の軍事行動を記した記録に、紋章官(ヘラルド)という単語は皆無なの」


「では、紋章官の仕事は何だったんですか」


「まずは紋章官の歴史について教えるわ。先触れ役という人々について知ってる?」


「いえ」


「ここでいう先触れ役というのは、馬上槍試合にしゃしゃり出てくる下層民のことよ」


 中世の貴族は馬上槍試合、つまり互いに馬に騎乗して槍で相手を倒す模擬戦を行っていた。

 馬上槍試合は貴族にも民衆にも人気があり、現代で言えばスポーツ競技のようなものだった。


 その中で、先触れ役には朝から市民を叩き起こし、教会まで誘導し、試合の助手を務め、試合内容を解説するという役目があった。

 彼らは主に流浪民や遍歴楽師で、馬上槍試合における非公式のサポーターだったといえる。

 先触れ役は自発的に試合を支援していたが、基本的に相応の謝礼を期待していた。

 時には敗北した騎士の装備を持ち帰ることもできたので、流浪民には良い稼ぎだったようだ。


「でも、そんな人達に紋章が関係あるんですか? ただの雑用に思えますけど」


「先触れ役はいわば、試合の実況解説者だったの。解説するには、一人ひとりの騎士について知識が必要よね。その拠り所が紋章だったというわけ」


 馬上槍試合は模擬戦といえども、命の危険もあったので当然、貴族は完全武装していた。

 だが、頭全体を覆う大兜(グレートヘルム)を被っていては誰が誰だか分からない。

 そこで、先触れ役には顔の見えない騎士が誰なのか、観客に解説できる技能(スキル)が求められた。

 その技能(スキル)こそが紋章学――兜飾りや楯、装備に描かれた紋章から、個人や家門を見抜く――だったのだ。

 紋章学に通じた者であれば、例えば以下の奇抜な兜飾りと紋章を一目見て、彼がウルリッヒ・フォン・リヒテンシュタインであることを見抜けたわけである。


挿絵(By みてみん)


 貴族にとっても、彼らが情報を提供することで名を上げることができるわけだったので、試合後には先触れ役にも報奨を与えた。

 また、ドイツでは、先触れ役の中には貴族と雇用契約を結び、"小姓"として試合の公式サポーターになる者たちが現れる。

 先触れ役と異なり、小姓の職能は馬上槍試合だけに留まらず、紋章学を通じて貴族に仕える地位へと昇格していく。

 彼らは普段は全く別の仕事に従事しながら、戦場に赴く際も騎士の助手として振る舞った。

 小姓は主人の紋章柄で仕立てられた高価な衣装に身を包み、求められれば紋章の確認、審査、解説、記述を行った。


 十三世紀後半までに先触れ役と小姓が混在する中で紋章関係者の序列が成立していくが、彼らはまだ宮廷人ではなかった。


 一方、十三世紀のイングランドでは紋章専門家は"紋章侍童"と呼ばれた。

 紋章が一般化していくと、紋章は統一された規格に基づき、普遍的な知識の下で運用されるようになる。

 彼らの仕事は馬上槍試合で口上を述べるだけではなく、紋章を研究し、記述規則を編み、正確に解釈することだった。

 紋章侍童は馬上槍試合において、参加予定者の紋章を審査し、団体競技で組分けを行う役目を負う。

 紋章の審査を受けない騎士は試合に参加できず、紋章侍童の審査には権威が付随するようになった。


 このような変遷を経た後、1285年、紋章官(ヘラルド)が歴史の中で初めて言及される。

 彼らはついに官職の一つとして認められ、十四世紀には国王や諸侯にも仕えるようになった。

 だが、この時点でもまだ紋章官の仕事は、専ら馬上槍試合と結びついている。

 彼らは試合を観戦する貴婦人たちの求めに応じて、騎士の名前から事績、性格や物語を聞かせた。

 そこから騎士と貴婦人の恋が芽生えることもあったという。


「これが十三世紀までの紋章官が成立する歴史ね。十四世紀から紋章官は模擬戦から軍事、そして外交任務を通じて、宮廷文化を担う存在になっていくわ」


「最初のうち、紋章官は馬上槍試合に現れる恋のキューピッドだったってわけですね」


「そう! 中世騎士の恋物語(ラブ・ロマンス)に紋章官は欠かせない存在だったの! 素敵だと思わない?」


「でも、それで紋章官になりたいかと言うと違うかなと」


「星宮君、貴方は心の中ではもう紋章官になりたいと思っているはずよ。いえ、なりなさい」


 一条先輩の腕が僕を捕らえ、胸の中へと引き寄せる。

 彼女の双丘の柔らかな感触が伝わり、僕は沸騰しかけた。


「ちょっと、一条先輩! いきなり触らないでください!」


「ムキにならないで。フォースを信じるのよ」


「何なんだ、この人」


「……口に出てるわ」


 その時、チャイムが鳴り始めた。

 周囲の教室から学生たちが流れ出し、慌ただしく次の教室へと向かい始める。


「今日はここまで。次回までに紋章の要素について予習しておいてね」


「え?」


「これは宿題よ。頑張ってね」


 一条先輩は勝手に言い放つと、教室を後にした。

 後ろを振り返ると、エリス会長もいつの間にかいなくなっていた。

 狐につままれたような気分で、僕は力なく荷物をまとめた。

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