紋章図形 2 具象図形 3 ~ ゼウスの使者
「星宮君、貴方は西武ライオンズと楽天ゴールデンイーグルス、どちらのファン?」
「いえ、その……野球は見ません」
「それでも大丈夫! 今は紋章学の話だから!」
ジャスミンティーのペットボトルでバットの素振りを真似しながら一条先輩は言った。
今の前置きが必要だったのか定かではないが、要するにこれからイーグルスの話が始まるというわけだ。
貴族がかつてアイデンティティの依拠としたパワーアニマルの中で、唯一、紋章学で大きな意義が見出されたのは鷲だけだった。
ライオンに匹敵する威信を持ち、百獣の王にも引けを取らない鷲の頭は2頭、さらには3頭にまで増やされ、やがて怪物に分類された。
時代を遡ると、鷲は紀元前3000年頃にはメソポタミアで戦旗や印章に描かれている。
天上高く飛ぶ鷲はこの世とあの世を結ぶ力を持つと考えられていた。
また、ギリシャ神話ではゼウスの使者と言われ、ゼウスと鷲の絵も描かれている。
その後、ローマ帝国では皇帝や軍隊の標章としても鷲は幾度も登場した。
ドイツにおける鷲の登場は、800年にカール大帝が戴冠の折りにアーヘンで鷲のエンブレムを使用したのが最初とされる。
そして、コンラート2世、ハインリヒ4世、オットー4世、フリードリヒ2世たちによって、神聖ローマ帝国のシンボルとして継承されていく。
帝政の下、鷲は騎士の世界にまで羽ばたき、中世の宮廷で新たな意義を獲得したのだった。
「ギリシャ神話では鷲は重要な動物だったかも知れないですけど、聖書では鷲ってそんなに扱いの大きな鳥ではないですよね」
「鷲が空高く飛ぶという事実だけでは、あまり寓話を作れなかったのかも知れないわね。でも、それでもこじつけのような解釈は存在しているわ」
空高く舞い上がる姿がやがて見えなくなるということから、キリスト復活のシンボルとして鷲は引き合いに出されることがある。
また、年老いると泉に3度潜って若返るという逸話からは、洗礼の儀式が結びついた。
とはいえ、こうした解釈が騎士のアイデンティティに合致しているかというと、必ずしもそうではなかった。
鷲はライオンのようにキリスト教世界の教えよりも、従来のパワーアニマルとして、そして皇帝の威信を強く受け継いでいたのである。
君主に仕える公職者が己の職務の証明として、また封土に依存する証明として鷲の紋章を用いた。
ブランデンブルク辺境伯、モラヴィア辺境伯、ボヘミア国王、オーストリア公、チロル伯、ブルゴーニュ伯、そして多くの領主が鷲を戴いた。
楯に描かれる鷲は基本的に両翼を広げた正面像である。
このように両翼を開いた状態をDisplayedと呼ぶ。
また、翼を半分だけ開いた状態ではDiplayed wings ivertedと呼ばれ、両翼を開いたものに次いで用いられる。
以下はポーランドの国章。
よくある鷲の構図は、胴体を楯の縦軸に合わせて前を向き、首はデキスターを向いているというものである。
しかし、中にはシニスターを向いているものがある。
有名なのはナポレオンの紋章である。
また、嘴と鉤爪を切り落とした小さな鷲、アレリオンという特殊形態が存在する。
アレリオンは一羽では用いられず、複数羽が同時に描かれる。
アレリオンで有名なのはロートリンゲン公の紋章で、十四世紀以降、この不思議な小鳥が出現する。
この奇妙な変種の鷲の誕生については何も分かっていない。
紋章学において、鷲は双頭で描かれる唯一の動物である。
双頭の鷲のモチーフは中東に由来すると言われているが、ギリシャやローマでは見られない。
双頭の鷲は東西ローマの結合の意味を込めて、皇帝が用いるようになったと考えられている。
神聖ローマ皇帝のジギスムントは1401年に、双頭の鷲を紋章として制定し、以来、この紋章が継承されてきた。
鷲は主にヨーロッパ東部、イタリア北部を含む神聖ローマ帝国の領土に広く分布している。
鷲は紋章全体の2%に描かれており、主に貴族に好まれていた。
そして、重要なのは、鷲とライオンが紋章学において競合関係にあったという点である。
スペインを除いて、鷲が多い地域ではライオンは少なく、逆にライオンが多い地域では鷲が少ない。
十三世紀には神聖ローマ帝国の領土で皇帝派と反対派が両立し、多くの領主が政治的理由に基づいて紋章の図像を選択したと考えられている。
「鷲も冠を被ったり、脚に道具を持ってますね」
「鷲もライオンと同じように色々なアクセサリーで飾られた動物よ。胸の上に上弦の月を描いて、そこに彩色することもあったの。シレジアの鷲が有名ね。上弦の月も楯を強化するための鉄板に由来するらしいわ」
ライオンと同様に鷲も様々に着飾る。
冠を被ることもあれば、小さな楯を胸から提げていることもある。
王笏、宝珠、剣のような支配権の印を持つようになるのは近世になってからである。
しかし、帝国の崩壊後には農民の象徴である鎌とハンマーを持ち、単頭に戻った鷲が描かれた。
鷲というモチーフは代々継承されたものの、政治体制によって鷲のアクセサリーは変化してきたといえる。
彩色については黒色、銀色、赤色が多く、金色、青色、緑色の鷲は滅多に見られない。
だが、垂直線で左右の彩色が異なったり、チェック模様になっている場合はある。
以下はモラヴィアの紋章。
また、ライオンと比較して、鷲は身体の各部位が独立して描かれることが多い。
部位としては圧倒的に翼が多いものの、頭や脚だけというパターンも存在する。
以下はアイントリングの紋章。
「これで具象図形のうち二大動物について話し終わったわね」
「なんか具象図形の種類に対して、全然進んでない感じがしますね」
「まあ、それだけライオンと鷲が圧倒的だってことね。それじゃ、次回は他の動物、怪物についても紹介することにしようかしら」
ライオンと鷲の話だけで、今回の紋章学の講義は終わってしまった。
他の動物に一体どのような意味があるのかはわからないが、簡単には終わらない気がする。
伝統的なパワーアニマルについては、鷲しか紹介していない。
熊やら狼やら、藪をつつけばまだまだ猛獣が出てくるに違いない。
僕は紋章という巨大なサファリパークの中で、ただ立ち尽くすしかないようだった。




