80. 夢幻のごとく
空の英雄が敗北した。
その瞬間を少し離れた中学校の屋上から見ていた者たちがいる。
「『風の結界』が消え去った、ゆくぞヘビ娘!」
「ヘビ娘ゆーな! 我にはれっきとした吹羅という名が……いやそれも世を忍ぶ仮の名だが!」
黒髪のすらっとした女と、その脇に抱えられた小柄な少女。
田崎蘭子と怪原吹羅だ。綺羅の暴走を止めるため、理里の指示で吹羅を探していた蘭子はようやく彼女と合流できていた。
「貴様があんな場所に隠れてなきゃ、もっと早く見つけられたんだが……」
「ふふふ。こういうとき脱出に使うのは天井のダクトと相場が決まっておろう?」
「そこも凍っていたがな。おまけに出られなくなって泣いてたのはどこのどいつだ?」
「うるさいうるさいうるさーい! ……はっくしょん!」
じたばたと暴れつつ、吹羅は大きなくしゃみをする。凍ったダクトの中で長時間寝そべっていたのだから当然だ。
「……時間が無さそうだな。行くぞ」
「どへえっ!?」
轟音。屋上のセメントと氷が砕け散り、砲弾のように蘭子が蒼い獅子に向かって跳んだ。
「くぁwせdrftgyふじこlp」
吹羅の顔面におそろしい勢いで雪が吹きつける。二度目のマッハ体験だ。
「よし投げるぞ!」
「ヴェッ!?」
言葉にならない声をあげたとたん、吹羅は投げ飛ばされた。
「どっしぇええええええええええええええええええええええええええ!?!?!?!?!?!?」
☆
(だめ……もう……)
氷でできた心臓の中で、怪原綺羅は苦しんでいた。
(もうだめ……おさえきれない……)
『青い炎』はとまらない。それは発汗のように綺羅の意思にかかわりなく溢れる。目から、喉から、皮膚から、身体のありとあらゆる隙間からとめどなく流れ出し、氷の心臓から獅子の全身に送り出されている。
全身が痛い。これ以上吐きたくないと体が悲鳴をあげている。だけど心が止まらない。衝動のままに炎は膨張していく。
(やめてええええええええええええええええええ!!!!!!!)
そう、綺羅が泣き叫んだ時――
――氷の壁が、砕けた。
(……え?)
綺羅を閉じ込める氷の心臓の、彼女の四肢を氷漬けにしている心室の正面が砕け散った。
――ありえない。
この心臓は分厚い氷でできている。それは籠愛の『空気の刃』すら通さない強固なもので、多少傷がついても瞬時に『青い炎』で再生する。そもそも心臓に至る前に大体のものは凍らされ、循環する炎によって体外に出されるはずだが……。
しかし、それも『青い炎』があるからの話。
「どひえぇ!!」
すっとんきょうな声をあげて何かが飛び出してきた。それはまっすぐ綺羅のほうに飛び、綺羅に抱きついた。
「ぎょわああああ冷たあああああ!!!!!! って氷まみれではないか!! なんじゃココ!!」
ぱっ、とすぐに手を離す騒がしい人影。ばちばちと目瞬きする左目には……
黒い星のペインティング。
「ひゅら……!?」
かすれた声で、綺羅は双子の姉を呼んだ。
「なななななんと我が魂の片割れ!? 壁に埋め込まれてるではないか! すぐ助け出さねば……おわっとと!?」
氷の床が傾き、転んだ吹羅はまた綺羅に抱きついてしまう。
と、ふたりの身体を襲う浮遊感。
「おちてる……?」
「のわあああああああああああ!? つぎからつぎへといったいなんなのだあああああああああああ!!!!!!」
☆
青い炎が、消えてゆく。
熟しきった柿のようにふくらみ、破裂寸前だった炎の獅子は、風に飛ばされる霧のように消えてゆく。
その様子を誰もが見ていた。
寝ぼけまなこのリザードマンも。
鳥と化したテセウスも。
民家に寝かされた傷だらけのスフィンクスも。
死んだと見せかけて反撃の機会をうかがっていたエキドナも。
意識を取り戻した桃色髪の少女も。
黒髪を雪風になびかせるアタランテも。
玄関に座り、家族の帰りを待つケルベロスも。
そして――墜落するベレロフォン/ヒッポノオスも。
幻の獅子が消えるのを、えもいわれぬ心持ちで眺めていた。