分割 2 ~ 直線、波線、凹凸線
「それじゃ、分割図形を作る線を一気に見ていくわね」
「多過ぎます! バリエーションが多過ぎます!」
僕が絶句している横で、桜庭が悲鳴を上げた。
一条先輩の説明では、これらは代表的なもので、まだ氷山の一角だという。
こうした線に先程描いた分割図形を組み合わせることで、無限に近い紋章を生み出せるというわけだ。
「線を組み合わせるパターンをあるわ。フィンランドのカイヌー県の紋章はその例ね」
「これらを使って分割図形やオーディナリーの輪郭を作るわけだけど、呼び方で使い分けが可能よ。per fess indentedと書けば、『横に鋸山形線で2分割した図形』になるわ。fess indentedと書けば、『鋸山形の横帯』という意味になるの」
「どうして分割図形とオーディナリーを区別する必要があるんですか?」
「分割図形とオーディナリーでは彩色のルールが異なるの。この区別をきちんとしておかないと、違反紋章になってしまうわ」
「一気にややこしくなってきたような気が……」
「こんなの、ただ直線を引けばいいじゃないですか! どうしてこんなに線の種類を増やしちゃったんですか?」
既に説明されたように、同一の紋章を使用してはいけないという規則がある。
似たような紋章でも、線が異なれば別の紋章として登録できるというわけだ。
「どうしても紋章を区別する必要がある時も、こうした分割線を利用しているわ。同じ家門の中で子供の紋章をマイナーチェンジするためにも用いているの」
例えば、フランス王室のベリー公の紋章はengrailedを使って枠を縁取ることで、君主の紋章と区別している。
このような区別の方法をケイデンシーと呼ぶ。
「こうやって分割した枠に、他の紋章を当てはめるケースも多かったわ」
「どうしてわざわざそんなことを?」
「2つの血縁関係が合わさったことを示したり、新たに加わった封土を示したりするために、別々の紋章を組み合わせていたの。こういう組み合わせをマーシャリングと呼ぶわ」
このような血縁関係を示すうちに、紋章が複雑になりすぎてしまうこともあった。
第2代バッキンガム=シャンドス公爵の紋章は分割を繰り返した結果、719もの紋章が組み込まれている。
オーディナリー、ケイデンシー、マーシャリング。
続々と専門用語が増えている。
分割は複雑な紋章記述を支える、基礎的なルールといえるだろう。
「分割図形とオーディナリーの区別は、抽象図形の説明できちんとするわね。あと、ケイデンシーとマーシャリングについてもね。まずは、こういう分割線があるってことだけ覚えておいて!」
「この分割線にもフランス語が混じってますけど、これもフランス限定の線なんですか?」
「その通りよ。イングランドの紋章よりも、フランスの紋章のほうが分割線の種類は豊富みたいね」
これだけ複雑な分割線があれば、殆ど使われておらず、お目にかかれる機会が極めて少ないものもあるようだ。
「紋章学ってパターンが多すぎて難し過ぎますよ」
「そうかしら? 現代のほうが、もっと複雑なデザインが身の回りに溢れていると思うけど」
確かに一条先輩の言う通りだ。
現代は日用品から工業用品、電子機器上のアプリケーションまで、ありとあらゆるものがデザインされている。
しかし、これだけ厳格なルールに基づいて、何百年も運用されてきたデザインの文化があるだろうか。
日本の家紋では、大柳酒商中越新左衛門家俊の六星紋の盗用が訴えられたケースと、1591年に菊桐紋が使用禁止になったくらいしかルールらしきものは見当たらない。
とはいえ、審美性という観点では家紋よりも紋章は劣る点もあるかも知れない。
「一条先輩、これだけの種類の紋章を、どうやって覚えたんですか?」
「気合ね」
「気合」
「そう、気合」
「精神論じゃないですか!」
「昔の紋章官たちは自分の記憶力だけを頼りに、何百人といる騎士たちの紋章を見分けていたの。私なんてまだまだヒヨッコよ」
そう言われてしまうと身も蓋もない。
昔の紋章官たちには頭が下がる。
「一条先輩でヒヨッコなら、私なんて最初の一歩も踏み出せてないですよ~」
桜庭はもう音を上げてしまった。
僕も分割線の種類だけで圧倒されている。
紋章学の奥深さの片鱗に、ようやく少しだけ触れたということになったということだろうか。
「最初は私も面食らっていたわ。でも、そんな肩に力を入れる必要はないのよ。私たちは紋章学研究者ではないでしょ。紋章を見て、これはこういう種類なんだって分かる、それで十分だと思うわ」
「そういうものですかね」
「……分かるということは重要。……紋章を解釈できるというのは、そういうこと」
「エリス会長は分かりますか、こういう紋章の種類って」
「……フランスの紋章は、正直よく分からないですね。……歴史も途切れていますし」
「フランス革命の際に封建制を象徴するものだとして、紋章撲滅運動が起こったの。その時に多くの紋章が失われたわ。1791年から1792年にかけて、ありとあらゆる紋章が描かれた道具が破壊され、証書は焼かれ、塔が倒されたケースまであるのよ」
「そんなことがあったんですか」
「歴史は必ずしも絶えず継承されてきたわけではないということね。ナポレオンが皇帝に即位して自分の紋章を改めてデザインさせてから紋章は復活したけど、それでも失われた紋章は多かったと思うわ」
たかが紋章といっても、フランス革命は容赦しなかったということか。
しかし、逆に言えば、それだけ紋章は重要性があったということだろう。
その歴史が一時的とはいえ途絶えるということが、どれだけの損失か、今となっては誰にも分からない。
「今回はこのくらいにしておこうかしら。次のオーディナリーは分割図形よりもさらに種類が多いから。楽しみにしておいて!」
「そんなー」
ノートに分割図形を写し取りながら、桜庭が溜息をつく。
僕より遅れて紋章学に入門した桜庭にとっては、ここまでの流れを追ってくるだけでも大変だろう。
心が折れかけるのも分かる。
「桜庭さん、きつそうだから星宮君も手伝ってあげて」
「え?」
「星宮君のほうが先輩でしょ?」
「そ、それは……」
僕と桜庭は目を合わせて、互いの腹の中を探ろうとしていた。
偽装カップルを演じる上で、一緒に勉強しているというシチュエーションはこれ以上にないベストな方法に思える。
しかし、だからといって、やらされている感は否めない。
「それじゃ、任せたわね!」
一条先輩に肩を叩かれ、僕ははい、としか答えられなかった。
桜庭のほうも何か言いたげに唇を震わせていたが、一条先輩に逆らうことはなかった。
その日の放課後、僕と桜庭は図書館で紋章学の復習に取り組んだ。
二人で一緒にいると、否が応でも周囲の視線に晒される。
見られていることを意識してしまうと、紋章の図形よりも複雑な感情が引き起こされる。
本物の恋人同士であれば楽しい青春の一幕なのだろうが、この馴れ合いは単なる護身のためなのだ。
一条先輩との関係が学内で広まれば、今より酷い状況に陥ることは目に見えている。
「紋章を彩色する時は、金属色の上に金属色、原色の上に原色を重ねちゃいけないんだ」
「何ですか、それ。どうして、こんな意味不明なルールがあるんですか?」
「それは……」
一条先輩から説明された内容を、そのまま桜庭に伝える。
桜庭は度々、首を傾げながらも、僕の説明を復唱して、紋章記述を覚えることに努めている。
「つまり、少ない色でもコントラストを意識して、識別しやすくしてたってわけですよね」
「そうそう。紋章の原則は分かりやすくってこと」
「分かりました!」
女子学生らしい丸文字でノートが埋まっていく。
やがて、桜庭と僕は同じところまでノートを書き進めた。
「星宮先輩」
「何?」
「えっと……その……。あ、ありがとうございます。色々教えてくれて」
桜庭は耳を真っ赤にして顔を伏せた。
「いや、そんな。桜庭さんも一条先輩に好かれたいと思うし、そのためだよ」
「そんな、星宮先輩に気を遣ってもらう必要なんて、ありませんから!」
好意とまではいかないまでも、桜庭は可愛げのある後輩に思える。
しかし、それは一条先輩への一途な気持ちがあるからであって、僕に対するものではない。
どこかすれ違いを感じながらも、僕と桜庭は少しだけ、カップルらしい時間を過ごすことができた。
少なくとも僕はそう感じた。




