92. GIGORO Brother
「あの毒虫女が、消えた?」
昼休み。いつものように理里の教室をおとずれた珠飛亜は、彼の膝の上で振り返って聞いた。
「毒虫女って……っ、珠飛亜は覚えてるのかっ!?」
驚く理里に、珠飛亜は当然のように答える。
「そりゃ覚えてるよ? かわいいりーくんにちょっかいを出す悪い虫だもん……今度会ったらブッ飛ばす」
メラメラと両眼を燃やす珠飛亜をなだめつつ、理里は安堵の息をついた。
「落ち着けって。しかし、珠飛亜も覚えてたとは……これは心強いぜ」
「?」
うきうきした弟の態度に、珠飛亜は顔で疑問符を描く。
「まさかりーくん、あの髪色チョコミント女を探そうなんて言わないよね?」
「そのまさかだ。その形容詞には突っ込まないぞ」
言った時点で突っ込んでいるようなものだが、その失態にも気付かず、理里は改めて提案した。
「珠飛亜も協力してくれよ。折邑さんを探すのにさ」
「えぇ~、やだ」
「即答かよ」
お決まりの、幼児のような拒否に理里は呆れる。
「一人の人間が消えてるんだぞ。それを知ってるのは俺達だけなんだよ。その俺達が動かなくてどうすんだ」
「嫌なもんはイヤなのー。めんどくさい」
「はぁ……」
行動原理・感情のみ。三歳児ですらもう少しマシな思考をするだろうに。
(仕方ない、これは禁じ手だが)
そう考えて、理里は膝に乗った珠飛亜の腰に両手を回し。
ぎゅっ、と、強く抱き寄せた。
「はひぃ!?」
急なアプローチに珠飛亜の声が裏返る、そこに間髪入れず、
「……はあ」
耳の裏に、暖かい吐息を吹きかける。
「ひいぃん」
ぞくぞくっ、と官能的に痙攣する珠飛亜。さらにワントーン上げた声でとどめの一撃。
「……おねえちゃん、ぼくのいうこと聞いてくれないの?」
「はうううう!!! これはりーくんがお願いするとき、百分の一の確率で登場するショタりーくんっ! そのかわいさは天文学的、後ろにいるのにうるうるおめめの幻影が見えるほどのかわいさっ! 満場一致で全お姉ちゃん陥落、国民主権を明け渡したあああ――っ!!!!」
解説を終え、供給過多に酔った珠飛亜はゆるんだ顔で床に倒れた。
「怪原クン恐ろしいな……」
「学園一の美女がイチコロだぜ」
「はわわわ……」
「これはよい弟成分を補給できましたヨォ!」
戦慄する男子と赤面する女子、何人かの「特殊な」女子は興奮して眼鏡の上げ下げが止まらなくなっていた。
(こういうスキルだけが身についていくの、大丈夫なんだろうか……)
将来ホストになるわけでもなし。なったとして、まず一人の永久指名は確定になるわけだが。
(……おぞましいな)
いつでも会える弟にいくらでも金を積む姉の姿を想像し、身震いする理里だった。
「あ、でも調べるって言ってもどうするの? みんな忘れちゃってるなら、誰にも聞きようがないじゃん」
ぽん、と飛び起きた珠飛亜が真顔で問う。理里はあごに手を当て、
「そうだな、まずは……」
☆
まずは、この『忘却』がどの程度のものなのかを調べる必要がある。世界はどのレベルで、折邑紫苑の存在を忘れ去ったのか? 単に人々の記憶が消えただけなのか、それとも存在そのものが消失してしまったのか。
四限終わりの休憩時間。それを調べるため、まず理里は日直の生徒に声をかけた。
「お、怪原クン。どしたの?」
ツーブロック……山崎の友人、「野球部」。出席番号十二番、丸刈りの菅野仁は今日も気さくな笑顔を理里に向ける。
笑みを返して、理里は問いかける。
「少し、学級日誌を見せてくれないか? こないだ俺が日直だったときの先生のコメントが気になって」
「おう、いいぜ」
菅野は快く、黒い表紙の日誌を渡してくれる。ありがたく受け取って、理里はパラパラとページをめくった。
(おっ……あった、名簿)
そう、学級名簿。
担任のコメントなどどうでもいい。理里は、ここに紫苑の名前が記されているかどうか確認したかったのだ。
ここに紫苑の名があるなら、紫苑の存在は人々の『記憶』から消えてしまっただけ、ということがわかる。逆に彼女の名がなければ、彼女は人々の記憶だけでなく、この世のシステムそのものから消えていることになる。
存在の痕跡がどこかにないか? まずはそれを調べることで、彼女がどこに行ってしまったのかが分かっていくはずだ。
(七番、七番……と)
上から七番目。そこに『折邑紫苑』の文字は――
「……!」
無い。
かつて彼女の名が記されていたはずのその位置には、『七番 怪原理里』。ほかでもない理里の名前が書かれている。日誌を貸してくれた菅野も番号が繰り上がり、十一番になっていた。
(……これは、想像以上に深刻だな)
異変の大きさ。これは単なる失踪ではない、ただ忘れられただけでもない。もっと恐ろしい、何かだ。
その腹の底から湧きあがるような恐ろしさを、理里はどこかで感じたような気がしていた。しかし、それがいつだったのか思い出すことはできなかった。




