紋章図形 2 具象図形 1 ~ 百獣の王
ゴールデンウィーク明け、登校初日から早速、僕は早乙女に呼び止められた。
聞かれたのは、やはり桜庭との関係についてだった。
「俺はゴールデンウィーク中、ずっとバイトだったんだけどさ、星宮のほうはどうだった?」
「一応、出かけたけど」
「付き合ってるデザイン科の女子と?」
「それは……まあ、合ってるよ」
「いいなあ、カップルは。お熱いね」
「まだ、そんなでも無いって。会ってから数週間しか経ってないし」
「それでも付き合ってるんだから普通だろ。どうやって付き合い始めたのかは、気になるけどな」
どうやら早乙女は僕と桜庭の馴れ初めについて関心があるようだった。
しかし、他人の馴れ初めほどつまらない話はない。
僕はその点は適当にはぐらかして、逃げるように次の教室に向かった。
五回目の世界史概論。
いつもと変わらない面子が揃っていると思いきや、最前列の席には誰も座っていなかった。
「あれ? 一条先輩は?」
「少し遅れるみたいですね」
僕が席について間もなく、扉の前に背の高い影が現れた。
一条先輩の背の高さではない。
一体、誰が入ってくるかと思っていると、しかし、入ってきたのは一条先輩だった。
そして、頭の上には何故か長い髭を生やして三角帽子を被った老人の胴体の人形を乗せている。
一歩間違えば変質者である。
「一条先輩? なんですか、それ?」
「兜飾りよ」
僕が怪訝な顔で尋ねると、頭に老人人形を乗せたまま、一条先輩はさも当たり前のような表情で答えた。
「兜飾り?」
「紋章の構成要素の時に説明したじゃない。馬上槍試合では兜の上に奇抜な飾りを付けて、自分をアピールしていたの」
「それが、その老人の人形なんですか?」
「その通り。老人の上半身の人形は人気のモチーフだったのよ」
馬上槍試合では外見で敵を怯ませるため、醜悪な飾りや奇妙な外見の兜飾りが用いられた。
そうした飾りには人間の胸像もよく見られる。
老人であったり、黒人であったり、乙女であることもあった。
こうした飾りは別に宮廷文化に順応させる意味もなかったし、すぐに取り替えても問題なかった。
それでも、ドイツでは同じ家門の中で継承され、一方でフランスでは廃れていったという歴史がある。
「兜飾りにも見られるように、抽象図形よりも、具体的なモチーフのほうが一目で人と違うことが分かるわよね。そして、何より自分の意図した意味――勇敢さ、誠実さ、高貴さ――を連想させられるというメリットがあるわ」
楯に描かれる図形はチャージと呼ばれるが、狭義では特に具象図形のことを指す。
具象図形は人間の身体の一部から、動物、植物、昆虫、道具、建物、架空の生物までなんでもありだ。
具象図形に忌みもののような概念はなく、例えば死を連想させるような骸骨でも描かれる。
貴族は自分たちに相応しい動物、都市は塔や壁、職人やギルドは自分たちの仕事道具を紋章に採用した。
しかし、具象図形の図柄が増えるのは十七世紀に入ってからだった。
現在に至っても具象図形の種類は増え続け、航空機やスキー板など、現代的な具象図形もある。
監視人を描いたヴァッハシュテットの紋章。
天秤を描いたロッケスキールの紋章。
飛行機を描いたエルリングハウゼンの紋章。
「でも、それだけ種類があったら、同じように描くのは難しかったんじゃないですか?」
「具象図形の描き方は描き手に任せられていた部分が大きいわね。描く人によっては、だいぶ違ったものになっていたの」
ロンドンデリー市の紋章には剣とハープ、城壁、そして座っている骸骨が描かれている。
時代やメディアによって図柄は微妙に異なっているが、同一の紋章記述に則った紋章である。
具象図形は見た目の分かりやすさから、初期の紋章でも75%もの紋章で用いられている。
初期の紋章では動物の図形が多用されているが、その種類は非常に限られていた。
「動物の図形は広く引用されたけど、実際に描かれた動物の種類は少なかったわ。1200年より前では、ドラゴンのような怪物を含めても、せいぜい15種類程度ね」
その内訳は四足獣9種、鳥類9種、魚類3種、正体不明2種だ。
「中世の人は動物を知らなかったってことですね」
「その通り。動物の知識が欠けていたことは間違いないでしょうね。1250~1325年の期間では、正体不明の鳥と魚を含めて23種類の動物が使われているわ。十四世紀末になると少し増えて、兜飾りに23種類、楯に17種類の動物が現れるわね」
十四世紀末にゲルレの書いた『紋章鑑』には以下の種類の動物が用いられたことが記されている。
内訳は兜飾りに四足獣12種、鳥類5種、魚類3種、怪物3種(竜、グリフィン、ユニコーン)。
楯では四足獣7種、鳥類3種、魚類4種、貝類1種、怪物2種(竜とグリフィン)である。
中世末期になると、動物の種類も増えてくる。
コンスタンツ市民であった騎士コンラート・グリューネンベルクの『紋章鑑』(1483年)には、46種類の動物が数えられている。
四足獣22種、鳥類14種、魚類4種、爬虫類2種、両生類1種、さらにカニ、サソリ、コウモリ、帆立貝が含まれていた。
こうした動物の少なさは、貴族たちの生活する世界に見られる動物が少なかったことを物語っている。
彼らが接する動物といえば狩猟か、農民が触れ合う動物程度しかいなかった。
この他に、聖書で語られる動物が少数、数えられるに過ぎない。
当初、こうした昔ながらの郷土あるいは神話の動物を、中世初期の貴族たちは自分のアイデンティティの中心としていた。
特に威厳があり、危険で、力強く、貴族がシンボルとした動物をパワーアニマルと呼ぶ。
熊、狼、猪、鹿、オーロクス、蛇、鷲、白鳥、鴉などが該当する。
しかし、こうした考え方は紋章の時代に入ると移り変わっていく。
犬や狼は見すぼらしい印象を与えると考えられ、紋章における評判は芳しくなくなった。
その代わりに登場したのが、十字軍が実際にその目で見た、恐怖を掻き立てる立派な動物。
ライオンである。
ライオンは紋章の中で、最も頻出する動物だ。
ヨーロッパの紋章の15%にライオンは登場する。
イングランド王、スコットランド王、デンマーク王、ボヘミア王、オランダ王、フィンランド王、ノルウェー王など、各地の王家の紋章にもライオンが描かれていることからも、ライオンの人気の高さが伺える。
ライオンに次いで用いられる図形は抽象図形であるBendとFessであり、他の動物は5%以下しか使われていない。
ライオンこそが紋章における王なのである。
「今でこそ百獣の王と言われますけど、どうしてライオンはそんなに人気だったんですか?」
「それは当時の学術研究と宗教的価値観から見ていくと理解しやすいわ」
当時の動物の印象は、自然誌に関する著作を著す学者たちによっても左右されていた。
セビリャのイシドルス(-636)は『語源』においてライオンを次のように記した。
ライオンの語源はギリシア語に由来し、"王"を意味すると。
この解釈をドミニコ会の修道士ヴァンサン・ド・ボーヴェ(-1264)はそのまま受け継ぎ、そこに旧約聖書における意味づけを追加した。
このような著作により、中世におけるライオンの性格は擬人化され、次のようなイメージが付けられた。
勇敢で並外れて強く、気前よく、気高く、高貴の生まれで、寛大、誇り高く、荒々しい。
こうしたイメージを貴族が好んだのも必然といえる。
彼らはライオンと同じような振る舞いを望み、己もライオンのように見られたいと考えた。
ライオンはまさに騎士道に適う宮廷作法の代表者であり、「獅子」という異名が誉れ高い領主に相応しいものとなったのである。
このような獣の前に対しては、郷土のパワーアニマルでは太刀打ちできない。
また、宗教的な面でもライオンは優遇されている。
十二世紀中葉では、キリスト教の聖書と、その神学的な知識を補完する宮廷文学が貴族の知識の拠り所だった。
宮廷文学においてライオンは騎士の道連れ、援助者として登場し、竜とは敵対関係にある。
ライオンを連れた騎士はキリスト教の英雄であり、竜の騎士と対決する。
ライオンの楯を持つ騎士は宗教的な意味でも信仰に奉じる闘士だと認められた。
ライオンは単なる強いだけの獣ではなく、キリスト教においては模範的な動物であり、他の獣と一線を画する存在だったのだ。
「でも、それだけライオンが人気だったら、皆、ライオンを使いたがるでしょう。逆に個人の識別には使いにくくなったんじゃないですか?」
「そこで、紋章を作る上で、ライオンの姿勢を工夫するようになっていったの」
当初、紋章を区別すべく、ライオンの位置を変えていく方法が取られた。
しかし、自然の姿のライオン、つまり寝そべった姿勢では図形が横に長くなるため、配置する位置が限られてしまう。
それに、こうした姿勢は温和な印象を与えるが、ライオンらしさが薄れてしまうという欠点があった。
そこで、横向きの(デキスターを向く)ライオンが立ち上がり、前足を突き出した姿が考え出された。
遠方からでも識別しやすく、戦う貴族のイメージに沿った、「左後ろ片脚立ち」のライオンはすぐに紋章に取り入れられた。
(下記はフランドルの紋章。)
だが、やはりこの姿も人気と相まって、すぐに区別する方法を編みだす必要が出てきた。
楯に描く頭数を増やす試みは、古いノルマン式の楯であれば有効だったが、短くなった楯では見辛くなってしまい、好まれなかった。
彩色によってもバリエーションは増やせるが、銀色、青色、緑色のライオンは全く用いられていない。
なんとか区別をつけるため、背景に小さな星などの小さな図形を散らしたり、ライオンに王冠や王笏、武器を持たせる紋章も現れた。
(下記はノルウェーの国章。)
ライオンは広範囲で使われているが、特に好まれた地域はイングランド南部、フランス北西部からライン川下流、ルクセンブルクからライン川中域、ヘッセンおよびテューリンゲンの地域、スイス、ライン川上流、北海沿岸のスカンディナビア地方である。
「ライオンのあらましはこんなところね」
「具象図形って好き勝手に描いてますよね。同じライオンが被ってしまったり、全然違うライオンになってしまうケースもあったんじゃないですか?」
「そういうケースに備えて、ライオンの姿勢はかなり整理、分類されているわ。今のライオンは概ね、そのパターンに則っていると言えるわね」
その話は休憩の後で、と言って、一条先輩はジャスミンティーのペットボトルを開けた。




