隣席の君・あなた
扉を開けると、まだ冷えていない講義室のぬるい空気に僕は包まれた。僕の体から吹き出る汗がより一層多くなる。
講義室の中は閑散としていた。机が段々畑のように一段ずつ下がっていき、壇上へと向かっている。前にかかっている時計を見ると講義開始10分前だ。
微妙な段差をおぼつかない足で降りていく。膝のクッション性がなく、一段一段下りる度に大きな音が講義室に響き渡る。
そして、いつもの席に背負っていたリュックを下ろした。教室の左の島の前から10列目の通路側の席だ。
板書からさほど遠くなく、先生に当てられるほど高くなく、まさに丁度いい席なのだ。
僕が席に着くと音が消える。
誰もが音を発さずに授業の開始を待っている。
リュックのファスナーを開き、ルーズリーフと筆箱を取り出し机の上に置く。
カタン…。
後方から音が響いた。
思わず振り向く。
全く動きのないこの教室で先程と異なる箇所は扉が開いていること。そして、そこに君が立って、壇上の方を見下ろしていることだった。
僕以外の皆は気にせず、ある人は顔を伏せて寝て、ある人はスマホをいじり、またある人は宿題をやっている。
その中で、君はまさに立っていた!そしてそこだけ異次元を形成していたのだった。まるで君がブラックホールの中心のように僕の視線は迷わず引き込まれていった。
僕は君と一瞬目が合う。
僕は思わず体勢を戻し、体を前に向け、スマホをポケットから取り出した。
後ろから靴音が講義室中に響き渡っているのが聞こえてくる。その音が鳴る間隔が優雅さを演出させている。
そして音は僕の真横のあたりで止まった。
僕と通路を挟んで隣の席が君の定位置だった。
君はいつもそこに座る。そして、僕はいつもここに座る。
お互いに言葉はいらない。アイコンタクトもいらない。
そんな仲なのだ。
言葉をかければ僕と君の神聖な関係が崩壊していくような気がした。
言葉をかけずとも、お互いを理解し合える。大げさだが、君と僕はそんな関係だ。
先生も教室に入ってきた。
カバンを教壇の上ヘ置き、ファスナーを開いて、プリントを取り出す。
そしてそのプリントを前の方の机の上に置いた。
僕は立ち上がり、プリントのある机の方へ向かう。
講義室にいる人々も音をたてて、プリントの方へと向かう。
君も僕と同時に立ち上がった。お互い向き合い、目があって、立ち止まる。
この瞬間、時はゆっくりと流れ始めた。今までの忙しない人々の動きがスローに流れ、その只中で君が佇んで、僕の方を見ていた。
僕は恥ずかしさから視線を逸らそうとするが、金縛りのように視線を逸らすことができなかった。
僕は手を出して、先に君に動くようにジェスチャーする。
すると君は少し頭を下げ、跳ねて、段を降りていく。
前に垂らした君の髪は段を降りるたびに靡く。
その後ろを行く、僕の方にも君のシャンプーやリンスの香りが漂ってくる。甘い香りだ。
君はプリントを君の友達の分まで取り、席へと戻っていく。君のいた場所に香りを残して。
私が教室の扉を開くと、締め切った部屋特有のカビ臭い匂いを感じた。暑い上にこの匂いとは耐えられない。
少しの間、扉を開けて立っていると私を見てくる人がいる。
あなただ。
いつからだろうか。ここ最近、あなたとよく目が合う。
あなたはまっすぐな瞳をし、髪は綺麗に整えられ、なんの部活に入っているか知らないが、肌は日焼けして健全さを物語っている。
ただ、あなたとは遊びに行ったこともなければ、話したことさえない。
でも、分かるの。あなたが何を考えているのか。
あなたと私がどうしてこんなに目が合うのか。
私はあなたを意識して、わざとゆっくり段差を下りていく。一段ずつ一段ずつあえて大きな音を立てて。
あなたは決して私を見ない。でも知ってるわ。あなたがそっと耳を澄ませていることを。
そして、あなたの対岸の席に腰を下ろした。
私はバッグを置き、中から筆箱やファイル、ノートを取り出す。見上げると、教壇に先生が立っていてプリントの山をを机の上に置くのが見えた。
それがスタートの合図。
私は立ち上がり、プリントの山へ向かおうとした。
すると同時にあなたも立ち上がったのを感じた。
お互いに息を合わせたように通路に出ようとする。
そして息がそろったようにお互い動きが止まる。
それはあなたとぶつかるかもしれないからでもあり、あなたと目が合ったからでもある。
短い時間だけど、目で私たちは通じ合った。
あなたは微笑んで、私の方は手を差し出し、お先にどうぞと合図を送る。
私は会釈をして階段を下りていく、背中であなたの気配を感じながら。
あなたと目が合ったせいだろうか。
心なしか地に足がついた感覚がない。
そしてそんなことを感じながらこう思うの。
あなたも今、同じ状態だろうと。
それを確認したいが、決して後ろを振り向いてはいけない。それが私たちの暗黙のルール。
一眼でも見てしまったら、それは俗物になってしまう。私たちの関係はそんなありきたりなものではないのだから。
私はプリントを自分に一枚と友達に一枚手にする。
そのとき、視界の端からあなたが近づいてくるのが見えた。
全身に緊張が走り、あなたの顔を一眼見たいという欲求が私を襲う。
思わず顔を上げそうになる。
いや、だめだわ。
心の中で私が呟く。
そんなの俗よ。
私はあなたが横を通り過ぎるのを確認し、再び段差を登っていく。目が合ったときに焼きついたあなたの顔を思い浮かべながら。
後日、街中にて
僕は思わず足と口を止める。
横にいる彼女が僕の表情を確かめる。
それでも彼女に応対することができなかった。
なぜなら、君がそこにいたから。
君と目が合う。同時に緊張が全身を駆け巡る。そしてその緊張は混乱を生んだ。その混乱で目をそらすことができない。
彼女は私の顔を覗き込み、「大丈夫?」と声をかけてくる。僕は混乱を抑えながら、「大丈夫だよ。知り合いに似てる人がいたけど、知り合いではなかったみたい。」と彼女に微笑みかける。彼女は僕の様子を不思議がりながらも、そうと言う。
僕は「なんの話をしてたっけ?」と聞くと、「忘れた。」と彼女は笑って返してくる。
そして、私の手を引っ張って「行こ」と言うので、僕はうんと頷き、僕と彼女のデートが再開される。いつもと違うのは目が合ったときに焼きついた君の姿を時々思い出してしまったこと。
私の足は思わず、止まった。
隣の彼はそれに気づかず、歩きをやめない。繋いだ手が引っ張られた。
それでも私の足は止まったままだった。
なぜならそこにあなたがいたから。ガールフレンドと一緒に。
あなたも私と同じようにそこで立ち止まっている。
あなたと目が合った。私の身体は金縛りのように動かなくなる。目を反らせない。
彼が振り向き、どうした、と聞くので、私は我に返って、なんでもないの、と答えた。
彼に微笑むと、彼はそうかと不思議がりながらも私の手を握り直し、していた話を続ける。私も彼の手を握り直した。さっきよりも少し強く。
そして、金縛りの解けた私は歩き始める、彼と一緒に。
こうしていつもと少し違う私と彼のデートとなる。違うのはさっき見たあなたの表情が何度も何度も頭をよぎるから。
講義室にて
僕はいつもと同じ時間に校舎に到着した。講義室の扉を開けると、いつもと同じように室内は温い空気で満たされている。人も少ない。
僕はまず君の席を確認する。君の姿も荷物もそこにはない。
次に室内に君の姿を探すが、君らしき姿は見当たらない。
そして僕のいつもの席を確認する。そこに他の人はいない。
そして僕は躊躇しながらいつもの席へと向かう。向かう途中、他の席に座るべきか考えたが足は勝手にいつもの席の横で止まる。
僕は背負ったリュックを下ろし、席についた。
ポケットからスマホを取り出すと、メッセージが来ていた。
「今度いつ会える?」
彼女からだった。
俺はロックを解除して返事を打とうとする。
そのとき、講義室の扉が開く音が室内に響き渡った。
思わず、僕の手が止まる。
扉を開けた人は講義室の中に入ると足を止めた。靴音がそこで止まる。やけに時間がかかる。
きっと君だろう。
ようやく靴音が聞こえてきて、紛れもなく僕の方へ向かってくる。そして僕の隣で靴音が止まる。
やっぱり君だ。
僕は視界の端に君の姿を確認しようとする。君はそれを分かっているのか、君の席のそばでしばらく立ち止まっている。
焦ったくなり、君のほうを見ようとするが、頭の中で僕がそれを止める。
君を信じなさい、と。
そして、僕は今までの君との関係を思い出し、思わず笑みが溢れる。
そう、これが僕と君との関係。君と僕らしい関係なのだ。
講義室の扉を開けると、真っ先に私はあなたの席を確認した。
そしてあなたの姿を確認し、あなたが裏切らなかったことを喜んだ。
それでこそあなただわ。
思わず胸が弾む。
私は躊躇しながらも、勇気を出しいつもの席へと向かう。あなたはいつものように動きを止めて、私の靴音に耳をすませている。
だから、私はいつも以上に靴音を鳴らしてやった。
私の席に到着すると、あなたの様子を確認したい欲にかられ、席の横で立ち尽くしてしまう。
だめ、あなたが裏切らなかったのだもの。私も裏切ってはいけない。
そう思い、あなたの方を見ずにカバンを置いて、席についた。
これがあなたと私の関係。他の人とは違う、神聖な関係。これ以上の理想はないわ。
そんなことを思いながら私は微笑みが止まらなかった。