34. YELL
イラストは澄石アラン(Twitter:@AlanSmiishe)さんにいただきましたm(_ _)m
ありがとうございます!!!!
「さあさあ、あともうひといきだよりーくんっ! 蘭子ちゃんはわたしがなんとかするから、気にしないで走って! 全速力でっ!」
「……ああ!」
応えた理里の目に、キラリ、光る雫。
彼のスピードがいっそう上がるのを見届けた上で。珠飛亜は少し左、蘭子の方に視線を移した。
「……ずいぶんと、わたしの大切な家族をボコってくれたみたいだね。ランちゃん」
珠飛亜は腕を真っ直ぐに伸ばして、かざした手の先の蘭子を睨む。滝壺の底と地面との落差はおよそ二メートル。直径は二十メートルと少し、縁からゴールテープまでは五メートルといったところ。
ゆえに、珠飛亜から理里たち全員の姿が見えているわけではない。たとえばかなり後方にいる恵奈などは、視界に入らない。
それでも、希瑠や吹羅の泥にまみれ、傷ついた姿を見れば理解できる。珠飛亜の知らないところで、想像を絶する激闘が繰り広げられていたことが。
「がぼあっ、ぐばあああっ」
獅子女となった蘭子は、必死に藻掻いている。己をしたたかに打ちつけ、決して前に進ませまいとする激流。それに抗い、あと一歩、ただ一歩を踏み出そうと、全身全霊を懸けている。
その、鬼のような形相を見て。珠飛亜の表情が、暗く沈む。
「……すごく、悲しいよ。わたしたち、良い友達だったはずなんだけどな」
珠飛亜の脳裏に浮かぶのは、ほんの一年前までのこと。当たり前のように、生徒会で蘭子と、蘭子たちと過ごした幸せな日々のこと。
珠飛亜、麗華、そして蘭子の三人は同い年。入学した年の二学期から一年半、生徒会で共に活動してきた。その中で築いた絆の、どれほどに強かったことだろう。
だが、その「絆」はまやかしだった。全ては彼ら英雄が、珠飛亜を監視するために上演していた「演劇」だった。
珠飛亜の知る「田崎蘭子」は、全て作り物だったのだ。生徒会で初めて会ったとき、よろしく、と右手を差し出した、あの静かな笑顔も。顧問の先生に叱られて泣いていた時、暖かく抱き寄せてくれた、胸のぬくもりも。お世話になった先輩とのお別れ会で、普段クールな彼女が初めて見せた、あの熱い涙さえも。全てが、珠飛亜を欺くためのにせものだったのだ。
「……さよなら、蘭子ちゃん」
蘭子を押しとどめる水流が、いっそう強まった。
☆
激流を受け続ける蘭子のすぐ隣。彼女の巻き添えを食らい、自分もまたその流れに呑まれかけている英雄が、ひとり。
手塩御雷、その人である。
「馬鹿な……滝壺には先ほどまで、誰も居なかったはず! いったい、どこから現れたというのだ……!」
レースが始まった直後に、籠愛によってここに降ろされてから一〇分と少し。特にすることもなかった手塩は、柚葉市随一の名所であるこの大滝をずっと眺めていた。しかしながら、その中に人影はおろか、魚一匹として見かけた覚えはない。
だというのに、怪原珠飛亜は唐突に、滝壺のど真ん中に現れた。いったい、どういうカラクリがあるというのか。
(……いや、そんなことを気にしている場合ではない)
手塩は思い直す。今は、この水流から逃れることの方が重要だ。もちろん、ランナーの蘭子とともに。
「蘭子さん! 私の手を、取ってください!」
足を踏ん張りながらも、手塩は左腕を蘭子の方に伸ばす。水しぶきが横っ面に当たって痛い。
だが、蘭子は。
「邪魔を、するなっ! わたしは証明、しなければならないのだっ……何者にも負けぬ、最速の英雄であることを! "神速の乙女"、であることをっ」
大質量の水流に打たれてなお、蘭子は闘志を失っていない。獅子人間と化し、光に覆われた肉体で、彼女は抗いつづけている。
強靭な肢体は、少しも退かず。依然、あと一歩、たった一歩で辿り着くゴールを、目指していた。
しかしながら、ゴールテープはもはや其処にない。水流によって切れてしまい、手塩の手にわずかな切れ端が残るのみ。
「証明しようにも、もうゴールがありません! 試合は無効です! 一度退却して、態勢を立て直すのです!」
手塩は叫ぶ。平時の数倍にもなる大瀑布の轟音に負けぬよう、あらんかぎりの声で。
彼とて蘭子の身を案じている。彼女は、手塩がこの世に転生して十六年と少し、同じ柚葉市担当の英雄として、共に闘ってきた戦友なのだ。そんな彼女が勝負に敗北し、姑息な怪物の言いなりになる光景など、見たくはなかった。
――だが。
彼の懇願は、そこで止まることとなる。
「……っ!?」
襲い来る激流に対し、なんとか耐えていた手塩の身体が、右側に弾き飛ばされた。
「ぐわあっ!?」
二メートルほど宙を舞い。今は閉まっている、みやげ物店のシャッターに衝突し、ようやく手塩は止まった。
「っ……くっ」
背中の痛みに耐えながらも。手塩の心には、疑問が浮かんでいた。
(なぜだ……なぜ、私は外側に飛ばされた!?)
そう。蘭子を阻もうとする水流は、蘭子に向かって、まっすぐに流れていた。それは巻き添えを食った手塩に対しても同様のはずだ。
となれば、通常であれば、手塩は後方に押し流されるはず。だというのに彼の身体は、右側に弾き飛ばされたのだ。
理解が追い付かないまま、顔を上げ。視線を蘭子に戻した彼の、視界に入った光景に――その答えが、在った。
「なんだ……何だ、これはっ!?」
☆
(ふふ……珠飛亜ちゃん、わたしが考えた技を使ってくれてるみたいね)
珠飛亜と蘭子が攻防を繰り広げる、ゴール地点より百メートル近い後方。そこで、恵奈はうつ伏せに倒れたまま、満足げな笑みを浮かべていた。その、あたたかな視線の先に在るものは――
"8"。"8の字"だ。滝壺の水、また滝から流れ落ちてくる水を全て使って作り上げた、巨大な横倒しの「8の字型」の水流。
蘭子が水流に打たれているのは、「8」というアラビア数字の、上下の「○」と「○」が重なる中心部分である。蘭子にぶつかった水流の言わば「本流」は、そのまま後方に流れていくのではなく、大きく左右に湾曲し、それぞれに円を描いて元の流れに戻る。
また、滝から流れ落ちる水もまた、続々とその流れに加わっていく。時間が経つほどに水の量は増加し、水流の威力もまた上昇していくというわけだ。
「滝」という地形を利用した、まさに永劫、無限の大激流。それらの言葉を象徴する、己が尾を食む龍の名を冠した技の名は。
("菫青晶の舞付師"、無限大瀧撃陣)
そう、心の中で。自分が名付けてやったその名前を、恵奈は呼ぶ。
(とりあえず、ここまでは計画の範疇……けれど)
考えて、恵奈は蘭子を見やる。
よもや、蘭子が「獅子化」などという"ドーピング"を使ってくるとは、さすがの恵奈にも想定外だった。そしてそれが、吹羅の"穢れた世に生まれ堕ちた嬰児の奏でる旋律は、仄暗い概念と確かな唯物論を覆す"が効かない代物であったことも。
結局のところ、勝負の行方はまだ分からない。
希瑠と吹羅、そして珠飛亜の三人がかりで、どうにか足止めしようとしてはいる。さしもの蘭子もそろそろ力尽きて良い頃合いだ。
だが、蘭子は蘭子である。これまで恵奈が用意した計略を、ことごとく打ち破ってきた女だ。加えて、「獅子化」によるパワーアップもされている。どちらに軍配が上がるかは、依然として不確定だ。
(人事は尽くした。あとは天命を待つばかり……あ、わたしたちは人ではないけれど)
もはやこれ以上の策は無く、身体も動かない。恵奈にできることはもう何もない。
――だが。恵奈の瞳から、輝きは消えない。
(ここまで来たら、最後まであの子たちを信じるわ! だって……)
そこで、恵奈は。激走する理里の、翠色の背に目を向けた。
(……あの子たち姉弟の力は、"∞"なんですもの!)
そう、心から、誰より強いエールを送るのは。一番近くで彼らを見てきた、まぎれも無い彼らの"母親"だった。




