母の覚悟
「やれやれ……なんだってんだ、いきなりよう」
怪原希瑠は冷蔵庫の前であぐらをかいている。
視界は一面の氷だ。怪原家もまた蒼い炎の侵略を逃れられなかった。
「ギリシャ神話に氷の権能を持つ神や英雄は存在しねえ。『全能』のゼウスはそうと言えるかもしれんが……奴らが直接この家を攻撃してくるのは考えにくい。テュポーンの反撃を恐れてるからな……。
この『蒼い炎』、おそらく綺羅だな」
はあ、と希瑠は溜め息をつく。
そんな彼の耳に暖かい息がかかる。
「あの……けーくん? そろそろ離してもらってもいいかしら」
恵奈だ。希瑠より小さく、それでいてかなり大きいその身体は、希瑠の細い右腕に抱き寄せられていた。
「おっと、悪ィ。胸のデカメロン×2と、二の腕のぷにぷに感が気持ち良くてつい」
「殺すわよ」
その台詞が放たれたときには、すでに恵奈の鉄拳が希瑠の脳天を叩き落としている。
「ひどい、ひどすぎる……命の恩犬に……」
希瑠が鼻血を流して倒れた床は氷に覆われていない。彼と恵奈が居るキッチンの周りは、銀色のゆらぎのドームに囲われている。
青い炎がこの家を襲った瞬間、希瑠はとっさに"楽園の王"を発動、物質の『状態変化』を停止させる『欽定法』を結界内に定めた。結果として、ふたりの身体は凍らされなかった。
つまり、希瑠がいなければ恵奈は死んでいたのだが……。
「それとこれとは話が別よ。女の逆鱗に触れたらどんな恩義も消し飛ぶの」
ふん、と鼻を鳴らして恵奈は腕を組む。持ち上がったエプロンの向こうのふくらみを希瑠は盗み見たが、すぐに顔面を踏んづけられた。
「まったく……母親のおっぱいの何が良いのよ」
「母親のでもおっぱいはおっぱいだろ……ぐげっ!」
呆れた恵奈の足がさらに希瑠の顔にめり込む。
その状態のまま希瑠は恵奈に問う。
「……げ? ごぇがあどーしゅんらよ、あえはぎあなんだお」
「ん……確かに、そうでしょうけど」
恵奈はぐりぐりと希瑠の顔を踏みにじりながら、斜め上を向いて考える。
「じょっ、ひゃにゃ、ひゃながちゅぶえう」
悲鳴を上げる希瑠を意に介さず恵奈は思考を巡らせ、
「とりあえず、りーくんたちと連絡を取りましょうか」
白いTシャツの胸元に手を突っ込んで谷間からスマートフォンを取り出す。が、
「あら、圏外だわ」
画面の左上にはその二文字しか浮かんでいない。
「ちっ、電線も無線基地局もやられちまったらしいな」
ようやく足を離された希瑠が寝転がったまま悪態をつく。彼の口から出た聞きなれない言葉に恵奈は首をかしげる。
「無線基地局?」
腕を組んで聞く恵奈に、希瑠はけだるげな顔で説明した。
「ケータイの電波ってのは、一定の距離ごとにある『無線基地局』を介して飛ばされてるんだ。それがやられちまったら通話も何もできたもんじゃねえ。
あとWi-Fiは電線から、そこの電話のところにあるモデム、さらにケーブルで繋がったルーターから来てるんで、その辺がやられちまったら届かねえ。無線機はそれ自体に電波を飛ばすアンテナがついてるから大丈夫だけどな」
「ふうん……でも、うちに無線機はないわね」
納得したらしい恵奈はうんうんとうなずく。
「それじゃあ、あの子たちとは連絡が取れないわけね。困ったわね」
「……ああ」
希瑠も渋い顔をする。
災害時といえるこの状況下で、理里たちと連絡が取れないのは痛い。安否確認もできないし、何より事態への対処に遅れが生じる。
得体の知れぬ英雄やゼウスなどの神々が原因であるという可能性もある。その場合は戦う準備をしなくてはならないし、綺羅が原因であるなら、家族の責任として止める計画を立てなくてはならない。
「ひとまずこの場に待機、が良さそうだな」
希瑠は結界で『青い炎』を無力化できるが、恵奈にはそれができない。ひとりを留守番に置いてもうひとりを捜索に出した場合、恵奈はどちらの担当だろうが無抵抗で凍らされてしまう。現状は希瑠の結界の中で、誰かが帰ってくる可能性が高いこの場所に待機するのが得策だ。
「そうね。それが最も安全、だとは思うけど」
「……けど?」
含みのある言い方をした恵奈に、希瑠は目くじらを立てた。
「まさか母さん、理里たちを探しに行くつもりじゃないだろうな」
「あら、お分かり?」
恵奈は照れ臭そうに言う。が、希瑠はそんな軽い調子にはなれなかった。
「馬鹿も休み休み言え! あの『蒼い炎』に触れたら、母さんは一発で凍らされちまうんだぞ!」
いつになく真剣な面差しで、希瑠は声を荒げる。それは、母の身を真に案じているがゆえの怒りだった。
希瑠は長男。恵奈の初めての子であり、恵奈を最も長く見てきた子どもだ。父が行方をくらました後、女手一つで六人の子どもたちを育てるのに恵奈がどれだけ苦労したか、希瑠は全て知っている。
それゆえに絆も強い。恵奈にかける希瑠の愛情は、兄妹の中でも際立ったものがあった。
「母さんをみすみす死なせるなんて俺にはできねえ。
もし青い炎の発生源が綺羅だとしたら、綺羅は自分の母親を殺しちまうことになりかねないんだぞ! それでいいのかよ!」
希瑠は立ち上がっていた。母よりほんの少し上の視点から彼は母に怒る。
だが、恵奈の笑みは崩れない。
「そうね……けーくんの言うとおりだわ。ほんとうに、ぜんぶ、そのとおりだと思う」
「だったらなんでだ!」
叫ぶ希瑠は冷蔵庫を殴る。戸にヒビが入り、氷とプラスチックがはじけ飛ぶ。
そんな彼を、ふわ、と包む柔らかさ。
「あなたのこと、愛してる。だからあなたの気持ちもわかる。
だけど……わたしは、あなただけの母親じゃないから」
抱擁する恵奈の貌は、やはり笑顔だった。しかし、それはどこか哀愁を湛えていた。
「もしもあの子たちが、どこかで苦しんでいたら……閉じ込められて、寒さに凍えていたら。そう考えるとお母さん、いてもたってもいられないの。手を、差し伸べてあげたいの」
それは"慈愛"の笑み。我が子を愛する母親の、これ以上ない愛の発露。
しかしそれを達成するためには、目の前の子どもから離れなくてはならない。「離れたくない」と願う子どもの前から立ち去らなくてはならないのだ。
「……行かせねえぞ。俺は……俺は、母さんを守ってくれって、父さんに……」
希瑠が、恵奈の躰を強く抱きしめる。その雪のように白い髪を、恵奈は優しく撫でる。
「大丈夫よ、いざとなったら飛んで逃げるから。お母さん、成層圏あたりまでは余裕に行けるもの? 滅多なことでは死なないわよ」
希瑠を安心させるような、明るい声で恵奈は微笑み。彼の背に絡ませた腕を解いて、一歩しりぞく。
「……だったら俺も付いていく!」
「駄目よ。貴方はここで、家を守って。わたしたちの帰る場所を」
「……ずりいぞ……」
希瑠は鼻水をすすり、そっぽを向く。
「……帰って来なかったら、承知しねえからな。父さんが悲しむ」
浮かない顔でぼそぼそとつぶやいた希瑠に、恵奈は微笑む。
「……大丈夫よ。ちょっとそこまで、出てくるだけだから」
下半身を蛇の身体に変化させ、のたくる尾で床を蹴り、リビングの窓を突き破っていった。
穴の開いた窓から空を見上げ、小さくなっていく母の背中を、希瑠はいつまでも見つめていた。
「……父さん。また、俺は……」
☆
「はあっ、はあっ、はあっ」
凍った校舎の廊下に、白い息がもやを作る。珠飛亜の駆け足が床を蹴るたび、床を覆っていた氷が溶けて水しぶきが立つ。
「ど、どういうことなのりーくんっ!? 急に走りだしてっ」
前を走る理里に珠飛亜が問う。
吹羅を探しに行こうと決意したのも束の間、何かを思いついたらしい理里が教室を飛び出した。慌てて後を追った珠飛亜は、理里が転ばないように床の氷を溶かしながら走っている。
「だから、あの人に力を借りるんだよっ!」
「あの人、って、誰ぇ……」
珠飛亜は息を切らして走る。だが、理里はそれ以上答えそうにない。
しかし彼が向かっている方向には珠飛亜は心当たりがあった。
(この先はわたしたち三年生の教室がある1号棟だけど……まさか、りーくん)
珠飛亜の心の中に、暗雲がたちこめる。