氷雪に舞うангел(アンギル)
「ママ……わたし、ひどいことしちゃった……ううん、ずっとしちゃってたの。りーくんのこと、だいすきなのに、だいすきすぎて……」
地上に降り立った恵奈の胸に、珠飛亜は涙と鼻水まみれの顔をうずめる。
「どうしたの? 落ち着きなさい、いい子だから」
恵奈は頭を撫でたが、珠飛亜は激しく首を振る。
「いい子なんかじゃないっ!」
「どうしたの……珠飛亜ちゃんらしくないじゃない」
「違うの……わたし、ちっともいい子なんかじゃ」
泣きじゃくりながら、珠飛亜は語りはじめた。
☆
「なるほど、そんなことがあったのね」
珠飛亜が語った理里との喧嘩の内容に恵奈はうなずく。珠飛亜は涙目のまま鼻をすする。
「わたし、本当にひどいことしちゃってた。りーくんのことが大好きすぎて……すごく迷惑かけてた……あの子の人生を奪ってた。全部、わたしが、独占しようとしてた」
「……そうね。そうだったわね」
抱きつく珠飛亜の背中を、恵奈は優しくさする。ゆっくり、ゆっくり。
けれど、珠飛亜の感情は治まらない。
「わたし、ダメだったんだ。ずっとりーくんにうとまれてた。そんなことに気付きもしなかった……」
「そうね。はたから見ても確かに、嫌そうな時もあったわ」
恵奈は否定しない。そう聞いて、珠飛亜はより確信を深めた。
「……もうわたし、あの子につきまとったりしない。教室にも行かない。一緒に帰ったりしない。手もつながない。一緒に寝たり、お風呂に入ったりもしない。だってぜんぶ、りーくん『迷惑』だっていうから……そしたら、りーくんが困らずにすむから……」
「……珠飛亜ちゃんは、それでいいの?」
母が、ここで口を差し挟む。
「……えっ?」
一瞬、珠飛亜は思考が止まったようだった。恵奈は抱擁を解き、長女の肩を両手で掴んで、その目をしっかり見つめた。
「『あなた』は、どうしたいの? 本当にそれでいいの?」
「……良い、って言ったんだけど」
困惑する珠飛亜に、恵奈はさらに問う。
「本当? それが本当にあなたの『気持ち』?」
「……意味わかんないよ……わたしは、そうするって言ったじゃん」
「……そう」
珠飛亜の言葉を聞いた恵奈は背を向ける。
「わたしはあなたの『気持ち』に聞いたのだけどね。迷惑をかけないようにとか、『べき論』の話ではなくて、本当のあなたがどうしたいのかを聞いたつもりだった」
「……」
珠飛亜はようやく恵奈の言葉を理解した。
彼女は建前など求めていない。ただ、私の本当の気持ちを、聞きたいのだ。
「……嫌だ」
ぼそり、つぶやいた途端に熱いものがこみ上げた。
「いやだよっ!! わたし、ほんとうはりーくんと一緒にいたい! 毎日いっしょに学校行きたいよ! 休み時間のたびに教室行きたいよ! 手もつなぎたいよ! たまにはデートもしたいよ! ずっと、ずっと、ずっと一緒にいて……毎晩、『おやすみ』を言いたいよっ!」
吐き出して、しかし珠飛亜は首を静かに振る。
「……でもダメなの。それじゃりーくんが困っちゃうの。わたしのこと、うざったく思っちゃうの。今までずっとそうだったから……もう、そんなことがないようにしたいの」
「それは……りーくんに嫌われたくない、って気持ちも入ってるでしょう」
「……うん」
珠飛亜は力なく頷く。
それを聞いて――恵奈は、笑った。
「……やっと本当のこと、言ってくれたわね」
「……?」
珠飛亜はいまだ母の真意が見えない。
視線で問うてくる娘に、恵奈は優しく首を横に振った。
「そこまで思い詰めることないのよ。だって、りーくんは困ってなんかいないんだから」
「……そ、そんなわけ……」
そう、そんなわけはない。珠飛亜は確かに聞いたのだから。『迷惑してきた』と彼が冷たく言い放ったのを。
「確かにりーくんは言ったかもしれない。でも、それだけじゃないのよ。あの子があなたと一緒にいて感じたことは」
「……!」
珠飛亜の目の色が、一瞬変わる。しかしその黒い瞳にはすぐに陰が差した。
「気休め。ママからそういうふうに見えただけだよ。りーくんがそう言ったんだから、それはそういうことでしょ」
「そう? 言葉ほど多くを語らないものは無いと思うけれど」
目を細めた恵奈に、珠飛亜は黙り込む。
灰色の雲を見上げて恵奈は続ける。
「あの子、笑ってたわ。ときどきわたしにその日あったことを教えてくれるのだけど、ほとんどがあなたの話題。もちろん、それだけあなたがりーくんに付きまとってたってことだけど……内容もほとんど愚痴だったし。
だけどあの子、いつも笑ってた。確かに、多少は疲れていたでしょうけど、それでも嬉しかったんだと思う。お姉ちゃんに愛されすぎるのが疲れるなんて、幸せな悩みだってこと……あの子も、わかってたのよ。あの子は優しい子だから、ちょっと腹が立つことがあっても飲み込んでたんでしょう。だって、言ってしまったらお姉ちゃんが構ってくれなくなるかもだし。
けど、今回はその『対価』と『利益』が釣り合わなかったのでしょう。少しのことなら見逃していたあの子も、友達のことにまで口出しされるのは我慢ならなかった。それに加え、今まで『対価』と感じていたストレスが爆発してしまった……あの子の中でのギヴ & テイクのバランスが、そこで崩壊してしまった。
そのポイントはやはり、あなたの『束縛』」
「……束縛」
それについては、珠飛亜も思い当たる節があった。
珠飛亜は、独占欲の強い女だ。好きな男が、他の女を見ることすら我慢ならない。自分の目の届かないところに行ってしまうなど許せない。
いや、許せないというより耐えられないのだろう。それだけ珠飛亜は寂しがり屋だ。孤独が怖いために、相手をいつも目の届くところに置いておきたがる。
「あの子があなたといることに、幸せを感じていたのは間違いない。けれど、多少のストレスがあったのも事実。特に『縛られる』という点においてね。
あなたの気持ちもわかるわ、私もそういうところがあるから。あなたのそういう部分は、わたしの遺伝かもしれない……だけど、それもほどほどにしなさい。
これは女としての忠告だけど、縛り付けようとすればするほど男は逃げていく。彼らはプライドの高い生き物だから、常に自由を求めている。……そんな男が自ら求めてくるよう、優雅にたたずむことを覚えなさい」
「……」
しばらく珠飛亜は黙って、恵奈の言葉を咀嚼した。
自分の罪は『束縛』。愛する弟を、愛ゆえに縛りすぎたこと。恵奈が言うには、それはとても虚しい行為だった。束縛しようとするほど、相手は珠飛亜のもとから逃げ出したがる。
だが、それをどうにかすれば……。
「……許してくれる、かな」
「?」
首を傾げた恵奈に、珠飛亜は顔を上げて問うた。
「りーくん、許してくれるかな? わたしのどこが悪かったのかちゃんと反省して、ちゃんと謝ったら、りーくんも許してくれるかな……?」
その声色は切実だった。誰よりも大切な弟に、もう一度目をかけてもらえるかもしれない光明に、必死ですがりつく彼女の思いが表れていた。
涙目でみつめてくる娘に、恵奈は。
「……ええ。だってあの子、優しい子だから」
元気づけるよう、静かに笑った。
ぱあっ、と。その反応を見た珠飛亜の表情が輝いた。
「……うしっ!」
雪の降る宙に、彼女は右手を握り。
「じゃあわたし、行ってくる! りーくんと仲直りして、一旦家に帰るから! ママも早く帰ってね!」
「ええ……そうするわ」
どこか寂しげな顔でうなずく恵奈に手を振り、珠飛亜はブラウスの背中のボタンを外す。
……次の瞬間広がる、真白な翼。
珠飛亜の居る部分にだけ、灰色の雲間から陽光が差す。降りしきる雪の結晶とともに、純白の羽根が舞い落ちる。
それは、彼女の絶望の闇が取り払われたことを、神が祝福したのか。いや、彼女は神に仇なす者である。最凶最悪の魔神の長女にして、オリュンポスの絶対者たちに抗い、生を得ようとする一匹の怪物。
ならばこの奇跡の光景は……彼の魔神が、己が娘を讃えたものであったのか。
その真相は、世界のみぞ知る。
「ありがとう、おかあさん」
「……!」
少し驚いた顔になった母に、笑顔を向けて。珠飛亜は、愛する弟のもとへ飛び立った。
☆
「お母さん……ね」
地面もベンチも電灯も、何本かの卒業記念植樹も氷に包まれた閑寂の広場。独り残された恵奈は感慨にふける。
彼女は、子どもたちにそう呼ばれたことは無かった。希瑠や理里は『母さん』、珠飛亜と綺羅は『ママ』、吹羅は『母上』(最後のものは呼ばれているヒトの方が少なそうだが)。
呼び名が変わっただけだというのに、少し、娘が大人になってしまったようで、嬉しいような、寂しいような。
(まあ、あの子はもっと、年相応の振る舞いになった方がいいけれどね)
なぜか目元にあふれ出ようとした滴を、人差し指でさっと拭い、恵奈は背筋を正す。
「さて……すぐ帰る、とうなずいたはいいけれど。どうやら、そうもいかないようね」
視線の先、珠飛亜が飛び立った方向より東。怪原家のある住宅街の上空に、飛んで行くもう一つの光がある。
一直線に飛翔するその白い物体の正体を見て取った恵奈は、悪態をついた。
「……今日は、遅くなりそうね」
眉間に皺を寄せた黒翼の蛇が、黒いセメントの地面を打って空へ発つ。