心のメイズ
高く、空を飛びたいと思った。
あの、涼風が吹き抜ける青空を。それだけで十分だったのだ。
「ああ……私は……今ごろ、思い出した…………」
雪風の吹きすさぶ寒空を、青年が墜ちていく。
☆
「ふ~っ……」
木製の浴槽に浸かり、理里はため息をつく。底のがたがたした起伏が心地いい。
それなりに豪邸である怪原家のなかでも、この浴室は特に作りが凝っている。壁は全て磨き上げられた黒い御影石、タイルも同じく。二人がギリギリ入れるか入れないかの浴槽は檜で作られており、ほのかに木の香りが漂う。
『風呂は命の洗濯』とどこぞの女性司令官も言っていた。うちの女性司令官もそうした哲学の持ち主なのだろう。
(……にしても本当に、勝ててよかったなあ……)
蘭子との「かけっこ」から一週間が経ち、皆の傷も完治した。この檜風呂で温まる幸せも蘭子に負けていれば二度と味わえなかったわけだ。
と、すりガラスの向こうに人影が。
「りーくん、入ってもいいかな……」
「げっ珠飛亜ぁ!?」
おずおずと確認しながら戸を開け、白いバスタオルを巻いただけの珠飛亜が遠慮がちに入ってくる。態度はひかえめだが行動はまったくひかえめでない。
「タンマーーッ! タオル、タオル取って!」
股間を隠しつつ、理里は自分用のタオルが置かれている脱衣所の方を指さすが、
「えっ、いいの? うふふ、しょうがないなあ……」
何を勘違いしたのか、珠飛亜は顔を赤らめながら彼女の体に巻かれたタオルに手をかける。
「オレのをそこから取ってくれって言ってるんだよ馬鹿ァーッ!!」
「はいはい、分かってるよ~♪ ちょっとからかっただけっ」
理里が叫ぶと珠飛亜は脱衣所に戻り、スポーツタオルを投げ渡す。
「お邪魔しまーす♡」
再び風呂場に入って来た珠飛亜は、木の椅子に座って桶で身体を流しはじめる。ニキビひとつ無いうなじや背中がまぶしく、理里は目を向けられない。
「……で、何の用だよ」
なるたけ平静を装って理里が問うと、珠飛亜はいたずらっぽく笑って振り向いた。
「おねえちゃんが弟といっしょにお風呂に入るのに理由がいる? ……なーんて、さすがにりーくんは鋭いね!」
空笑いをした珠飛亜は、シャンプーのボトルに手をかけて目を落とす。
「りーくん、どう思ってるのかなって。蘭子ちゃんのこと」
「……その話か……」
その名を聞いた途端、理里の表情も曇る。
☆
《前日――二〇一八年四月二十五日 PM12:15》
(よし、今日こそは!)
昼休み、三年八組の教室前。どくどく鼓動を速めながら、入口の前でうろうろ歩き回る少年がひとり。
理里だ。母お手製の二段弁当を抱え、胸に手を当てて時おり教室の中をうかがう。
彼が見ているのはぼけっと窓の外を眺めて弁当をつまむ黒髪ロングの少女。田崎蘭子だ。
土曜日の「かけっこ」決着後、理里が蘭子に言い渡した命令は『友達になる』ことだ。蘭子はそれを承諾した。『友達』になったのだし、理里としてはどうにか仲良くなりたいものである。
その糸口として彼が思いついたのが一緒にお昼を食べることだ。だが誘う一歩が踏み出せない。何せ蘭子とは連絡先を交換する機会がなかったので直接声をかけるしかないのだ。そういうわけで理里は彼女の教室前を徘徊しているわけだが……。
(……やっぱりまた今度でいいんじゃないか? 珠飛亜に見つかると面倒だし……)
心に響く悪魔のささやき。しばらく理里は立ち止まってうんうんと唸り、廊下を歩く上級生が奇異の目を向けて通って行く。二十秒近くそれが続き、
(……よし、今日は帰るか)
理里は自分の奥手さを今日も克服できなかった。
☆
というようなことが続き、理里は今も蘭子に声をかけられないでいる。
ちなみに、理里はこのことを珠飛亜に伝えていない。結局のところ事を成せずに教室に帰っているため、教室で待っている珠飛亜には、すこし席を外しているくらいにしか思われていないだろう。
つまり、珠飛亜が持って来たのはそちら方面の相談ではない。相談だとしたらそれは、もっと前から存在していた、もっと面倒な問題だ。
「わたし、モヤモヤしてるの。今まで友達だった生徒会のみんなが、実は敵で。わたしたち家族みんなの命を狙っていて……わたしたちはそれを迎え撃って、大河君が死んでしまった。正直、いまだに実感が湧いてない。
けれど、心の整理もつかないうちに、今度は蘭子ちゃんと戦って、勝った。その後、りーくんがいきなり『蘭子ちゃんと友達になりたい』なんて言いだして、あの子も認めちゃった。
……なんか、わかんなくなっちゃった」
「……分かんなくって、何が?」
理里は水滴が貼り付いた天井を見て問う。御影石からぽつり、ひたいに雫がしたたる。
泡立てた石鹸を二の腕に塗り広げて珠飛亜は答える。
「……いろんなこと。ランちゃんは友達だった……だけど敵だった。あの子はわたしのことをずっと騙してた。わるいひとだった。そう思うことにしてた。
けど、りーくんにはそう見えてなかった。自分たち家族を殺そうとしてた人なのに、『いい人』に見えてた。『友達になりたい』って思えた。
わかんない……わかんないよ、りーくんのこと。近くにいるのに、見えない壁が邪魔してて、遠くにいるような感じがするの。りーくんのこと生まれた時からずっと見てきて、誰よりも誰よりもわかってるって思ってたのに…………」
涙は出ていなかった。ゆっくりと、珠飛亜が肌に手を滑らせる音だけが響く。
バスタオルの胸元に珠飛亜が手を潜り込ませ、形の良い乳房を寄せたとき、困った顔の理里が口を開いた。
「それはたぶん……珠飛亜の『勘違い』が原因だよ」
「……勘違い?」
眉を寄せて珠飛亜は問う。