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北摂十五夜  作者: ふしみ士郎
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第八夜

桜がようやく花開きかけ、ぼんぼりが辺りをピンク色に染め上げる。

第八夜


 静かなる宵のことじゃ、半月も多少明るく直下の山々を照らしていた初春、わしは摂津峡を歩いておった。桜がようやく花開きかけ、ぼんぼりが辺りをピンク色に染め上げる。もちろんわしの他にも多くの村人が、桜をめでるために山あいまで食べ物や飲み物を持参しては馳せ参じておる。ほろ酔いながら、わしもその一員として夜の一角を占めている。みなは一様に山あいの吉野桜を目指しておる。なにしろ頂上には大きな桜があるゆえな。みなそれを一目見ようとしているのは当然のことじゃろう。家族連れや年老いたものたちは麓の広場で楽しんでおる。そう、多くの者は入り口の広場で子どもたちとともに宴会を繰り広げておるから、坂道を歩いて吉野桜まで行く者は限られておる。わしは日本酒を飲みながら、ふらりふらりと坂道を歩いていく。明るい広場をあとにすると、少しばかり暗くなってくるので心持ち心細い。すると一人の女人がわしの傍らに歩み出て「お一人ですか。」と声をかけてきた。なるほど暗闇だから顔は見えないが、齢三十くらいの女性であるようだ。桜の香りのする坂道が、より一層あでやかに感じられた。わしが「そうですな。」と答えると、女人はちょこんと挨拶をしてわしを追い越していった。奇妙だな、と感じたもののどうすることもできず彼女の後ろ姿を眺めながら歩いた。坂道はくねくねと曲がっているわけだから、女人の姿もすぐに見えなくなった。ただ彼女の残り香だけが、ほのかな月明かりの元で流れてくる。やがて脇には谷があらわれ、轟々と音を立てて水が流れているのがわかった。わしは一人、黙々と歩いておったが、前方のつり橋のところで先ほどの女人が佇んでいるではないか。「どうしました。」とわしが聞くと、少しびっくりしたように女人は後ろを振り返った。そのとき、初めてわしは彼女の顔を半月の光によって見ることができた。白い肌に切れ長の目をして、すっとした唇は桜色で血色がよかったのはここまで歩いてきたせいだろう。いわゆる和風美人と言ってよい。昔の屏風か掛け軸などで描かれる種類の、黒髪の美しい女性であった。ただどこかに郷愁のようなものをその背中、またその瞳からうかがい知ることができる。「いえ、橋が。」と女人が言うので、のぞいてみるとつり橋が途中のところで弱っているのがわかった。前を行く若者たちはそれでもゆっくりと進んでいるので、それほど危ないということもあるまい。「大丈夫ですよ。」とわしは言ったものの、女人が一人でそのつり橋を渡ることができるかは判然としない。彼女はまだ橋の前でためらっているので、仕方ないとばかりわしが一歩目を踏み出した。そして「どうぞ。」と言うと、後ろを振り返り彼女に手を差し出した。女人は一瞬躊躇したようであったが、それでも決心をして「どうも。」と言うと、わしの手をゆっくりと握った。わしと女人は揺れる橋の上を、一歩一歩歩いていく。下では谷底に水が流れているが、それよりも周りのごつごつとした岩が気になった。もし落ちてあの岩に当たったら、どんな猛者であってもひとたまりもあるまい。わしは彼女の柔らかい手が震えるのを感じながら、逆の手をしっかりとつり橋にやっていた。少し進んでから真ん中あたりで振り返ると、彼女の白い肌がより一層白く感じられる。その白い肌に吸い込まれるように、わしは時間が止まるのを感じた。ただ轟々という川の音、そして桜と彼女のほのかな香り、または半月だけはいつまでも遠くに光っておる。ふと見ると、わしの握っていたはずの彼女の白い手がない。あれ、と思うとわしが握っているのは桜の枝ではないか。わしは山の頂上にいて一人その桜の枝を握っておる。そしてそれをゆらゆらと揺らしている。白い吉野桜は悠然としているが、枝から花が舞い落ちた。ただわしの握っている枝は、少しばかり傷がついておるようじゃ。わしは持参した日本酒を飲み干して、ただ仰向けに寝転ぶと満開の桜に向かって「大丈夫。」とつぶやいた。すると桜の上を、白い鷺が飛んでいくのが見えた。それはとても美しくこの世のものとは思えない。まるで愛する者の元に帰るようじゃ。ほーとわしが声に出すと、鳥は月光を後ろにしとやかに羽ばき夜の中に消えていった。



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