35. We, wanna believe 春を往く
西暦二〇一八年、四月二十一日。少し前までこぼれんばかりに咲いていた桜にも、ちらほらと葉が見え始めた、この快晴の日。
まだまだ咲き誇る桜がちらほらと見かけられる山肌。しかしながら先月の豪雨による土砂災害の影響で、いまだに半分が通行止めの滝道に、人影は少ない。
その滝道を辿った終点。大瀑布を望む、滝から距離にして十メートル、滝壺からの高さ約二メートルほどの高台。そこに居たのは、二人の人間と、五匹の怪物であった。
いや……うち一人は、もはや、人間でも怪物でもなかったかもしれない。
「ごぼあああああああああああっ、あああああああああああああああ」
その人は獅子だった。その獅子は人だった。
他人など、世界など、彼女にとってはどうでもよかった。ただ、自分を満たす敵さえ存在すれば。満足に終わらなかった自分の人生を終わらせるに能う、対等の相手と出会うことさえできれば。
世界を滅ぼす魔神が、あるいはその相手かとも思ったが。ついに、直接拳を交わすには至らなかった。弓矢部隊に所属していた彼女は、遠くからあれを狙うことしかできなかった。
彼女の人生は、この四千年近く、常に悔恨と共にあった。太陽神の戦車を牽く獅子として、夫とともに在った時間。これほどの苦痛はなかった。あの、ただ一度の敗北の記憶を、何度も夢に見た。いつまでも拭えなかった。たとえ夫ともう一度勝負し、勝利したとしても、それは消えなかった。そういうことではなかったのだ。ただ、ただ「絶対的な力の前に敗北した」という事実だけが、彼女を苦しめ続けた。
劣等感の地獄から抜け出せないままに、現代に転生し……そこで出会ったのがあの少年、怪原理里であった。
少年は弱かった。とても、とても脆弱であった。蘭子にとっては取るに足らないほどに。象の前の蟻のように。
だが、同時に彼は強かった。能力ではない、その心の在り様が。彼は、大切な姉を守ろうとした時に、家族を守ろうとした時に、はじめてその「強さ」を見せた。
それはきっと、彼にとっては単純なことで。大切なものを守りたいから戦い、そのために怒る。それは、ごくごく普通の、当たり前のこととして彼が認識しているだろうことで。
けれど、蘭子にとってはそうではなかった。度肝を抜かれた。今まで自分にとって「戦い」とは、自分の強さを証明するためのものでしかなかったから。理里のような人種は、英雄の中には腐るほどいたけれど。そんな理由で「敵」として現れたものは、いなかったから。
ああ、この男ならば、あるいは。この男を、この家族を打ち破った時、わたしの心は満足するのではないだろうか。あの苦しみを、乗り越えられるのではないだろうか。
(ああ……そうだ。今、ようやく分かったぞ。だから私は……あの男を、「最後の敵」と定めたのだな)
怪原吹羅……ヒュドラが、言った。「生き物は、大切なものを守るときにこそ最大の力を発揮する」と。
怪原理里のその精神は、際立って他よりも強い。それはおそらく……彼には、家族以外何もないからではなかろうか。
(……いや、奴の事情などどうでもいい)
ここまでは、ほんの刹那の思考。レースが終わろうというこの瞬間になって、走馬灯のように蘭子の脳裏を駆け抜けたもの。
あと、一歩。わずか一歩だ。この身を打つ無限の大激流をぶち抜いて、あの弱くて強い蜥蜴に勝利する。
そう、決意した途端――ふわり、と蘭子の身体が軽くなる。
(何だ……!? 後ろの駄犬が力尽きたか? まあいい、これは好都合……!)
きっ、と前を見定めて。目に見えないゴールを目指す。
迷うことはない。自分をとどめるこの水流に、あの蛇に、駄犬に、打ち勝つ。残り一歩、たった一歩を踏み出す。それだけで、わたしの人生は終わる――
☆
「グオオオオオオオオオオアアアアアアアアアアアアアッッ!!!!」
薄桃色の花の群れに、ちらほらと芽吹く若芽のような。そんな新緑の鱗を纏う蜥蜴が、一匹。前方で水流に耐える蘭子をめがけて、最後の追い上げをかけている。
一歩、二歩、三歩。大地を蹴る度に、ぐんぐんと、動かない蘭子の背が近づいてくる。
目指していた、白い布の帯は既に無く。今は切れ端が、それを持っていた者の手と、結ばれていた橋の高欄に在るのみ。
けれど、そんなことはどうでもいい。いま彼にあるのは、何としても、数十メートル先に居るあの獅子を追い抜くという意志のみ。追い上げて、追い抜いて、大切なヒトたちをきっと守ってみせる。その決意だけだ。
理里は今までずっと、守られてばかりだった。無能力の蜥蜴男として生まれた彼は、自分を守る力など持ち合わせていなかった。
それは、どう足掻いても返せない恩であり、劣等感。永遠に拭えない、心に嵌められた枷。錘。
けれど、今。このレースでなら、理里はその恩を返すことができる。理里ががむしゃらに走ることでしか、勝利することはできないのだから。
(…………)
理里の視界に、あの姉の姿が入る。レースを申し込まれてから六日間、一度として見ることができなかった、あのヒトの顔が。
(いつの間に回復したんだろう……。もしかして最初から、寝込んでるなんて嘘だったんじゃ……)
ふ、と疑問がよぎったが。すぐさまそれは消え去る。
あのまっすぐな、ぱっちりと大きい瞳を見ているだけで。理里の身体に力が湧いてくる。脚の回転がどんどん速くなる。それだけでいい。
あのヒトもまた、理里のために戦ってくれている。全神経を集中させ、「∞」の水流で、あの獅子をとどめようと踏ん張っている。それは、あの獅子を転ばせた末の妹も。あの獅子を縛る妹も。自らの身体を錨にした兄も。後ろでレースの顛末を見守る、母も同じ。
きっと、ここであのヒトたちに応えることが。ようやく始まる、恩返しの、第一歩だと思うから。
理里は走る。ただ、未来だけを、めがけて。




