59. 回想回STORY
イラストはまりぬすさん(Twitter:@LosMarinus)にいただきましたm(_ _)m
ありがとうございます!!!!
前世において、英雄ヒッポノオスは汚名を被った。文字通りの『汚名』である。コリントスの王子であった彼だが、とある罪を犯し、以後はその事件が元となった渾名で人々に呼ばれた。
そもそも彼の祖父シシュポスも、神々を2度裏切った罪で深淵に投獄された。彼の父グラウコスも、馬に人肉を食わせた報いを受けて死んだ。そんな親の元に生まれた彼は、物心ついた頃から劣等感の塊であった。王子という身分ではあったが、「神に逆らった一族」の子として、侍従や女官・人民に陰口を叩かれる日々。彼には何の罪も無いというのに。
森の動物たちだけが、子どもの頃の彼の癒しであった。彼らは悪口など何も言わなかった。ただ、純粋に、呼ばれるまま彼のもとに走ってきた。それはある種の彼の異能だったのかもしれない。
やがて彼は馬に魅せられた。はじめは、父を喰い殺した動物に恐怖心もあったが、乗馬や戦車の鍛錬をするにつれてその人懐っこさに打ち解けた。馬に乗り、草原を駆ける時が、最も幸せな瞬間になった。
……しかし、その牧歌的な幸福も長くは続かない。国事としておこなわれた競技会で、あやまって弟を殺してしまったのだ。この時から彼は「弟殺し」を意味する名で呼ばれることになる。彼は隣国・ティリンスに身を寄せ、プロイトス王によって罪の清めを受けた。
しかし、苦難はここで終わらない。プロイトス王の妃・アンテイアが彼を誘惑したのだ。彼は頑として貞操を譲らなかったが、今度はそれを恨まれ、妃は「ヒッポノオスに犯されそうになった」と王に告げ口した。
激怒した王だったが、隣国の王子を私怨で殺害するわけにもいかない。そこで王は、リュキアの王イオバテスに手紙を届けてほしいという名目で、ヒッポノオスをかの国に送った。
好青年の来訪に、リュキア王イオバテスは喜ぶ。だが、彼が託されて来た手紙の内容を見て困惑した。なんとそこには、ヒッポノオスの殺害依頼が書かれていたのだ。
王子の暗殺など国としてもリスクが高すぎる。外国の王子が自国内で殺害されるなど国際問題、ひいては戦争に発展しかねない。
そこでイオバテスは一計を案じる。ちょうどその頃、リュキアでは怪物キマイラの横暴が人々を悩ませていた。この化け物の討伐にヒッポノオスを向かわせ、キマイラに彼を殺させればいい、と考えたのだ。
……しかし、ヒッポノオスはいとも簡単に怪物を倒してしまった。天馬ペガサスを手に入れて。
意地になった王は、その後も英雄に試練を与える。ソリュモイ人の征服、アマゾネスの討伐。しかし、彼はその全てを攻略してしまった。最後には王自らが刺客を放ったが、それすらも彼は殲滅してしまった。もとより隣国の王に殺害を依頼されていただけのイオバテス王は、ついに彼の実力に感服。自らの娘を妻として与え、王位の継承を約束した。
それ以降の彼の人生は、客観的に見れば幸福そのものであった。一国の王となる未来が決まり、許嫁となった王女と過ごす安寧の日々。
何もかもが幸せだった。姫と愛し合う日常も。王となるための予行演習として、イオバテスの右腕となって働いたことも。戦に出て武勲を挙げたことも。すべてが己の輝かしい未来へと続いていた。これほど嬉しいことはなかった。
けれど、そうして幸福をおぼえる度に、彼の心を冷ややかに見つめる彼自身がいた。「お前に、そんな権利があるのか」と。罪人の子である自分に、弟殺しの罪を犯した自分に。幸せになる権利など存在しないのだと。王女の摘んできたクローバーの匂いを嗅いだとき、あるいは政務の合間に一杯の蜂蜜水を口に含んだとき、あるいは自陣の天幕の中で剣の手入れをしていたとき、その自戒は彼の心の臓を突き刺した。
そんなとき、彼は決まってペガサスと天を翔んだ。長い髪の間を通り抜ける風はいつだって涼やかで、たてがみをなびかせる天馬は気分よく鼻を鳴らした。いつだって空が、天馬が、彼の気を晴らした。それだけが、彼の揺るぎない幸福だった。
あるとき彼は、どれほどの高さまで翔べるのか試してみることにした。その日も空は晴れやかで、雲一つない蒼穹は青天井をさらしていた。絶好の日和。意を決して馬の横腹を蹴り、天馬は飛び立った。
ぐんぐんと地表が離れていった。離陸地点の森丘や、純白色の城下町はあっという間に小さくなった。烏も渡り鳩も鳶も鷹も追い越して、どんどんと天馬は空を昇った。
もはや地表のようすがおぼろげになり、はるか西に広がる大西洋を望みはじめたとき、英雄の心ににわかに期待が生まれた。「このまま飛び続ければ、ひょっとすると神々のおわす天界にすら至れるのではないか?」本当にそれは、ふとした、ささやかな期待だった。
しかしその瞬間、どこからともなく走った雷が彼を撃った。
身体中をかけめぐる熱、朦朧とする意識の中、彼とペガサスは落下した。その時ヒッポノオスは、心の中にずっといた「冷めた目の自分」を思い出した。ああ、やはりそうだったのだ。自分には幸福など似合わなかった。幸福になる資格などは存在しなかった。幾度となく心の内から聞こえていた声が、ようやくそのとき彼の実感となった。自分の結末はやはり悲惨なものがお似合いだ、という諦観に。
幸福の絶頂の境涯から文字通り「突き落とされた」彼は命をとりとめたものの、足に障害をもち、視力も失った。また、運の悪いことに落下地点は人の通らない荒野だった。
いや、そんなことはどうでもよかった。目覚めた時、視界が真っ暗に染まっていたことより気になったのは、友たるペガサスの行方だった。
近くに居ない。あの嬉しそうな鼻息が聞こえない。籠愛を見ればすぐさま駆け寄ってくるはずのあの馬が、妻と同じほどの愛情を注いだあの馬が居ない。
必死に地面をはいつくばって彼を探した。何度も名前を呼んだ。けれど、あの高らかないななきは、一度として返ってくることはなかった。
なぜだ。なぜだ。なぜだ。なぜ神々は、一度自分に与えた天馬を奪い去ったのだ。もう一度あの馬の下に導いてはくれないのか。自分の夢を叶えてくれた神々が、自分の夢を奪うはずなどない。何度も女神アテナの御名を叫んだ。時に恨み言も、呪いすら叫んだ。
けれどすぐに思い至った。これは、神の領域に至ろうなどと一瞬でも考えた、自分への罰なのだと。夢を叶えてもらったにもかかわらず不敬をはたらいた愚か者に、天帝ゼウスが雷霆の裁きを下したのだと。
で、あるならば仕方がない。どうしようもない。自分は罰を与えられるべき罪人だ。
いや、この罪以前にも自分は弟殺しの罪を犯しているではないか。それだけではない。自分の父も、祖父も、何かしらの重罪を犯して天罰を受けた。所詮自分はそういった星の下に生まれた人間なのだ。幸せになろうと藻掻けば藻掻くほど、絶望に足をすくわれる。そういう運命にあるのだった。何をしても変わらない。何をしても、運命は動かない。
そう悟った時、今まで這って身体を進めていた腕が動かなくなった。じりじりと照りつける太陽の中、飢えさえ苦しみではなくなった。なにもかもが「面倒」になった。所詮自分は何をしようと、何にもならないのだから。幸せに辿り着くことはないのだから。何をしたって無駄だ。それよりは今、熱い日差しの中で、凍える夜の冷たさの中で、ただ地面に転がっている方がいくらか幸せだった。「楽」なことが、怠惰をむさぼることこそが、自分にとっての幸せだと理解した。
生きることさえ怠けるようになった彼は、昼も夜もわからぬ闇の中、荒野に寝転んで、誰にも知られず息を引き取った。




