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93. リフレイン

《三日前――二〇一八年四月二十八日 午前一時》


「帰ったぞ」


 ちかちかと点滅する蛍光灯、薄暗い廊下。3DKの団地の一室、折邑(おりむら)紫堂(しどう)はガタつくリビングの木戸を開けた。


「おかえりなさぁい……」

「何だ、起きてたのか」


 幸薄そうな妙齢の女性が、暗い和室で深夜ドラマを見ていた。ちゃぶ台にひじを付き、アルコール九パーセントの缶チューハイをすでに二本あけている。


「飲み過ぎは身体に毒だぞ、(ゆかり)

「眠れないの。明日は休みだし、これで最後だから……」


 そう、こぼす妻の表情は、この部屋の切れかかった照明にも増して暗かった。


「……まあ、俺も人のことは言えんがな」


 紫堂も今日は飲んできた。このところ柚葉市を騒がせていた放火犯を逮捕した自分への慰労として。


「はぁ……あのセクハラ上司、なんで私なんか。もっと若い子だっているのに」

「……」


 ぶつぶつと独り言をこぼす紫を置き去りに、ライターとソフトパックを取り出し、紫堂は習慣的にベランダに出る。

 妻との関係は、もう十年近く冷え切っている。結婚して十七年、はじめのうちはおしどり夫婦だったが、この刑事という仕事の多忙さに愛想をつかされてしまった。派遣社員の紫もサービス残業、上司からのセクハラなどで、ストレスが大分溜まっているのもあるが。


(……しかし、俺も仕事をおろそかにするわけにはいかない)


 刑事。その職業に、紫堂は誇りを持っていた。


 街の平和を守る正義のヒーロー。子どもの頃からあこがれ続けてきたその職業に就いて二十三年。エリートではないし、収入も多くないが、それでも検挙率は署内トップを維持してきた。


 正義とは、平和とは、個人個人が努力してこそ達成・維持しうるものだ。ヒーローとはたったひとりで世界を導く救世主ではない。それぞれの場所、それぞれの街の人間、全員がヒーローなのだ。自分はその中で、先陣を切る義務がある。紫堂が身を粉にして働くからこそ、この街の平和は保たれているのだ。


 そのためなら、家庭を犠牲にするのはやむを得ないことだった。たった二人の家族と十三万人の市民、どちらの平和を優先すべきかなど明白――



(……二人?)



 そこで、紫堂は違和感をおぼえた。


 紫堂と紫の間に、子どもはいない。なのに、なぜ今「二人」と考えてしまったのか?



(……そういえば。なぜ俺は、わざわざベランダで煙草を吸ってるんだ?)



 紫は一度も、紫堂の喫煙に口を出したことがない。しかしこれは、十五、六年前から習慣にしていることだ。自分からそうするようにした記憶がある。きっかけは何だったか――



(うっ)



 頭痛がする。なにか、なにか致命的なことを、忘れている気がする。


 ガラリとベランダの戸を開け、紫堂は妻のいる和室に駆け戻った。


「なあ紫! 俺が外で煙草吸うようになったのって、どういう理由だった……」



「……すう」



 紫はすでに眠っていた。ちゃぶ台に突っ伏し、倒れて落ちた缶からは檸檬風味のリキュールがじわじわと畳に沁み込んでいる。


「クソッ」


 悪態をつき、無精髭をポリポリと掻いて、毛布を取りに紫堂は夫婦の寝室に向かう。


 バタンと木戸を閉め、廊下をどたどたと苛立ち歩く。物ひとつない、がらんどうの余り部屋の前を経由して――


(……? この部屋は……)


 足が止まる。その戸に、目が吸い寄せられる。

 この部屋は、ただの余り部屋だ。結婚して十七年、ずっと、この部屋には何もない。

 そう、自分の頭は語っている。そう記憶している。しかし、紫堂は違和感をぬぐえなかった。



(何だ、この感覚は……!?)



 酔って頭がおかしくなってしまったのかも。そう考えつつ、紫堂はその扉を開きたい衝動に抗えない。


 もう何年も開けていなかった、空き部屋。開けると()()()()から。



(誰に()()()()というんだ)



 右手を止められない。止めない。ドアノブを握る。ゆっくりと回し、いざ――




 ガチャリ




「……っ……」



 何も、ない。



 がらんどうの部屋。電気の消えた、真っ暗な洋室。何一つ、物は置かれていない。



 パチリ、紫堂は電気のスイッチを押した。丸型の蛍光灯は廊下のものと違い、すぐに室内を照らした。


 当たり前だ。最近替えたばかりだから――



(……誰も使わない部屋の電気を、なぜ替えたんだっけか?)



 思い出せないまま、紫堂は室内を見て回る。記憶は、この景色が正しいと主張している。この景色こそ正当なものであると。


 しかし感覚は違和感を訴えていた。オオワシに襲われるウグイスの雛のように、やかましい金切り声をあげている。



(ここは……何だ? 何なんだ……)



 部屋の中を何周かした紫堂は、最後に水色のカーテンに手をかけた。よく晴れた空のように鮮やかな、水色の――



「……!」



 激しい頭痛が、紫堂を襲った。



『このカーテンの色、いいよね!』

『ああ。■■の髪と同じ色だ』

『うん! きれいな、そらいろ……みずいろ? わたしの髪と、おーんなじ♪』



 声が、聞こえる。



 幼い女の子の声が。頭の中に、響く。



「ぐっ……あっ……」



『ねえみて! 今日、空手の大会で優勝したの! きんめだるだよ、きんめだる!』


『■■、もう十歳なんだよ? 勝手に部屋に入ってこないでよ』


『晩飯? ああ、分かってる。あとで行くよ』


『旅行? どうせドタキャンすんだろ。あたしはパスで』


『今日も遅いんだな。母さんが可哀想だよ』


『……こんな家、生まれてこなきゃよかった』


 少女の声は、どんどん低くなっていった。年齢を重ねるように。だんだんとすり切れて、何もかもあきらめていくように。



「し……おん……」



 気付いた時には、紫堂の頬には涙がつたっていた。


 知らないはずのその響きには、なぜか何千、何万回と呼んできたような愛おしさが籠もっていた。


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