55. 四月、粉雪の空と飛行機雲
天馬に跨り、高度一〇〇〇メートルの空から急降下する籠愛。吹きつける風の中、その顔色は『蒼い炎』の暴走を目撃した直後と変わって紅潮していた。
手塩による激励の効果もある。が、それ以上に彼の心を高揚させていたのは、
(思いついたぞ! あの『青い炎』を無力化する方法を!)
そう、彼は閃いた。彼の異能"空気の支配者"を利用し、キマイラの『蒼い炎』をすり抜ける方法を。
(あの炎は低温によって空気中の水分を凍らせてしまう……が、その空気中の水分子そのものを振動させてしまえば、凍結は起きない!)
物質の凍結は、温度の低下によって分子の動きが遅くなり、分子どうしが繋がってしまうことによって起きる。しかしその分子の動きを操作し、低温下でも気体であるように保てば、空気中の水分の凍結で籠愛が凍らされることはない。
異能力は、自身が存在を認識したもののみ操れる。むろん籠愛に空気中の分子は見えないが、こうした能力の応用のために、天界に存在した走査型電子顕微鏡によって分子を視たことがある。第六感によってその存在を知覚し、意思の力を飛ばすことでそれを操作できる。
(この方法ならば、どれだけあの炎を受けようと凍らされることは無い! 先程のように、背を向けることなどない……一気に突貫し、奴の命を奪える!)
それは喜びであった。犯した失態を、呑んだ屈辱を、返上するための糸口が掴めたことへの。
興奮のまま、ペガサスの横腹を蹴る。白馬が嘶き、力強く羽ばたく。
先ほど撤退した、住宅街のT字路。炎の中心となった、あの怪物が居る場所へ。白き閃光となった彼は、立ちこめる雲を破って、再び「奴」に挑まん――
……とは、行かなかった。
『BRRRRRRRRRR!?』
「……何!?」
ペガサスが突然、高く嘶く。姿勢を崩し、きりもみの回転で籠愛と天馬は墜落してゆく。
「馬鹿なッ……! ペガサス、どうしたというのだ!」
落下しながらも天馬が暴れるたびに、白銀の羽根が舞う。籠愛は必死に手綱を引くが、天馬は言うことを聞かない。もはや制御不能。
このままでは、ペガサスも籠愛も地面に激突して死ぬしかない。そう考えた籠愛は、右手を地面にかざした。
「"空気の支配者"、『大気布団』!」
瞬間、ゴウと辺りの空気が真下に集中する。見えない空気の塊は、柔らかく籠愛とペガサスを受け止め、凍ったアスファルトに静かに彼らを下ろす。
「いきなり何があったのだ……バードストライクか?」
寝かせた白馬の首をさする籠愛の左手に、何か固いものが当たる。目をやると――それこそがまさしく、ペガサスを墜落せしめた原因だった。
「……これは!」
その刃に籠愛は見覚えがあった。
手の平大の、紫色の宝石を、黄金でひし形に縁取ったアクセサリー。その裏に青みがかった金属の刃を取り付けた、暗器。それが天馬の首に突き刺さっている。
はっ、と殺気を感じ、すぐさま籠愛が左に身体を転がすと、彼の居た位置に、それと同じ暗器が突き刺さる。
「素早いのね。さすがは『空の英雄』ヒッポノオス」
「……女狐が。姑息なやり口は変わらないようですね、エキドナ」
上方に羽ばたく黒い影。天空に黒翼を広げる妖女を、籠愛は睨みつけた。
☆
大地に膝をつき、自分を見上げる青年を、恵奈は悪魔にも似た笑みで挑発する。
「天空の英雄も、天馬を無くしては形無しね? 今回は足を折らなかったのかしら」
「……生憎だが、今の私には異能がある。この生涯の友を失おうとも、我が身は空を舞えるのだ。この程度で私の持ち味を殺したなどと思うな。
……だが」
チラリ、籠愛は天馬を見やり、ふたたび宙をはばたく恵奈の瞳を見据えた。
「確かに、わたしは単独でも飛行できる。が、だからといってペガサスとの友情がなくなったわけではない。敵に頼み事などしたくはないが……少しばかり、彼を治療する時間を貰いたい」
「……何を言っているの?」
恵奈が目を細める。
「あなたは敵よ。そちらの有利になるようなことを、わたしが許すはずないでしょう」
「貴女の性格は承知している。無論ただでとは言わん」
そこで言葉を切ると、籠愛は右手でブレザーの胸ポケットをまさぐる。
少し間を置き、籠愛は小指ほどの大きさのガラス瓶をひとつ取り出した。
「これは万能の霊薬ネクタルだ。飲めばどんな病も完治し、患部に塗ればどんな傷もたちどころに元通りになる。これを一本貴方に差し上げる。それでいかがか……
それにペガサスはあなたの叔父であるはず。身内を殺すのはそちらとしても寝覚めが悪いのでは?」
「……ふうん」
籠愛の真摯な視線、そこに嘘はない。騙し討ちをしようという悪意のない、ただ、真に自分の友を……ペガサスを思うがゆえの提案であることを、ヘーゼルナッツのような瞳で彼は語った。
――だが、
「――!?」
パリン、と、落ちた小瓶が割れる。
「……貴様」
籠愛の手のひらを蒼い刃が貫いている。赤い血が刃を伝い、紫の宝石の表面から、凍ったアスファルトに滴り落ちる。
「悪いけど私、敵のカードを返してやるほど甘い女じゃないわ。万能の秘薬だって、超人的な自然治癒能力を持つ私達には不要。
何よりその馬、わたしと血の繋がりはあるけれど面識なんてほぼ無いの。何の愛着も無い。血の繋がりより大事なのは、一緒に過ごした幸せな時の長さじゃなくって?」
恵奈は笑みを浮かべる。不敵にして優雅ですらあるその笑みは、籠愛に一種の決意を固めさせた。
「そうか……ならば、貴様の命の灯を私の風で吹き消すまでだ」
「やってみなさい、できるものならね」
恵奈が空中の何かを強く引いた。
途端、籠愛の身体がふわりと宙に浮く。勢いよく恵奈の方に引き寄せられる。
(あの暗器、ワイヤーが仕込まれていたか!)
籠愛の手に突き刺さった、宝石のナイフから伸びる細いワイヤーが恵奈の腰巻に繋がっている。
「終わりよ!」
恵奈が新たな暗器を投げつける。一直線に籠愛の脳天へと飛んで来る。
(……なるほど、流石は『怪物の母』。だが!)
籠足は冷静沈着。
「この程度!」
彼がそう叫ぶと、ヒュン、と音がし、彼の飛ぶ軌道が変わる。地面から恵奈へと直線的に引き上げられる軌道から、放物線を描いて地面に落ちてゆく軌道へ。風の刃でワイヤーを切ったのだ。
「やるわね。でも!」
恵奈が腰元のワイヤーを強く引くと、最後に投げた宝石から刃が分離する。刃は飛ぶ方向を変え、落下する籠愛のほうへと向かう。
だが、
「……フン」
籠愛はごう、と風が吹かせ、飛来する刃を押し返した。刃は遠い地上に落下してゆく。
「"空気の支配者"、『上昇気流』」
墜落していた籠愛が、風に吹き上げられて上昇する。無理やりに引き上げられた先程とは違い、今度は自分から恵奈の方へ突進する。
☆
(……? どういうつもりかしら)
籠愛の奇妙な行動に恵奈は困惑した。
彼はおそらく武器を持っていない。先刻から彼の戦闘スタイルを見る限り、おそらく彼の能力は風を操るもので、効果範囲はかなり狭い。そんな能力で突貫し、恵奈にどのようにダメージを与えようというのか。
恵奈は不審に思い、
("暗神の瞳"!!)
密かに異能を発動させる。瞬間、彼女の視界に"五秒後"までの映像が早回しで重なる。
接近してくる籠愛の幻影は、一、二秒で恵奈のすぐそばまで至り、そして残りの〇.五秒で交戦――飛び散る鮮血。
が、
(……これは!)
恵奈は驚愕する。
二.五秒後の視界で血しぶきを散らしたのは、籠愛ではなく恵奈だった。籠愛の頭蓋を叩き割ろうと、振り下ろしていた左腕が彼に当たる寸前にばらばらに切り刻まれている。
それから残り二.五秒は悲惨だった。肩口から胴体が「不可視の刃」に散切りにされ、最後に眼球がはじけ飛んで何も見えなくなった。
「…………っ!!」
恵奈は即座に後退する。なおも籠愛は突っ込んでくる。
「ふ、噂の未来予知ですか。カサンドラ姫の真似事とは不遜な……が、それもいつまで持つか」
籠愛が笑みを浮かべて飛来する。恵奈は空中を後退しつつ、頭脳を必死に巡らせた。
(飛び道具はもう通用しない。かといって近づいたら即死……あの『不可視の刃』、どう破ればいいの?)
その思考のように、複雑に旋回しながら翔ぶ恵奈。が、彼女の中には、すでにひとつの選択肢が浮かんでいた。
しかし、
(あの手だけは使うわけにいかない……あれをやってしまったら、私の何より大切なものが失われてしまうかもしれない)
その方法にはリスクがある。それも、彼女のかけがえのないものを、犠牲にしかねないリスクが。
が、それを使えば、ヒッポノオスを確実に葬り去ることができることも確か。それの前では、かの英雄の『不可視の刃』など藁の楯にすら劣る。
(どうする……どうする、どうする、どうする!)
やはりあの手しかないのか。この程度の英雄を前に、あの禁断の手段を開帳せざるを得ないのか?
(……いや、まだ、手はあるはず。あの『刃の壁』には、必ずスキがある……!)
びゅう、びゅうと、突風の吹く音だけが聞こえる籠愛の方を、見えない壁を凝視しながら、恵奈は糸口を探す。白雪舞う曇天の中、見えない刃の、攻防一体の防護壁の弱点を。
だが、何も見つからない。無敵のあの壁には、抜け穴など無い。
「……やっぱり……」
打つ手なし、とあきらめかけたその時。
視界に映る風景に、どことなく恵奈は違和感をおぼえた。
(何かしら……特に、変わったことがあるようには見えないけれど)
風刃の壁を展開して飛行してくる籠愛、それ自体が何か変わったようにも見えない。が、何かがおかしい。何かが違う。
そう感じ、もう一度籠愛の周りを見回したとき――恵奈は、それに気付いた。
(そうか……この手なら!)
蛇女の双眸に、金色の光が灯る。
〇ネクタルカウンター
籠愛:4本→3本
恵奈との交渉に使おうとしたが破壊される。
手塩:3本
麗華:4本
○神話解説
・カサンドラ姫
トロイアの王女。未来を見通す瞳を持っていたが、それを与えたアポロンが自分を捨てる未来を見てしまい、アポロンを拒絶したため、自分の呪いを誰も信じなくなる呪いをかけられた。




