彩色 3 ~ ワッフル・ケーキは罪つくりな甘さ
一条先輩がエール・エルのワッフル・ケーキを手に取ったのを見て、僕もワッフル・ケーキに手を付けた。
白いチーズケーキ味、赤いストロベリー味、緑の抹茶味、紫色の紫芋味。
カラフルなワッフル・ケーキを見ているうちに、ある疑問が頭をもたげた。
「中世の時代は染料も少なかったわけですよね。紋章記述に従って、彩色するのは困難だったんじゃないですか?」
「確かに色を揃えるのは難しかったといえるわね。でも、基本的に色調さえ合っていれば問題なかったの。青はスカイブルーでもウルトラマリンでも良かったし、金色はレモンイエローでもオレンジイエローでも構わなかったわけ」
「実際にはどんな染料が使われたんですか」
「染料を作る方法はかなり豊富だったわ」
染料は戦旗や布の色染め、写本の装飾、絵画、そして楯の彩色に欠かせなかった。
本の挿絵の場合、黄色は硫化ヒ素、黄土、サフラン、牛黄が用いられた。
赤黄色土、辰砂、カルミン酸からは赤色が得られる。
青金石、即ちラピスラズリの主成分、藍銅鉱、即ちブルー・マカライト、そして大青(アブラナ科の植物)から青色を作った。
銅の錆である緑青からは緑色が取れる。
煤、木炭、胡桃やヨーロッパハンノキの樹皮と根、さらに没食子(ブナ科の植物の若芽が変形し瘤になったもの)から抽出したインクから黒色を得た。
金属色はそのまま金属を用いる以外に鉛とサフランが利用された。
金色の場合は金箔まで用いられることもあった。
紫色については臙脂虫から取った高価な染料を使っている。
「だけど、折角抽出した染料も、厳密なルールに従って彩色する必要があったのよ」
「どんなルールですか?」
「金属色を原色の上に、原色を金属色の上に! というルールよ」
裏を返せば、金属色の上に金属色、原色の上に原色を重ねることはNGだった。
白地に金色のライオン、黒地に赤色の鷲といった彩色は許されなかったのだ。
極めて見通しの悪い大兜を被った状態でも、紋章を区別するため、コントラストを強調するために考え出されたルールであると考えられている。
中世の間に違反した紋章は1~2%しかなく、このルールは厳重に守られていた。
ただし、彩色のルールは具象図形や一部のアクセサリーには適用されない。
動物の鉤爪や舌、角、人間の肌色などは見た通りに描かれている。
このような色を自然色と呼ぶ。
こうした例外を除いて、彩色のルールを逸脱することは稀である。
彩色のルールを違反した紋章は、無作法あるいは農民風と見られた。
誇り高い騎士にとって、そのような見方をされることは屈辱だったに違いない。
このような紋章は「違反紋章」または「謎紋章」と呼ばれている。
紋章に通じた者があえて自分のプロフィールに関して、謎をかけていると考えられたからである。
だが、イングランドでは違反紋章は認可が下りず、使用することすらできなかった。
そのようなルールの中、例外的に認められた紋章もある。
有名な例外は、エルサレム王の紋章である。
これは銀色の地に金色のエルサレム・クロスを配した、金属色の上に金属色を重ねる違反を犯しているが、正式な紋章として認知された。
しかし、元々は赤色の十字だったはずが、経年劣化によって色が褪せてしまい、黄色になったという説もある。
「彩色の話はこんなところよ。星宮君、どうだった?」
「色だけ取っても、複雑な世界観があったんですね」
「最初は戸惑うかも知れないけど、そういうものだと思って理解してほしいわ」
そう言って、一条先輩は荷物をまとめ始めた。
折角、一条先輩に家まで来てもらったのに、このまま帰ってもらって良いのだろうか。
僕たちは紋章学以外の話をまるでしていない。
何か別のきっかけが欲しい。
僕は意を決して、一条先輩に声をかけた。
「一条先輩、あの」
「何?」
「えっと、その……。家紋の話、途中で終わっちゃいましたよね。それに、一条先輩が紋章学を始めた理由も」
結局、紋章繋がりの話題を振ってしまったことに、僕は強く後悔した。
何をやっているんだ、自分。
「そういえばそうだったわね」
一条先輩は合点がいったというように笑みを見せた。
「私が紋章学を始めた理由は簡単よ。デザインに興味があったから」
それはあまりにも呆気ない理由だった。
「そうですよね。一条先輩はデザイン科ですもんね」
「でも、家紋や紋章の話をできる友達は殆どいないわ。エリスちゃんは紋章学のことを理解してるけど、あんまり話してくれないし。家紋や紋章の面白さを理解してくれる人がいればなって、思ってたの」
一条先輩はそう言って照れ隠しするように頭をかいた。
一条先輩が探していた紋章学を理解してくれる人物、それが僕だったというわけだ。
「ただ世界史概論を選択してるってだけで、こんな強引に紋章学の話をして、星宮君も迷惑だったわよね」
「いえ、そんな。面白いですよ、紋章学」
「そんな、気を遣ってくれなくてもいいのよ」
「そんなことないです。僕は、その、一条先輩と話せただけでも良かったと思ってますし、紋章学をもっと知りたいです」
僕は緊張し過ぎて、声が上ずっていた。
紋章学についてはまだ迷いがあったが、一条先輩との関係については本心から出た言葉だった。
「星宮君」
一条先輩が僕の顔を見つめる。
僕は顔から火が出そうだった。
「クリーム付いてる」
一条先輩は僕の口元に指を伸ばしてクリームを掬い取り、その指を舐めた。
何をしているんだ、この人は?
一条先輩の一連の動きは自然だったが同時にあまりにも誘惑的で、僕の理性は完全に動作を停止してしまった。
僕が茫然自失状態に陥っているうちに、一条先輩は帰り支度を整えてしまった。
僕の自室から出て、母に礼を言う。
「司もお見送りしなさい」
母の声を聞いて、僕はようやく意識を取り戻した。
一条先輩は、僕を紋章学に繋ぎ止めるために、気のある素振りを見せているだけなのか。
それとも本当に――
「一条先輩!」
「それじゃ、星宮君。またね」
「は、はい……また……」
確認したら、終わってしまうような気がする。
僕はどうしたらいいか分からなかった。
玄関で立ち尽くしていた僕に母が声をかけた。
「司? どうしたの?」
「えっと、なんでもない」
「一条さん、すごく良い子ね。司にもあんなお友達がいたなんて、驚いちゃった」
僕と一条先輩が、母が考えるような関係ならば、何も憂いは無い。
しかし、真実を確かめる勇気が僕には無かった。
その代わりに、僕は母に聞いた。
「母さん。うちの家紋って何?」
「家紋……? 星宮の家紋よね。お義父さんが結婚式の時に、紋付羽織を着てたんだけど」
母は顎に人差し指を当てて考える素振りを見せた。
「ちょっと思い出せないわねえ。でも、うちの実家は分かるわ」
「どんな家紋?」
「うちは内藤だから、藤紋よ。下がり藤っていう種類」
母の答えを聞いて、僕は早速、下がり藤について調べた。
藤紋は日本十大家紋の一つで、非常にポピュラーな家紋だ。
姓に藤の字がつく藤原、加藤、内藤、後藤などの家で藤紋が用いられている。
藤は寿命が長く、花も豪華で美しい。
垂れる藤花を想像して、僕は自分の先祖に思いを馳せた。




