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ガイダンス ~ 一条先輩との出会い

 渡り廊下で"陽"な同級生たちとすれ違いながら、僕は一人で次の教室に向かっていた。

 普段は足を踏み入れることのないデザイン科の校舎は綺麗で清潔で、男臭い機械科のそれとは雲泥の差がある。

 女子学生の数も断然、多い。

 彼女たちは楽しげに会話を弾ませながら、まるで意識の外に追い出すように、僕に一瞥をくれる。

 僕は悪目立ちしないように卑屈な男を装って、女子学生の視線から逃れるようにこそこそと歩いた。


 やがて僕はチャイムが鳴り始めると同時に教室へ辿り着いた。

 無造作に扉を開いて空いている席を探す。

 教室にいたのは女子学生二人だけだった。

 逆光で影が差していて、顔は分からない。

 彼女たちがそれぞれ座っている最前列と最後尾の一席以外、他の席はすべて空いていた。


 選択科目、世界史概論。

 たったこれだけしか受講者がいないなんて、なんて不人気な科目なんだろう。

 事前に同級生たちの選択科目をリサーチしておいた甲斐があったことに、僕は喜んだ。

 これなら"陽"の気に当てられずに、平穏無事に過ごせる。


 僕は入ってすぐの廊下側の席に座った。

 最初に目についたのは"担当教諭 急病につき自習 各自 出席簿に出欠を書くこと"という黒板の文字だった。


 初回の講義から教諭不在。

 僕はどうすべきか思案した。

 シラバスでは今日はガイダンスだけで終わりだ。

 ガイダンスで教諭が何を話すつもりだったのか分からないので、自習する内容も分からない。


 ひとまず教科書を取り出し、ぱらぱらとめくってみる。

 薄っぺらい教科書には先史から現代までの世界のあらましが、これでもかと圧縮されて書かれていた。

 恐らくここに書かれている内容が、世間の常識ってやつだ。

 試験を通る程度に暗記しておけば、社会に出た時に恥をかかなくて済む。

 それだけの話。


「星宮君」


 急に自分の名前を呼ばれて、僕は驚いて顔を上げた。

 最前列に座っている女子学生がこちらを振り向いて、僕を見ている。

 その顔には見覚えがあった。

 学生会の一条先輩。

 同級生たちの間でよく話題に上がる、いわゆる"憧れの先輩"だ。

 容姿端麗だが、付き合うことができた男子学生は一人もいないと言われる、高嶺の花だった。


 肩に掛かった艷やかなセミロングの黒髪をかきあげ、一条先輩は再び口を開いた。


「星宮君でしょ?」


 何故、彼女が僕なんかの名前を知っているのか。

 恐らく、出席簿で予め名前を確認していたのだろう。

 それを確認するために質問を差し挟むのも失礼だと思ったので、僕はすぐに返答した。


「そうです。情報科二年の星宮です」


「自習に付き合ってほしいんだけど。暇だし」


「いえ、ちょっとそれは……」


「そんなこと言わないでよ。お願い」


 気さくな口調で説得されると、無下には断れない。


「分かりました」


「ありがとう」


 必要最低限の道具を持って、一条先輩の近くまで席を移動する。

 大人しく従ったものの、いきなり絡まれて、僕は内心では面倒なことになったと思った。

 "陽"な空気を共有して和気藹々と生きていける人間が社会の多数を占める一方で、他人に振り回されず自分のペースで生きていきたい"陰"な人間もいるのだ。

 僕は間違いなく後者だった。


 僕が席に着くと、一条先輩のノートが目に入った。

 女子学生らしくない崩し文字が細々(こまごま)と並んでいる。

 書かれている内容は、知らない単語ばかりで、まるで読み解けない。

 文中の西暦から、少なくとも歴史に関係するものだということだけは、なんとなく分かる。


 講義も始まっていないのに、どうしてこんなノートを用意しているのだろう。


「まだ見たらダメ」


 一条先輩はノートを腕の下に引っ込めた。


「どうしてですか?」


「私が星宮君に薫陶を授けてあげるから」


 そう言って一条先輩は教卓の前に立った。


「さあ、授業の始まりよ」


 一条先輩が胸を張ると、座席の高さからでは、否が応でもその豊かな胸が目に飛び込んでくる。

 自分が置かれたシチュエーションに、僕は思わず目を伏せた。


「嫌なの?」


「いえ、そういうわけじゃ」


「じゃあ、こっち見てよ」


 一条先輩は笑顔のまま、前屈みになって僕の鼻先に顔を近づける。

 一瞬、彼女の胸元が見えてしまい、僕は思わず後ろに身を引いた。


「先輩、近いです」


「わざわざ離れて教えることもないでしょ」


「いえ、近すぎます。男子にはまずい距離感です」


 そうなの? なんて無邪気を装いながら、一条先輩は黒板を綺麗にしてから白チョークを手に取った。

 まっさらな黒板から軽快な音が響く。


 "紋章学"。


「何ですか。紋章学って」


 その時、僕は何も知らない間抜けな顔で、一条先輩に尋ねたのだろうと思う。

 一条先輩は笑いを含んだ声で答えた。


「貴族社会や特別な団体の間で用いられた、あるいは今も用いられている紋章について、体系化された営みを指す単語よ」


「学問の分野じゃないんですか」


「紋章学には、紋章の意匠を分類したり、学問的に意義や由来を研究するという意味もあるわ。でも、原義はもっと総合的なものなの。紋章学の権威、森護先生も"紋章の定義は紋章学者の数だけある"なんて言ってるし、一概には言えないわね」


 分かるような分からないような説明だった。


「星宮君。紋章ってどんなものか知ってる?」


「えっと……」


 僕はノートにアイロンをひっくり返したような形の図形を書き、その上に交差する線を十字に引いて四分割した。


「こういう標章(エンブレム)のことですよね」


挿絵(By みてみん)


 僕がノートを見せると、一条先輩は即座に否定した。

 違うわ"!!!" くらいの勢いで。


 僕がぽかんと口を開けていると、先輩は僕の手からノートをもぎ取って、何かを書き足した。

 そして、僕の前に突き出した。


「こうでないとダメなの!」


挿絵(By みてみん)


 四分割された区画の左下と右上が黒く塗られている。


「な、何が違うんですか」


「紋章は、ただ線を引っ張って分割しているわけじゃないの」


「どういう意味ですか?」


「紋章の背景(フィールド)の上に彩色されたエリアを並べた結果、四つに分割されて見えるというのが実態よ。つまり、彩色が異なることを明示しないとダメなの」


 なるほど、解説助かる。

 僕は大きく頷きながら、これはかなり面倒なことになったと思った。

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