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紋章図形 1 抽象図形 1 ~ 図形はきちんと重ねましょう

 僕が紋章学を始めてから一ヶ月が経った。

 今の段階でも、分割図形を使った簡単な紋章であれば理解できる。

 分割図形だけを使って2、3色で彩色された紋章は古典的な紋章で、長い伝統を持つものも多い。

 こうした紋章を見分けることは容易だ。

 フランスのブルターニュやメス市の紋章などは非常に分かりやすい。


挿絵(By みてみん)


挿絵(By みてみん)


 とはいえ、大半の紋章はこんなに単純ではない。

 彩色と分割図形に、さらに抽象図形や具象図形を組み合わせることで、特徴的な紋章を生み出す努力が為されてきた。

 その結果、十字架の模様だけでも400から500にも及ぶ種類が生み出され、今まで継承されている。

 今回はそのような抽象図形について学ぶ予定だった。


 だが、五月の頭はゴールデンウィークだ。

 勿論、授業は無い。

 僕に至っては予定すら無い。

 はずだったのだが、僕はエリス会長に拉致同然に連れ出され、神奈川県南西部の湯河原町に来ていた。

 エリス会長、一条先輩、そして桜庭とともに、遠路はるばる紋章学合宿にやってきたのだ。


「女子三人で行ってくれば良かったのに」


「そんなこと言わないで、星宮君。むしろ喜ぶべきよ」


 僕の居心地の悪さは一条先輩には分からないようだった。

 まあ、それはそれで気を遣わせないだけ、まだありがたいと言える。


「ボディガード代わりですよ! 女の子だけで旅行っていうのも危ないですから」


「そういうもんですかね」


 湯河原駅は観光地の割には小さな駅だった。

 駅前の広場には、相模土肥氏の開祖である土肥実平とその妻の像が立っている。

 鎌倉時代に活躍した土肥実平は源頼朝の信任が厚く、備前、備中、備後の守護となった。

 相模土肥氏は左三つ巴の家紋を用いたという。

 巴紋の由来は水の渦とも蛇のとぐろとも言われ、諸説あるが詳細は不明だ。

 神へ奉じる「御神楽の儀」で用いられた大太鼓の轟音から、雷に関係するとも言われる。

 というのが、一条先輩の説明だった。


挿絵(By みてみん)


「……この臭気は」


「駅を下りた途端に硫黄の香り。流石は温泉郷ですね」


 今の湯河原町は雲一つ無い晴天で、雷の気配は一切無い。

 駅前のお土産屋では干物や蒲鉾、地元の海産物が並んでいる。

 一条先輩は早速、温泉まんじゅうを買っていた。


「良いわよね、温泉」


「楽しみですね」


「日本人なら誰でも知っている温泉記号。素晴らしいわ」


 一条先輩は温泉まんじゅうを撫でながら言った。


「そっちですか」


「湯河原の温泉まんじゅうは神奈川の名産100選にも選ばれているわ。まんじゅうにも描かれている温泉記号の起源だけど、磯部温泉発祥説と、ドイツ発祥説があるわね。どちらかは定かではないらしいけど」


 一条先輩の解説を聞いているうちにバスがやってきた。

 宿に向けて出発する。


「それにしても、良かったんですか。旅費まで出してもらっちゃって」


「……大丈夫。……桜庭=サンがなんとかしてくれます」


「はい?」


「……少しくらいなら学生会の予算を使ってもOK」


「絶対に良くないですって。都知事だったら辞任させられるレベルで良くないです」


 そんなことを話しているうちに宿に近づいていく。

 千歳川を望む丘の上に旅館はあった。

 僕一人の男子部屋と、女子部屋に分かれて部屋に案内される。

 学生会の予算を使ってしまったという背徳感を忘れさせる眺望だ。

 部屋に荷物を置いて、僕は一旦、女子部屋に入った。


「失礼します」


「それじゃ、全員集まったところで、今後の予定ね。ひとまず自由行動。1時間後に会議室に集合!」


「やっぱり、紋章学やるんですね」


「勿論! 多くの文豪や画家が逗留したこの地だからこそ、文化的活動に勤しむのよ」


「それよりも、一条先輩。早く温泉入りましょうよ!」


 桜庭に腕を引かれて、一条先輩は温泉へと向かっていってしまった。


「エリス会長はどうするんですか」


「……星宮=クンを監視します。……温泉で良からぬことをしないように」


「僕ってそんなに信用無いですか?」


 エリス会長の鋭い眼光に晒されては、温泉を楽しむこともできない。

 僕は仕方なく、ノートを広げて紋章学の予習に励むことにした。


 1時間後、浴衣姿の一条先輩と桜庭が戻ってきたところで、僕たちは会議室に移動した。

 用意したプロジェクター・スクリーンに紋章に描く抽象図形が大写しになる。


「さて、今回は抽象図形、オーディナリーについて話すわね。オーディナリーには主オーディナリーとサブ・オーディナリーがあるけど、その分類は人によって異なるわ。まずは主オーディナリーと考えられている図形から見ていくことにしましょ」


 一条先輩は基本的なオーディナリーを示した。


「上段がオーディナリー。下段がオーディナリーを小さく、あるいは細くした補助図形、ディミニュティブよ」


挿絵(By みてみん)


「Bend」


挿絵(By みてみん)


「Fess」


挿絵(By みてみん)


「Pale, Chief, Chevron, Cross」


挿絵(By みてみん)


「Saltire, Pall, Pile」


「オーディナリーとディミニュティブの差は何ですか?」


「オーディナリーが単独で描かれるのに対して、ディミニュティブは同じものを2つ以上、描くという特徴があるわね。中には単独で使うディミニュティブもあるけど、そこまで気にしなくても大丈夫。因みに、線のバリエーションもオーディナリーに適用されるわ」


「えー! 分割図形だけじゃなくて、オーディナリーまで線の種類があるなら、もうそれだけで十分じゃないですか」


「だけど、分割図形や分割線とそっくりの抽象図形でも、分割図形や分割線とは異なるから、注意してね」


「それはどういうことですか?」


「彩色のルールよ。金属色の上に金属色、原色の上に原色はダメ。背景の金属色あるいは原色に対して、オーディナリーは背景と同じ金属色あるいは原色を重ねてはいけないの。例えば、金色の地に対して、銀色のBendを重ねるのは違反になるわ」


「例えば、どういう時に違反になるんですか?」


「同じように真ん中で上下半分に彩色するという点で、Party per fessとChiefはよく似ているわよね。でも、Party per fessでは金属色と金属色、原色と原色を隣り合わせで組み合わせられるけど、Chiefでは金属色の上に金属色、原色の上に原色を重ねることになってしまうからダメなの」


挿絵(By みてみん)


「分割図形は分割するからOKだけど、オーディナリーは上に置くからNGってことなんですね。でも、どうしてオーディナリーだけ彩色のルールが適用されてるんでしょうか」


「これはオーディナリーが生まれた由来に基づいていると思われるわね」


 オーディナリーのような抽象図形は、当初、楯の表面に貼り付ける補強材だったと言われている。

 中世の楯は木製だった。

 従って、楯に図形を描いた革やキャンバスを貼り付けただけでは防御性能が低く、すぐに壊れてしまう。

 そこで、楯に帯のような金属製の薄板を取り付け始めた。

 こうした薄板の形状から、オーディナリーが発生したと考えられている。


「でも、分割図形が2色以上の時は、どうしても重なってしまうと思うんですが。その時はどうするんですか?」


「その時は例外扱いね。あとは、同じ色の種類の抽象図形と具象図形が重なる時も例外扱いになるわ」


 例えば、ザクセンの紋章や、ドイツのゼンデン村の紋章が該当する。

 どうやら、分割図形と抽象図形の組み合わせるためには、彩色のルールを軟化せざるを得なかったようだ。


挿絵(By みてみん)


挿絵(By みてみん)


「あと、分割した区画に別の紋章を組み合わせる場合は、それぞれの紋章の中で彩色のルールは適用されるけど、組み合わせた結果、ルールを違反してしまう場合も例外扱いになるわ」


「彩色のルールも意外と緩いんですね」


「まあ、基本的に彩色のルールを破ってしまうような構成の紋章は避けるべきね」


 いずれにしても、過剰な装飾は識別性を低下させる。

 どんなにルールが緩くなっていると言っても、図形は彩色の規則に則って重ねなければならない。

 紋章に熱中して浴衣の衿が開けてきた一条先輩の胸元を見て、僕はその事を十二分に意識したのだった。

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