76. 分かってたんだ
「……ぅ……」
理里は目を覚ました。
(なん、だ……ここは、どこだ……?)
固く、冷たいものが背中に触れている。氷の上だ。
空も見える。曇っている。雪がこれでもかと降っている。だが、周りに建物は無さそうだ。
が。それを考えるより先に、身体にのしかかった「重み」が彼を押しつぶす。
(うっ……)
あまりの重さに視線を腹の上に向けると、その正体がすぐに判った。
「す……ひあ……?」
翼。
まず目に入ったのは、その惨状だ。
白い羽根がささくれて赤く染まっている。身の丈ほどもあった翼がぼろぼろになっている。花嫁衣装のようだったそれらは、数千年前のミイラをくるんでいたぼろ布のようにみすぼらしく変わっていた。
続いて彼女の髪。つやが無い。何時間も風にさらされたようにぼさぼさだ。ところどころ、不自然に切られてもいる。
羽根の白、髪の黒……それにつづいて目を刺激したのは「赤」。
「こ……れは……!」
珠飛亜の肩口が、ぱっくりと裂けている。そこから、滝のように血が流れ、理里のブラウスまで赤く染めていた。
「っ、早く手当を……!」
そう思い、理里はすぐに珠飛亜の身体をどかす……と、
ずしゃっ。
鈍い音がした。液体が、飛び散る音が。
(なんだ……なんだよ、これ)
珠飛亜の身体はほとんど真っ赤に染まっていた。
原因は、身体中に存在する切り傷……否、斬り傷から流れ出た血。皮膚の表面が軽く切れたような生易しいものではない。二の腕や太腿、脇腹の「内側」が痛々しく露出している。
「こんな……いったい、誰が……!」
このようにむごいことを。誰が。
綺羅の炎は凍らせることしかできない鎧かあいつは沈黙した誰だ蘭子さんが俺を裏切ったのか騙してたのか彼女の爪にしては切り口が綺麗すぎる誰だ英雄の誰かか手塩かあいつがそんなわけないでもあいつは一度珠飛亜を裏切ってるあいつはそんなことしない他の英雄かピンクのツインテールか長髪ノッポの方かでも手塩は剣を持ってた誰だ誰だ誰だ誰だ誰だ誰だ――
「…………止血しないと」
ぐっ、と混乱を飲み込む。姉の血で紅く染まった自分のブラウスを脱ぎ、包帯のサイズに千切る。
間に合うか? そんなことはどうでもいい。ただ、目の前で死に瀕している彼女を放ってはおけない。
(……放っておけない? なぜ?)
ブラウスを裂きかけた理里の手が、止まる。
理里は珠飛亜と決別した。もう二度と面倒を見ないと告げた。ならばなぜ助ける必要がある?
珠飛亜がなぜこんな傷を負ったのか? 何か理由があったとしても、それはこの女の自己責任だろう。この女はずっと理里を苦しめてきた。この女のせいで今までの学生生活を潰されてきた。彼女が卒業してもシスコンと蔑まれ、誰も彼に手を差し伸べてはくれなかった。悲しかった。寂しかった。もうあんな思いはごめんだ。
なのに、なぜ。
「……なんで……なんで俺は、泣いてるんだよ」
ぼろぼろと。一粒、二粒。涙で視界がくもる。
「こいつの……こいつのせいなのに……なんで、なんでだよう」
わからない。頭では泣いてはいけないとわかっているのに、身体が言うことを聞いてくれない。
……いや。
「わかってる……ほんとは、わかってんだよ……」
分かっていた。
ぜんぶ、分かっていた。
珠飛亜がこれほどの重傷なのに、なぜ理里は傷一つ負っていないのか。簡単だ。あまりにも簡単だ。
珠飛亜が、理里をかばったのだ。
「なんで……なんで俺なんか助けるんだよう……俺は、あんなに、ひどいこと言ったのに……いつも、いつも、ひどいこと言うのに……一番、よわいのに……なんでおれなんか、たすけてくれるんだよう……」
言った。二度と近寄るなと。
言った。連れて帰られるくらいなら、死んだ方がましだと。
なのに、彼女は自分を守った。理里がどれだけ突き放しても手を伸ばしてくれた。こんなひどい傷を負ってまでかばってくれた。
「わかってた……ぜんぶ、わかってたんだよ……おれのわがままだって……」
彼女のせいで孤独だった? 確かにそういう一面もあるだろう。だが、友達を作る努力をしなかったのは誰だ? 学校のマドンナの「弟」に甘んじて、差し伸べられる手をずっと待つだけだったのは誰だ?
理里だ。
そんなどうしようもない自分と、彼女はいつも一緒にいてくれた。一人では何もできない、何の才覚もない男にすべてを与えてくれた。いつだって愛してくれた。だから、ともだちがいなくても、さみしくなんてなかった。
本当に彼女のことが嫌いだったなら、同じ高校に入ったりなどしていない。シスコン扱いされるのはもううんざりだ。だが、ほんとうは誇らしくもあったのだ。いろいろとひんしゅくを買っていた珠飛亜だが、教師や上級生には姉のすばらしい評判を聞かされることもあった。「あの怪原さんの弟くん?」「お姉さんほんと美人だよね!」「スポーツも勉強も万能で、言うことなしだよね!」「あんなお姉ちゃんがいて、うらやましいなぁ」……そんな姉への称賛を聞くたび、鼻が高かった。
理里はクラスで孤立していたが、いじめを受けたことは一度もなかった。それは姉の評判によるところが大きいのだ。
「ごめん……ごめんよ……おれがぜんぶ、わるかったよう……
だから……目を、あけてくれよ。いつもみたいに笑ってくれよ……」
ぼろぼろと、涙が止まらない。ぬぐってもぬぐっても、湧き水のようにあふれてくる。
いくら時が経ってもそれは止まず。珠飛亜の顔色が、ついに蒼白から土気色になりはじめた時――理里は肩を叩かれた。
「何をしている。早く手当てをなさい……ごふっ」
ぬるっとした液体が理里の背中に飛び散る。
「!?」
振り返ると、筋肉質な裸の男……手塩が、口から血を垂らしてひざまずいていた。