80. Break the shield
「あはは、あははは、あっはははははははは!!!!!」
籠愛は嗤っている。
眼前では蒼炎の獅子が膨張をつづけている。炎が解き放たれるのは時間の問題だ。
残る邪魔者は三匹、しかし籠愛は『空気探信儀』を展開して彼らを即座に探知できる。また『嵐刃領域』により、範囲内に入った者を即座に殺すこともできる。
そして残る三者の能力では、籠愛を倒すことはできない。
「生命力だけの蛇、速さだけの女、そして穀潰しの犬……クク、かような三匹では私に敵わん! 奴らがどんな策を講じてもキマイラの暴走には間に合わん!」
籠愛はほくそ笑む。
キマイラはもう限界だ。咆哮は悲鳴に、そして喘鳴に変わった。
『GOo……Oo, Ah……』
切れぎれのえづくような喘ぎ声だ。炎の口からは唾液のように火花が散り、ダルマのように膨張した身体はすでに市役所の敷地を覆ってしまった。
「爆発まであと一分も無い! それだけの時間で何ができる!
わたしの勝利だ! 人類の悪しき歴史は、満を持して幕引きだ! あーっははははははははははは!!!!!」
「――うっせえぞ、ベレロフォン!!!!」
「はははは…………は?」
籠愛の笑いが、止まった。
「誰だァ……? その名でわたしを呼ぶ者はァ!!」
般若の形相で振り返る。
左側。効果範囲外、百メートルと少し離れた片側二車線道路に、豆粒のような人影が立っている。
……否。厳密には"人"影ではない。人の姿をした、化け物の影だ。
「世界を滅ぼす……? ハッ、聞いてあきれる。誇り高い英雄サマは、世界のために俺たちを消すんじゃなかったのか?」
人の顔。まだあどけない少年の顔だ。しかし挑発的な笑みを浮かべる口は耳まで裂け、笑うたびにガチガチと鳴る牙は恐竜のように凶暴に尖る。
全身を覆うのはエメラルドのように輝く鱗。太った蛇のような尾は氷を打ち、黒く鋭利な爪は風をも穿つ。
怪原理里……その半妖態が、凍った車道のど真ん中に立っていた。
「きさまァ……気絶していたんじゃなかったのかッ!」
「おかげで目が覚めたんだよ! あんたが珠飛亜を墜落させてくれたおかげでな!」
腕を組んで仁王立ち。あらん限りの声で理里は応えてくる。
「ベレロフォン、おまえは俺がブッ倒す!」
「やってみろ……その名を呼んで、無事だった者はいないと知れッッ!!」
即座に籠愛は急降下。すべての『空気の刃』を理里に向ける。
だが理里も負けてはいない。すぐさま後方に飛び退き、効果範囲外ギリギリの位置を保つ。
そして、左眼に手を当てた。
「!!」
その動作に籠愛も平静を取り戻す。
黄金の光で生命を白く塗り潰す、万死の瞳の予兆である。
(まずいッ!!)
光が少しでも皮膚に当たれば、たちまち全身を石化させられてしまう。
ネクタルは残っていない。治療してくれる仲間もいない。その先に待つのは絶望のみ。
「――ここで死ねるかアッッ!!!!」
叫んだ。
籠愛は叫んだ。
まだだ。まだ、自分には使命がある。やらなければならないことが、ある。
人類の次は神々を滅ぼさなくてはならない。ここで自分が息絶えては「使命」が中途半端に終わってしまう。自分の生まれた意味を、存在理由を果たせないままに終わってしまう。
それだけは、いやだった。
「オオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッッッッッ!!!!!」
猛風。すべての風が、籠愛の正面に集中する。
効果範囲半径百メートル、そのすべての空気を、集める。空に、大地に、吹きすさぶ風をただ一点に。
そして――ふいに風が止む。
「――"蛇媓眼"ッ!!!!!」
「『凪の盾』!!!!!」
閃光。あふれんばかりの光。夜の帳をはらう旭日、あるいは太陽神ホルスの最期の輝きたる夕陽にもまさる光が、辺りを包む。
しかし。
「ハーッハハハハハハハハハハハハハ!!!!!! 効かん効かん! 貴様ごときの光など、一筋だろうと届かんわ!!!!」
黄金の光は籠愛に至る寸前で、ドーム状にはじけ飛ぶ――まるで、「見えない盾」が彼を守っているように。
『凪の盾』。領域内の空気すべてを、籠愛の正面に圧縮させた空気の盾。
極度に圧縮された空気は光の動きをねじ曲げる。これにより籠愛は石化の光の直撃を防いだのだ。
「左眼を使ってしまえば、キサマはただのデクノボウ! あとは力尽きた貴様を潰すだけでいい! 姉と同じようにざく切りにしてやるわァァ――――ッッ」
強烈だった光がだんだんと途切れる。弱くなる。ゆっくりと締められる水道の蛇口のように、ぽつ、ぽつ、と点滅し――消える。
「くたばれ、『嵐刃』――!」
殺れる。また一匹、自分を侮辱した者を殺れる。
そう、歓喜して『空気の刃』を再錬成しようとし――
止まった。
「……は?」
籠愛は、静止した。目を見開き、手を前方にかざしたままの態勢で。
(いな……い……!?)
居ない。
さっきまで道路の真ん中に立っていたはずの理里が、いない。車道のど真ん中に、ふてぶてしく立っていた影が居ない。
「ど、どこに――」
辺りを見回しかけ……その答えは、すぐに彼に届いた。
ごう、と。
風。頭頂部がそれを感じた。籠愛が自分の周辺に呼吸と飛行のために残していた気流。それがわずかに動く。
反射的に上を見上げると――
「オオオオオオオッラアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!!!!!!!!!!!!!!」
いた。
緑の鱗に覆われた拳をまっすぐ突き出し、落下してきた影が。
その形相は憤怒に歪んでいて、牙をくいしばり、黄金の眼を爛爛と燃やし、こぶしひとつ分の距離まで迫っている。
……そして。
影は、ひとつではなかった。
(ああ……あなた、までも……)
もうひとつの拳。鍛え上げられた、毛の一本もない「人」の拳。
眼鏡はかけておらず、普段まとめている髪も振り乱している。鳥の顔から、人のものへと徐々に変化しつつある鉄面皮。裸の身体に鳶色の羽根が何ヶ所か残っている。
(……なんということだ……)
その瞬間、彼らの作戦を籠愛は理解した。
理里の邪眼はブラフだった。『凪の盾』を発動させることで空気を一点に集め、『嵐刃領域』を解除させるための罠だった。あえて邪眼の光を防御させ、邪眼を止めたと同時にテセウスが理里を抱えて籠愛の真上に飛び……そこから彼らは自由落下による攻撃をしかけた。
そういえば以前、手塩と邪眼の攻略法について話したことがあった。それをこんなところで利用されるとは!
(くそっ!)
もはや防御は間に合わない。籠愛が空気に意思を伝えるより速く、彼らの拳は籠愛に至る。
(だが……なぜ?)
なぜ、理里はわざわざ挑発してから攻撃した? はじめから邪眼の光で奇襲していれば籠愛を殺せただろうに――
(……!)
なぜか。その疑問の答えは、籠愛のすぐ目の前にあった。
手塩の顔。怒りと、悲しみと――
そして、愛。鉄面皮はいろんな感情でしわくちゃに歪んでいた。普段の冷徹な表情は見る影もなく、ただ、それらが混ざり合ったぐちゃぐちゃの貌が、そこにあった。
(……あなたは……どこまでも……!)
すべて理解した。彼の甘さも、優しさも。そして、彼とともに拳を握る怪物の慈悲深さも。
(あなたにも……そんな顔が、できたのか……)
じわり。と、籠愛の目尻に滴が浮かんだとき――
ふたつの鉄拳が、籠愛の顔を殴り落とした。




