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94. ワンルーム・Pサイド・ステップ

《二〇一八年五月二日 十八時十七分》


 耳障りなブザー音。


(……誰……?)


 定時で帰宅してすぐ、ベランダの洗濯物を取り入れていた折邑(おりむら)(ゆかり)は、その音で首を玄関に向けた。


 インターホン。いわゆるその音だが、築四十年近いこの団地には、そんなハイカラな音が鳴るものは付いていない。あくまでもブザー音。死にかけの蟬の鳴き声のような。


(宅配かしら)


 そう思って覗き穴を見ると、


(……?)


 魚眼の向こうに居た影に、紫は首を傾げた。こんな若い子が、うちに何の用だ? まさか……


『折邑さん、部長とどういう関係なんすか?』


『実は俺ら、お二人がホテルに入ってくとこ見ちゃいまして……ほら、証拠写真も』


『これ、社内にバラ撒かれたくなかったら……分かりますよね?』


「……」


 忌まわしい記憶が蘇り、身震いがした。違う。若者だからといって、誰もが彼らのような人間じゃない。おまけにこの二人はまだ学生、しかも片方は女子だ。ふたりともはっとするような……しかしどこか危うい美貌をもった、少年少女。顔立ちがどことなく似ているので姉弟かもしれない。


 きっと大したことのない用事だろう。落とし物をみつけてくれたとか、ありふれた、月並みな。


 恐る恐る紫はドアを開けた。


「あ、どうも……折邑紫さん、ですか?」


 前髪の半分が白い少年が、おずおずと口を開いた。ボブカットの美少女は、三歩下がってその様子をニヤニヤ見まもっている。


「ええ、そうですけど……」

「は、はじめまして、私は怪原(かいはら)理里(りさと)といいます。その、娘さんのことでお話があって来たんですけど……」

「……娘?」


 ああ。やはりこのところ、世界はどこかおかしい。

 三日前の朝、夫が突然切り出して来た。「思い出してくれ、俺達には娘がいる」。耳を疑い、夢でも見ているのかと諭し、ついに多忙で気が触れたのかとあきらめて三日目。ここで再び、「娘」の話題が出た。


「あなたも……あなたも、そんなこと言うの……?」

「えっとその、僕は娘さんの同級生だったんです。いや、今もそうなんですけど、とにかくその、娘さんはどうやら消えてしまったみたいで、親御さんなら何か知ってるかもと思って、」

「……うちに娘なんていません。帰ってください」


 半ばうんざりした口調でつぶやいて、紫は強引にドアを閉めた。


(娘、娘、娘……何よ、わたしがおかしいの?)


 自分が、狂っているのか。

 本当に、自分が忘れているのか。今、居ないと確信できるし頭の中のどこにも存在しない娘の記憶を、忘れているのか。


「わからない……わからない、わよ……」


 ドアに背をもたれ、座り込んだ。知らぬ間に涙が頬を伝っていた。それを拭いもせずに天井を眺め、


 がちゃり


「おい、お客さんだ。茶を淹れてやってくれ」


 閉めたはずの鍵が開く音がして、聞き飽きたしゃがれ声が背中のドアに響いた。


「……外で話してきて、お願い」


 ドアの向こうの夫は不満げな悪態をついたが、やがて二人の学生とともに団地の階段を下りていった。


「もう、嫌……もう……」


 3DKの部屋の古びた板敷が、女のすすり泣く声を黙って聴いていた。


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