72. トリニティ・ブルー
(蘭子ちゃんはまだなの!?)
珠飛亜は、祈りながら逃げている。弟を抱いたまま。
怪物に神は居ない。祈るべき神は珠飛亜の敵だ。
だが、祈る。生存の強い願いに応えてくれる何らかの力に。あるいは『因果応報』という摂理そのものに、自らの善行をかえりみて祈った。
炎の獅子との距離はもう数メートルも無い。冷たい炎のあぎとの餌食にされるのも時間の問題。
実の妹に食われる、食われて死ぬ。誰より大切な弟までもだ。それだけは避けたい。
自分が死ぬのも弟が死ぬのも嫌だ。だが何より――
(綺羅ちゃんにそんな罪を背負わせたくない!)
珠飛亜にとっては綺羅も大事な妹だ。生まれてから今まで見守ってきたかわいい妹だ。そんな妹に、姉と兄を喰った業を背負わせるのは嫌だった。
「っ……!」
珠飛亜は急降下する。五メートル、一〇メートル、そして地上十五メートルほどの位置に至って叫ぶ。
「"菫青晶の舞付師"!!!!」
瞬間、眼下に並ぶ人家を覆う氷が溶けて大量の水に変わる。
「『厚水汰溺壁』!」
地面から立ち上った巨大な『水の壁』は、炎の獅子を阻むかに見えた――が、壁は獅子の足元にも満たない。ばきばき、と音を立て、水は再び氷に戻る。
おまけに、
「っ……!?」
氷の壁を炎の獅子の脚は、すり抜ける。
彼女には実体が無い。あの巨体のどこかにいる綺羅本体が何かに引っかからない限り、物質で獅子を阻むことは不可能だ。
万事休す。獅子の顎が大きく開いて、珠飛亜と理里を喰らわんと迫る。
(ごめん、りーくん……)
ぎゅっと目を瞑り。強く理里を抱き寄せて、珠飛亜は襲い来る冷気を予感し――
「――どけェ!!」
暴風に殴られた。
男の怒号とともに、一陣の荒風が珠飛亜の身体を吹き飛ばす。
「きゃあ!?」
とっさに理里を抱き寄せるが、珠飛亜自身はバランスを崩す。遠く吹き飛ばされ、ようやく体勢を立て直す。
「なんなの!?」
頬をふくらませて自分が飛ばされてきた方を睨むと、
「えっ、籠愛、くん?」
珠飛亜は目を疑う。
キマイラの眼前の空中に浮かぶ、長身の青年はまぎれもなく籠愛だ。だが、その雰囲気は珠飛亜の知るものと大きく異なっている。
(籠愛くんのあんな顔は見たことない)
鬼の形相だった。物静かで気の小さい普段の彼から全く想像できない『悪』の貌。
そして彼の後方には、
(何あの『蛇』!?)
キマイラに劣らない大きさの黒炎の大蛇が八匹、人家を呑みながら籠愛を追っている。
昔聞いたことがある。恵奈の第二の能力が、『黒い炎』を操るものだと……まさかあれが?
「もうここまで来たか……!」
籠愛も何か焦っているらしい。あの蛇……恵奈に、追われているのか。
姉弟を喰いそこねた青い獅子の鼻先で籠愛は叫んだ。
「さあキマイラよ、いま一度狂気に吼えろ! 私はここだ! おまえを殺した英雄はここにいるぞ!」
そう宣う籠愛は、笑っていた。殺せと言っているのに、死ぬつもりは欠片もないように笑っていた。
獅子の目が籠愛を視認――途端、獅子は震えはじめる。山のような巨躯を揺らして、グルル、グルルとうなって後ずさりする。
「どうした、私が怖いのか! 怖いなら殺せ! その『青い炎』で凍らせてしまえ! この街、この世界もろともなあ!! アーッハッハハハハハ!!!!」
狂ったような籠愛の笑い声が響く。
『Uu……Uhh……』
キマイラはうなっている。たてがみのように炎が広がった頭を振ってうなっている。
その仕草で珠飛亜は何となく察した。
(彼が綺羅ちゃんを暴走させた……!?)
彼の発言と綺羅の怯えようを照合させればその解答に至る。
さらに、おそらく籠愛はふたたび綺羅を暴走させようとしている。彼女の身体を構成する『青い炎』をもう一度暴発させるつもりだ!
(だめっ! いま『青い炎』が放たれたら私たちは助からない! 被害ももっとひどくなる!)
珠飛亜も人間に何の情も無いわけではない。生まれてこのかた人の中で暮らしてきたのだ、多くの人命が失われることは他人事とは思えない。
「やめて綺羅ちゃん! がんばって! おねえちゃんがここにいるよ! もうだいじょうぶ! そんなやつはおねえちゃんがぶっ飛ばしてあげるから!」
声を大にして珠飛亜は叫ぶ。だが、
「アバズレが余計な真似を!」
籠愛もそれを放ってはおかない。
ぶん、と籠愛が左腕を珠飛亜に向けて振る――放たれる『風の刃』。
「っ!」
とっさに珠飛亜も翼で身をかばうが、
「っ!?」
飛び散る鮮血。
鋼鉄に等しい硬度を誇る珠飛亜の羽根ですら、『風の刃』を阻むことはできなかった。
腕も、脚も、翼も、散切りに刻まれる――そう危惧した瞬間、思い出す。
(やばい、このままじゃりーくんが!)
珠飛亜の決断は早かった。
くるっ、と一八〇度回転し籠愛に背を向ける……半秒もしないうちに、斬撃が珠飛亜の身を切り刻んだ。
「いぎゃあっ!?」
肩口。脇腹。二の腕。太腿。ぱっくりと割れる。ニンジンの飾り切りのごとく。
滝のように傷口から流れ出た血が白い氷上に落ちた。
だが……
(守った、よ……りー、くん……)
腕に抱いた理里はどうにか軽傷で済んだ。頬と袖を少し切っただけだ。
(よかった……わたし、今度は、守れ……)
景色が黒く霞み、血塗れの天使は墜落した。