71. Darkness Flame
「かっ……あ」
恵奈は凍った地面にあお向けで倒れていた。
ベレロフォンから逃げる途中、どういうわけか翼が機能しなくなって墜落してしまった。抱えていた麗華はどうにかかばえた……しかし次に襲ったのがこの酸欠だ。
(ベレロフォン……こんな芸当までできるとは)
遠のく頭で恵奈は歯嚙みする。
(どうにか切り抜けないと……)
恵奈は無酸素状況でも二時間は活動できる。この真空圏から抜け出せなかったとしても籠愛とは戦える。
だが、
(……問題はこの子よ)
身体の上に抱いた麗華。
すでに血管がひたいに浮いている。無酸素状態に入って三〇秒と経っていないが、もう窒息の症状が出ている。
麗華は手塩や蘭子のような肉体派ではないらしい……つまり、身体が一般人と変わらないわけだ。
人間はわずか五分前後で窒息死するという。そのわずかな時間で能力の発動元である籠愛を倒すか、麗華を『空気の支配者』の範囲の外に出すか。
どちらも絶望的だ。
前者は恵奈から籠愛への攻撃手段が無いのが問題。彼はいま上空五〇メートルほどの位置に滞空し、『風刃領域』を展開している。飛び道具は全て風の刃に弾き返されるうえ、毒の粉も残っていない。
後者については、おそらく籠愛は恵奈の周辺を狙って空気を無くしているので、『出る』というのは事実上不可能だ。効果範囲外に出ようにも起点である籠愛自身が追ってくる、つまり無酸素領域そのものが恵奈たちを追ってくるから、移動したところで変わらない。
もはや手は無い。恵奈にできるのは麗華を捨てて逃げることだけだ……
――いや、たったひとつ、反撃の手段はある。
さきほど籠愛と戦った際、毒の粉に思い至る前に踏み切りかけた禁断の手が――
(やはり使うしかない……わたしの、第二の能力を)
恵奈は空を睨む。宙に浮かび、腕を組んで嗤う籠愛を睨む。
その能力を使えば、恵奈の『何より大切なもの』のひとつを失うかもしれない。だが、なりふり構ってはいられない。今は絶体絶命の状況で、その能力を使えば打破できる状況だ。
であれば、使わない選択肢は無い。
「――熾るは、我が怒り」
口に出す。それは、その能力を縛る鎖。そして、それを解く鍵である『言葉』。
「焼べるは、我が決意」
魂にかけた枷が外れる。ひとつ、またひとつ、その度に恵奈の周りの風景がかげろうのように揺らぐ。
「燃ゆるは、我が魂――」
恵奈は麗華を地面に降ろし、右手を天に掲げる。青白い掌から火花が散る。
「我、此処に宣う。
其は、己が為にあらじ。
其は、人が為にあらじ。
其は、神が為にあらじ」
ぼう、と、火花は小さな火の玉に変わる。冷たく青い焔ではない――しかしながら、灼熱深紅の炎でもない。
黒。恵奈の翼や髪と同じ漆黒。全てを塗り潰し、総てを飲み込む闇の色。
「我が服膺の欠片を食らい、燃え盛れ――
"黒燄煉劫儛"」
瞬間、炎は恵奈の全身に燃え広がる。白い肌も、髪も、牡牛のような角も、蛇の身体も、全てを黒い焔が覆い尽くす。
なれど、恵奈は声一つ上げない。黒炎が身体を包んでも微動だにしない。
炎が全身を飲み込む――否、恵奈が飲み込まれたのではない。主導権は炎の方ではない。
恵奈が、黒焔を纏ったのだ。全てを灰燼へと帰す昏き焔を。
「黒燄煉劫儛、第一形態・滅龍轟哮」
それが、この凶暴なる黒炎の鎧の名であった。
「さあ……反撃よ」
黒より黒き焔をまとった女怪が、その黄色い双眸を光らせる。




