第一夜
そこは京都と大阪の間にある郊外の住宅地だ。
第一夜
そこは京都と大阪の間にある郊外の住宅地だ。摂津から茨木、高槻にかけて北攝と呼ばれる山あいに囲まれた地域。そこを走る一台のトラック。新月の夜。運転手は目をこすりながら、聞き飽きたラジオを消した。高速道路を踊るように滑り降りると、彼はどこで休憩をとろうかと考えた。しかしいつものルーティーンに反して、彼はそうはしなかった。その時、地面が鳴った。彼は一体何が起こったのか一瞬わからない。一斉に信号がアカになる。彼はまぶたを閉じたが、地獄と天国のハザマで口を開けていたのは見えない虚無だった。地面が裂けて、割れる。ヌッと顔を出したケルベロスの顔を彼は直視する。「え?」彼は何が起こっているのかわからない。夢かと思うが、そうでないことが咄嗟に分かる。巨大な犬が漆黒の闇に頭を持ち上げて、ワオーンと一鳴きする。辺りの森林が振動する。風が吹き、彼はブレーキを踏もうかと迷う。しかし逆にアクセルを吹かしたトラックは車体をきしらせながら、曲線をクネクネと走る。バックミラーを見ると、巨大なその体を穴からゆっくりと這い出した猛獣は、今やトラックの後ろを走ってくるではないか。彼は身震いしながら、ライトをハイビームに変える。道は走りにくいというほどではないが、それはケルベロスにとっても同じこと。その黒い犬は執拗に彼の跡をつけてくる。地獄からやってきた使者から逃げ切るにはどうしたらいいのか?いや、彼にはそんなことを考えている余裕はない。ただアクセルとブレーキ、ハンドルを駆使しながら時速200キロの高速スピードで、逃げている。もちろん死そのものであると言っても過言ではない番犬から、その程度で逃げ切れるはずはない。今や彼の顔は真っ青になっている。赤信号を無視して、もうミラーを見ることもしない。周囲の森林と住宅と並木道が、ざわめいてはゆがんで見える。その瞬間、空間そのものがパッカリと割れて、彼はあっちの世界に、あっち側の世界に足を踏み込んでしまう。まっすぐの恐怖と不安、ためらいと過去そのものと彼は向き合う。子どもの頃のいじめられた記憶。両親が離婚し、京都の道を一人で歩いた日。闇夜を歩いて、世界をうらんだ頃。そんなものがサーッと波となって、彼の脳ミソを揺らし刺激する。ブルブルと震える彼の手と足は、トラックを制御することもままならない。「もう、あかん。」そうつぶやく彼の瞳からは、この十年流したことのない涙の粒がポロポロと流れ出す。今、完全にブレーキを踏まれた車は、道の真ん中で停車する。彼は体を震わせ、ハンドルに顔を伏せてむせび泣く。鼻水と嗚咽が窓ガラスを白くする。そして夜空に何かが吸い込まれる。バックミラーをのぞいたその怪物は、なぜかしぶしぶと闇夜を見上げてはワオーンと吠える。そして真っ赤になった目を世界に向かって見開くと、そこには朝という光が差し込んでいた。彼はこの現実の厳しさ、恐れ不安とまだまだ戦っていかないといけないだろう。だがその夜、彼は「死」を見つめる術を得た。彼は再びトラックのエンジンをかける。そして北攝のその町を、永遠に繰り返される夜の中一人で走っていく。たとえ体を失ったとしても。