紋章図形 1 抽象図形 2 ~ 紋章記述にトライ
夕餉の時間になって、紋章学は一旦、お開きになった。
食堂では既に夕食を取っている他の人たちがいて、いい匂いが漂っている。
湯河原の旅館の懐石料理はやはり海鮮が多い。
前菜には海老と蛤、お造りには初鰹、焼き物には金目鯛の干物と、何を食べても美味しい。
滋味あふれる料理に舌鼓を打ち、日本に生まれて良かったと心から感じる。
英国育ちのエリス会長にはとっつきにくいかと思われたが、そんなことはなかった。
完璧なテーブルマナーで上品に品物を口に運んでいく。
エレガントという言葉は、こういう人に対して言うものだろう。
「……一条=サン」
「何?」
「……これ、あげます」
「あら? ありがとう、エリスちゃん」
エリス会長は松茸の磯辺揚げを一条先輩の皿に移した。
「エリス会長、松茸、ダメなんですか?」
「……一条=サンが松茸、好きだからです。星宮=クン、桜庭=サンも欲しいですか?」
「え? それじゃ、もらいます」
エリス会長は僕と桜庭の皿にも松茸を移した。
エリス会長にも、歳相応の子供っぽさもあるようだ。
普段は見せないエリス会長の姿に、僕の緊張も解れてきた。
会食を終えてから、再び自由時間に入る。
明日の朝までは紋章学の講義もないし、僕も温泉でゆっくりしよう。
そう思ったのも束の間、温泉の暖簾の前でエリス会長が僕を待ち受けていた。
こういう時は確実に訳ありだ。
「……星宮=クン」
「な、何ですか」
「……一条=サンのこと、どう思いますか?」
直球の質問だった。
何と答えればいいのか、言葉に迷う。
「ちょっと変わってると思いますけど、でも」
「……でも?」
「歴史というか、伝統を大切にしてる人なんだなって思います」
「……そういうことではないのですけど、でもいいです。……星宮=クンは正直ですね、愚直なくらいに」
僕の言葉を聞いて、エリス会長は本当に可笑しいというようにクスクスと笑った。
僕は何か面白いことを言ったつもりではなかったのだが。
「……それでは、温泉でゆっくりしていってくださいね。……私はシャワーだけでいいので」
エリス会長は僕に小さく手を振って、部屋のほうへと歩いていった。
一条先輩と比べると、エリス会長は本当に変わっている。
神秘的で底知れず、しかし、それは決して悪い意味ではない。
翌日、朝早くから僕たちは会議室に集合した。
桜庭は夜ふかししていたのか、ずっと欠伸ばかりしている。
「さあ、新しい一日が始まるわ! 今日という日を実りのあるものにするため、早速、紋章学に取り組みましょ!」
一条先輩のテンションはいつでも変わらない。
何故かそこに安心感がある。
「今日は昨日の続きで、抽象図形、サブ・オーディナリーについて話していくわね」
主オーディナリーに対して、サブ・オーディナリーは元の紋章をマイナーチェンジする際に使用されることが多い。
例えば、分家の系譜であるとか、長子以外の子供や庶子であるとか、そういう紋章を表現する。
また、君主から下賜される加増紋としても利用されている。
「主オーディナリーとサブ・オーディナリーの区別については諸説あるけど、代表的なものだけ見ていきましょ」
「結構、色々な種類がありますね」
「サブ・オーディナリーは使われるパターンが概ね決まっているから、覚えやすいわよ」
「例えば、どんな時にどのサブ・オーディナリーが使われるんですか?」
「Bordureは次男以下の紋章に使われるの。家長の紋章に、Bordureを足すことで、次男以下であることを示すの。スコットランドではかなり広く使われているわ」
Orleよりも細い線で楯を囲ったTressureのうち、線の上にユリの花をあしらったものは、スコットランドでは王から授与される加増紋として利用されている。
Labelは由来こそ分からないものの、家長の紋章に加えることで、長男の紋章であることを表す。
Inesctucheonは楯の中の楯を意味しており、その通り紋章の中に別の紋章を描く。
イングランドでは相続権を持つ女性を妻とした際に、夫は妻の生家の紋章をInesctucheonとして組み入れる義務があった。
Quarter、Cantonは分家が本家の紋章に加えて使用する。
Cantonはこうした同族での区別の他、加増紋としても用いられた。
Mascleは主に離婚した夫人や未亡人であることを示すものだ。
Roundelは円盤状の図形で、彩色によって名前が異なる。
銀色はPlate、
金色はBezant(Besant)、
青色はHurt(HeurtあるいはHuert)、
赤色はTorteau、
黒色はPellet、
緑色はPomme、
紫色はGolpe(Golp)、
アーミン模様はFountainで、特に泉を象徴する。
その他、Roundelには輪状のものや渦巻、同心円などの種類も存在する。
ただし、こうした用例はあくまでも代表的なもので、主オーディナリーのようにサブ・オーディナリーが使われるケースもあれば、その逆も然りである。
イングランドとフランスでも使い方に差異があり、例外について挙げればきりがない。
「これで、抽象図形はだいたい出揃ったわね」
「昔からこれだけ種類があったなら、区別するのも大変じゃないですか」
「その通りね。十二世紀から十三世紀くらいまでは、こうした図形をきちんと記述する形容詞が存在しなかったみたいなの。詳しい記述が現れるのは十四世紀になってからなんだけど、その時の用語は死語になっていて、解読するのも困難ね」
「紋章記述で紋章を表すにも、時代によって限界があったってことですね」
「そうね。もしかしたら、言葉の意味が分からなくなって、既に失われた図形もあるかも知れないわ。今も生き残っているものは、きちんと命名されていたからと言えるわね」
抽象図形については以上で説明は終わった。
「それじゃ、ここまで説明した彩色、分割、抽象図形を使って、実際に紋章記述を練習してみましょ」
「えー! いきなり実践なんて早すぎますよ!」
「大丈夫。紋章記述は分割図形とその色、または地の色。次に抽象図形とその数、抽象図形の線の種類、抽象図形の色という順番で記述していくの。今まで紹介したものを思い出して、紋章を解釈してみて」
僕たちの前に紋章が提示された。
「えっと……。これはCrossだから分割図形ではないですね。まず、黒地だからSable。次に一つの十字だからCross。線の種類はEngrailed。色は銀色なのでArgentってことですかね」
「つまり、Sable, a cross engrailed argentということね! 正解よ!」
一条先輩は僕の腕を取って高々と上に挙げた。
何か成し遂げた感がある。
「それじゃ、次はこれ。はい、桜庭さん」
「うんと……これは横線が奇数だから、分割図形は使ってないですよね。つまり、最初はSinople。抽象図形の種類はBarで3本だからThree bars。線の種類はWavyです、よね?」
「色は?」
「あ! 最後はArgentです!」
「Sinople, three bars wavy argentってことね! 正解!」
一条先輩は今度は桜庭の手を取ってぶんぶんと上下に振った。
一条先輩の笑顔につられて、先程まで眠そうだった桜庭も笑顔になる。
「それじゃ、最後はこれ。早い物がちよ」
「あれ? 青と黒で彩色のルールに違反してる?」
「分割図形の場合は大丈夫だったはずよ」
「そうか! それじゃ、これは斜めで2分割されているから、Per bendですね。色はAzureとSableです」
「その通り!」
「その上に、これは3本のBarsですよね。それで、黄色は金色だからOr」
「つまり?」
「Per bend azure and sable, three bars or」
「大正解! 二人とも完璧ね!」
一条先輩は僕と桜庭の手を取り、立ち上がらせると円になって周りだした。
紋章が、読める。
まさか、こんな時が来るとは。
紋章学の成果に驚いているうちに、湯河原での楽しい時間は過ぎていった。




