91. ロスト・ガール
五十六時間。
それが、理里が目覚めるまでに経過した時間だという。
現在、日付は五月一日火曜日。二日間たっぷりと眠り、祝日の月曜日をまったり過ごした理里は、眠い目をこすって学校の廊下を歩いていた。
(ったく、ゴールデンウィークなんだから火曜と水曜も休ませてくれりゃいいのに)
あくびと一緒に戸を開けて、理里は教室に入る。中では、すでにいくつかの男女グループが談笑していた。
二〇一八年のゴールデンウィークは、四月二十八日から三十日までの三日間と、五月三日から六日までの四日間に分かれる。間の五月一日と二日は平日であり、柚葉高校は他校の例にもれず、平常運転で授業が行われる。
(社会人なら有給取れるのにな……あーあ、早く大人になりたい)
そう甘いもんじゃないぞ、と社会人にツッコまれそうなことを考えながら、理里は自分の席に鞄を下ろす。
(折邑さんは……来てないか)
前の席の水色髪女子・折邑紫苑は、もう一週間以上学校を休んでいる。詳しいことはわからないが入院しているらしい。寄せ書きをつくって贈ろう、と学級委員の女子が数日前に話していた。
(入院ね……ま、俺も少し前までそこにいたわけなんだが)
四日前、柚葉市凍結事件の折。道路のど真ん中で倒れた理里は、善意ある市民の通報によって救急車に乗せられ、市立病院に運び込まれた。
しかし検査をしようにも心電図をとろうにも、あらゆる計器は彼の肉体を解析できなかった。身体の外側に薄く張った「魂」がすべての情報を覆い隠してしまい、機器類の情報移動を遮断してしまうためだ。
気味悪がられた理里はとりあえずの処置として安静に寝かされ、制服のズボン裏の名札から判明した連絡先で、電話を受けた恵奈に回収された。
(この邪眼、もう少し使い勝手がよけりゃいいんだけどな……せめて一定時間使えなくなるだけ、とか)
考えても仕方ないことを夢想する。理里が貧弱なリザードマンである以上、この体力消耗は抑えられない。多少身体を鍛えたとしても、完全に意識を保てる領域には至れないだろう。
自由を勝ち得たように見える世の中だが、人はまだまださまざまな要因に縛られている。貧困、法律、規則、先天的障害……人の中で人として生きる怪物の理里もまた、「弱さ」という鎖に縛られているのだ。
自嘲して卑屈に溜め息をつくと、 入口近くでしゃべくっていた女子グループのひとりが話しかけてきた。
「あれ? 怪原くん、席間違ってない?」
「えっ? ……ああそうか、ごめん」
きっと寝ぼけていて、勘違いしてしまった。そうそう、本来の席は……
「……あれ?」
周りを見渡すが、心あたりがない。やはり理里の席はここ、入口手前から二列目の前から二番目だ。席替えもなかったこの一か月、理里は毎日この場所に座っていたはずだ。
「なあ、やっぱ俺の席ここじゃないか?」
もう一度理里は問うが、黒髪ロングの女子は首を振った。
「ちがうよ、だってそこは未来の席だもん。ね?」
「う、うん……」
黒髪ロングの隣にいた、小柄な三つ編みの女子がうなずいた。
彼女の名前は確か、小向未来。出席番号九番、理里のひとつ後ろの席の女子だ。
「……え、違うだろ」
理里は首をかしげた。
席は出席番号順。小向未来は理里のひとつ後ろの席、前から三番目に座っていたはずだ。仮に彼女の席がここなら、理里の席はひとつ前、つまり最前列ということになる。
それは、ありえない。なぜなら、
「俺の席はここだよ。だって、前は折邑さんの席じゃないか」
あの最悪の出会いをした日から、彼女――折邑紫苑の印象は、「前の席のイヤな女子」。この「前の席」という属性はくつがえしようのない事実のはずだ。
しかし黒髪ロングの女子、出席番号三十七番山中美鈴は、
「えっ……? 誰、それ?」
まるで、その名を知らないように眉を寄せた。
「誰っ、て……」
さすがの理里も戸惑う。
「忘れたのかよ、一か月も一緒にいて。ほら、あの水色の髪の」
「水色? そんな派手な子、見たことないけど。ねえ未来?」
「う、うん……知らない」
美鈴も未来も、奇異の目を理里に向ける。
「そ、そんなわけないだろ。確かに、ここは……」
覚えている。理里ははっきりと、覚えている。
だが、目の前の女子たちはそうでないらしかった。
「……あー、もしかしてアニメの話? 怪原くん、もしかしてそっち系の人なの?」
「たしかに。なんとなくそんな感じするね」
納得したような二人は手を叩き、笑って理里をたしなめた。
「現実と虚構を間違えちゃダメだよ? とにかくそこは未来の席だから、ほら動いた動いた!」
「え、ちょっ……」
美鈴が背中を押してくる。理里は抵抗する間もなく前の席に座らされ、目の前にカバンをどっかと置かれた。
「はーあ。ほんとやんなっちゃうよねー、オタクってさ」
「う、うん」
離れていく美鈴と未来を横目で見つつも、まだ理里は混乱していた。
(どういうことだ? あの二人、折邑さんを知らないって)
あれほど目立つ人物を忘れるわけがないのに。確かに友人はいなさそうだったが、それでも記憶から消えてしまうことはあるまい。
理里が頭を悩ませていると、以前珠飛亜のことが好きだと言っていたツーブロックの男子が教室に入ってきた。
「お、怪原くん。よっす」
「よっす。なあ、俺の席ってここで合ってる?」
すぐに理里は問うてみる。すると、ツーブロックは固めた髪を撫でつけながら答えた。
「ああ、合ってるけど……なんだその言い方? 怪原クン、最初からその席だろ」
「……!」
この男も理里の席は初めからここだという。ならば、
「じゃ、じゃあ折邑さんって知らないか? 水色の長い髪の……」
「おり……なんだって? 水色の髪? いや、見たことないな」
ぽりぽりとひたいを掻きながら、ツーブロックは口をへの字にする。そしてまた、いつものようにもじもじと指先を突きあわせた。
「それより、今日はその……」
「ああ、珠飛亜ならたぶん来るよ。ありがとう」
「よかった……!」
途端にぱっと顔を輝かせて、彼――出席番号三十六番山崎健介は、窓際の席にスキップしていった。
(……あいつも、知らなかった)
クラスメートたちが、折邑紫苑の存在を忘れている。席すらなかったことにされている。これは明らかに異常な事態だ。そして、
(覚えているのは、俺だけなのか……?)
理里だけが、彼女の存在を覚えている。それが本当に自分だけなのかはわからないが、少なくとも今ここで覚えているのはおそらく自分だけだ。
ならば……
(俺が、動かなきゃ)
と、思いかけて。
(……別にこれはあいつの為じゃない。単なるオレの興味だ、それだけだ)
仲の険悪な彼女の顔が頭に浮かび、理里は自分の頬をばちばちと叩くのだった。




