33. Cutie Trickster
「言ってくれるな、糞餓鬼ィ……!!」
蘭子の眼が怒りに燃える。露わになったひたいに皺が刻まれる。
「犬っころとミミズ如きに、このわたしが足止めされて、なる、ものか……!」
傷だらけの身体。アバラが折れ、宝石のナイフが数本突き刺さり、その他恵奈と希瑠の追撃による幾多の負傷。
だが、それでも蘭子はまだ動く。
確かに理里は今も追い上げつつある。しかしながら、彼女はゴールまであと数歩手前の地点まで差し掛かっている。あと五メートル、たったそれだけの距離を進むだけで、勝利を得られるところまで来ているのだ。
ならば。
「わたしは……負けない……!」
己に言い聞かせるように、蘭子は声に出して言った。
「わたしは……負けないのだ……! わたしは"神速の乙女"……! どんな妨害を受けようとも、それら総てを打ち破って勝利する、この世で最速の英雄なのだ……!」
それだけが蘭子のアイデンティティ。唯一無二の、誰にもひけをとらない力。
「それを証明するまで……わたしは、立ち止まるわけにはいかない!」
蘭子の全身に万力が籠もる。筋肉は膨れ上がり、どうにか身体を前に進めようと、拘束する白い蛇を引きちぎらんばかりの勢い。
そして……その身体が、前進する。
「なっ……!?」
希瑠と吹羅の目が見開かれる。
希瑠の足と尾は、地面に沈み込んで杭のように希瑠の身体を固定していた。だが……地中に埋まったそれら全てが、ゆっくりと前進している。四本の足が、三本の尾が、アスファルトを、その下の土をかきわけて、徐々に前に進みつつある。
「馬鹿なッ……! この、女っ」
吹羅の蛇は、いまだ千切れてはいない。かなり限界がきてはいるが、切れそうになる度に、不死身の再生能力で組織を補強し、どうにか蘭子を縛り続けている。
つまり。蘭子は地面に固定されていた希瑠を、そのままの状態で動かすに至ったのだ。
「あと、少し……! あと少しなのだ…………! あと、ほんの数歩で、わたしの人生が終わるのだ……! これしきのことで、足を止められてなるものかァ――ッッッ!!!!!!!」
蘭子は進む。六トンにも及ぶ「錨」を、最後の力を振りしぼって牽き、着実に、ゆっくりと脚を動かして、じりじりとゴールテープに向かう。
理里はいまだに追い付けない。今もなお全力疾走を続けるが、蘭子に追い付くには至らない。
ひとり後方に取り残されていた恵奈は、ついに力尽き倒れてしまった。もはや蘭子を止めることは、誰にもできない。
「はあ、はあ……! さあ、見ろ、今度こそ、私の勝ちだ――!!」
最期の一歩。対して、理里はゴールまでまだ三〇メートル以上ある。
「ちくしょおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっっっっ!!!!」
理里が慟哭の叫び声を上げる。希瑠が牙を嚙み締める。吹羅の肌から血の気が引く。恵奈の表情が固まる。手塩の口元が、不敵な笑みに歪む。
「終わりだああああああああああああああああああああッッッ!!!!」
勝利を確信した蘭子が、今、最後の一歩を踏み出さん――
「"菫青晶の舞付師"――――ッ!!!!!!!!」
「……何?」
ついにゴールに至らんか、というその時。滝壺に、声が響き渡った。
それは――少年らしさを含む、少女の声。
そして、次の瞬間。
「なっ……ああああああああああああああ!?」
あと数センチでゴールに至っていた蘭子を襲う、大量の水の奔流。
滝だ。垂直に流れ落ちていた滝の水が、全て蘭子に向かって注がれはじめたのだ。
……いや、よくみると滝の水だけではない。滝壺の水が全て、一筋の激流となり、蘭子の前進を止めている。
「なんだ、これはっ……! この、能力は、まさか……ぐぼぉっ!」
自分を打ち付ける激流に抗いながらも、言葉にならない声を蘭子が上げたとき。あの声の主が、ついに理里の目に入った。
「嘘……だろ……!」
水を吸い上げられ、ほぼ空になった滝壺。その中心に、両手を前方にかざしてたたずむのは――
おでこを出したボブカットがよく似合う、面長な美少女だった。
「お待たせ、りーくんっ! お姉ちゃんが、助けに来たよっ!」
パチリ、とウインクを決めた彼女は。まぎれも無く、怪原家の長女にして、「智慧持つ獣」スフィンクス――
そして何より、理里の姉。怪原珠飛亜が、今ここに参上した。




